Γ の無矛盾律論とその方法 Irwin (1988) AFP, ch.9
- T. H. Irwin (1988) Aristotle's First Principles, Oxford University Press.
- Chap.9. The Science of Being. 179-198.
Γ の読解.
97. 普遍学の諸論証
B, 996b26-997a15 では,公理の学と実体の学が同じかどうか,どちらがどちらに先行するかが問われた.公理は実質的パズルでは言及されていないが,まさにそれゆえに〈あるもの〉の学知のテストとして有用である.実質的パズルの場合は達するべき結論について予め合意できないし,学知の結論によって学知の方法をテストすることもできないからだ.その一方で,公理は誰もが真だと認めており,それを用いてもいる.だから,学知が何を示すべきかについては合意できる.むしろ,公理は極めて基礎的なので,それについて何を示しうるのかが明らかでないとも言える.
アリストテレスは,普遍学は〈あるもの〉としての〈あるもの〉を研究するのだから,実体と公理の両方を研究すべきだと主張する (1005a19-b8).公理の擁護は,〈あるもの〉としての〈あるもの〉について論じるとはどういうことか,それは学問的な議論と言えるのか,を示すはずである.この点について納得できれば,より論争的な実質的パズルに議論が適用される仕方ないも理解できるかもしれない.
個別科学は本質的属性をもつ主題的対象を所与とする.実体を研究する普遍学は,そうした主題的対象を前提しなければならない理由を説明する.その最初の一歩が,そうした対象が諸公理を満たすことである.諸公理は〈あるもの〉としての〈あるもの〉についての最も一般的な真理であり,「〈あるもの〉としての」は「科学が前提すべき主題的対象としての」を含意するので,アリストテレスは公理が真であるということを第一哲学が論じうると示そうとする.彼は PNC に集中する.
PNC の擁護は第一哲学の方法のテストとなる.PNC は論証不能だからである (1006a5-11).他方で単に問答法をして済ませることもできない.そこで彼は「論駁的論証」を標榜する (1006a11-15).
98. 無矛盾律の擁護
アリストテレスは論敵 (opponent) O を想定する.O は主項が属性とその否定を共に有することが可能だと主張している.アリストテレスの目的は,O がこれと反対の主張に肩入れしていると示すことだ.アリストテレスと O は個別諸科学が前提している何ごとかについて論じているので,これは〈あるもの〉としての〈あるもの〉に関する議論である.O とアリストテレスは科学が属性をもつ主項を前提することは同意しているが,O は PNC を前提するという点については反対している.これに対してアリストテレスは,PNC を前提しなければ探究の対象がないということを示す.
「何かがあるか,ありはしないかであることが相応しい」と語ることは,全てのそうした事柄に対する手始めではなく (というのも,このことは直ちに,初めから要求することである,と想定しうるから),むしろ彼自身や他の人にとっても何かをとにかく意味表示しているということがそうであるから.というのも,およそ何ごとかが語られる限り,それは必然だから.というのも,さもなければ,そうした人にとって議論はないだろうし,そうした人にとっては,それ自体に関しても,他の事柄に関しても〔議論はない〕だろうから.これを認めるとすれば,論証があるだろう.というのも,すでに何かが規定されているだろうから.(1006a18-25)
アリストテレスは O が前提しているはずのことから論じる.まず O は以下の点に同意しなければ自分の立場を言明できない:
- O は何かを,性質 F ないし non-F を帰属する主項 S を意味表示していなくてはならない.
- F と not-F は矛盾しており,ゆえに同一でない.同一だとすると O のテーゼは意図しない瑣末な真理になる.
- O が両方の属性の主項とするのは同じもの S である.
「O ならば (上記の前提),かつ (上記の前提) が真ならば O は偽.ゆえに O は偽」というのが論証の構造である.
アリストテレスは O が人間を意味表示するものとする.そして「人間」が何を意味表示するのかを O に訊く.それが二足の動物を意味表示すること,それが「人間にとっての〈あること〉」であることに両者は同意する.「私が「一つのものを意味表示する」と言うのは,次のことである――これが人間であり,何かが人間であるとすれば,それは人間にとっての〈あること〉である」(1006a32-34).
変化により矛盾する述語が帰属する場合を考えれば,この一節の重要性がわかる: 変化を通じて不変な属性が主項に属さなければならない (それほど強い本質主義は必要でない).
また,無矛盾律の否定者は「S は F であり,かつ S は非 F である」と言う際に同一の S を (したがって同一の本質的属性を) 表示しなければならない.以上で前提 1 と 3 は分かる.前提 2 は O の意図を汲んだものである.
前提は不整合である.(1) PNC の全実例を否定するためには,O は同じ主項である人間が任意の属性について矛盾を持ちうるとしなければならない.(2) すると O は自分が人間の本質を表示していると認めなければならない.(3) 人間は本質的に F なので,F でないものは最初に「人間」が表示したものと異なる必要がある.(4) しかるにこれは同じ主項であるという前提 (1) に矛盾.
99. 無矛盾性から本質と実体へ
アリストテレスの O 批判は公理擁護と実体論のつながりを明らかにする (1007a20-b1).O の立場が掘り崩されたのは,本質と実体を認識しそこなったからなのだ.
O は本質的属性を拒否しなければならない.全ての属性について,主項がそれを欠きうると言える必要があるからだ.しかし O は本質を暗黙的に拒否することで,そもそも単一の主項を持てなくなる (1007a33-b1).
アリストテレスの PNC は,主項と本質を認めるべき理由を示している.だが,主項の種類は明言されない.個体か普遍か,実体か非実体か,に議論は無関係である.また本質的属性が選言的であったり時間的に指標づけられていても議論は成り立つ.アリストテレスはここで主項と本質についての彼の見方を擁護しているわけではなく,〈あるもの〉としての〈あるもの〉についての一般的観点から未規定的な結論しか出していない.
100. 論証の問答法的性格
アリストテレスは PNC 擁護が論点先取の危険を含む点に気づいている.実際以上の議論は同じ主項が属性を有しかつ欠いていると前提しているように見える.
それで問題はない.O が論点先取をしていると言え,それゆえ問答法的異論を回避できればよいからだ (1006a15-18).O 自身が PNC を前提しているなら,それが前提されていることに文句を言うことはできない.
実際アリストテレスは O に論点先取をさせているのであり,彼自身の資格において同じ主項が属性を有しかつ欠いていると前提してはいない.しかし,本質的属性についてのこの前提を拒否すると,O が同じ主項について語っていると言えなくなる.
というわけで,この議論は通常の ad hominem な問答法に見える.PNC の前提にもし O が気づいたら成立しないという反論も予想される.だが,そうではない.議論は通常の対話と異なり対話者の偶然的要因に左右されていない.O は最も極端なケースであり,O が PNC を受け入れるなら誰もが受け入れるだろう.また O は,主項を表示しそれに属性を帰属するということを拒否しない限り,最初の諸前提に譲歩せざるを得ない.
したがって,O の論点先取は,議論が単に ad hominem で特殊な対話者の信念に依存するということを示してはいない.O のなすような譲歩は誰もがなさねばならない.その譲歩を拒否する人はコミュニケーションを試みない植物に等しい (1006a11-15, b5-9).
101. 結論の地位
アリストテレスの議論は,論証となることや,疑う人に PNC が真であると示すことを意図しない (おそらく本当に疑っている人はいないから).それでも,PNC が真だと信じる理由は提供している.PNC が任意の合理的探究において前提されているということを納得させるからだ.これによって信念が生じる必要はないが,PNC を論証なしに受け入れて良い理由はわかる.
アリストテレスは PNC が論理的に偽ではありえないと示してはいない.合理的探究が前提するような主項があるとするのは間違いかもしれないからだ.議論は客観的現実に関する我々の信念に PNC が果たす役割に訴えている.それでもその議論は,PNC が客観的現実について真であることを擁護する議論にはなっている.この限りで結論は実在論的であり,前提が結論の否定と無矛盾ではあるが,議論としては成り立っているのだ.
何の成立に PNC が必要なのかをアリストテレスは明言していない.すなわち,(1) 有意味な思考・言説か,(2) 諸主項についての言説か,それとも (3) 事物がどうあるかについての言説か.だが,〈あるもの〉の学知における議論の位置づけとしては,(3) が最もふさわしいだろう.(O は主項についての信念を否定して属性事例のみについて語ることで議論を拒否できる.この論点はアリストテレスはここでは触れない (懐疑論に関する議論で触れる).)
こうした意味で PNC 擁護は強い問答法であり,単なる日常的信念からする議論より根拠がある.一方ここから,議論が自明に真だとか論理的に必然だとは言えない.議論が問答法的であり,かつ単に問答法的であるわけではない理由は,このようなものである.
102. プロタゴラスと〈あるもの〉の学知
プロタゴラス批判でアリストテレスは彼の実体観を擁護する.アリストテレスによれば,主項は本質を持ち,その本質はプロタゴラス説とは相容れない種類のものである.
プロタゴラスは対立する現れの問題から議論を始める (1009a38-b12).彼は懐疑主義的なデモクリトスと違って,現れは本当は対立していないのだと論じる.アリストテレスの見解では,プロタゴラスは〈ある〉限りの〈あるもの〉の説明を与えている.つまり主観主義者でも懐疑論者でもない.プロタゴラスはこうした立場を避けようとしている.しかし一方で,こうした立場に与しなければならなくなるような譲歩をしているのである.アリストテレスは PNC 否定論者はもののあり方を説明すべきだと考えており (1008b3-5),プロタゴラスにもそれを要求する.
こう考えると,プロタゴラスが流動説に与するとアリストテレスが判断する理由もわかる.感覚の不可謬性を言うには流動説が必要なのだ (1010a7-9).このとき感覚は純粋に瞬間的なものについて正しいことになる.もちろん流動説は正しさを確証するわけではないが,疑う根拠がなくなる.
103. プロタゴラスへの応答
アリストテレスは流動説の主項観を検討し説明の不備を指摘する: 流動説は主項の同一性を説明できない (1010a23-5).全ての点で変化するなら,もはや本質的属性を保つことはできない.〈ある〉限りの〈あるもの〉はプロタゴラスが帰属するような性質を持ちえないのだ.またプロタゴラスが外的実在を感覚者に依存させているのも主項を無視しているためである.実際には感覚対象が感覚に先立たねばならない (1010b30-1011a2).そして,対象が感覚されることを説明する安定的性質 (潜在性) を,対象は持たねばならないのである.プロタゴラスはこれを放棄している.この議論は,持続的主項を認めないと何が失われるかを示している.
104. 懐疑論と〈あるもの〉の学知
一方で,アリストテレスのプロタゴラス批判は,依然ラディカルな懐疑主義の余地を残している.対立する現れのどちらを選ぶべきかを選ぶことはできない (cf. Sext. Emp. PH I.8, 10).アリストテレスは従前の論敵の批判を免れる立場として懐疑主義を想定しているように見える (1011a3-16).進んで植物の状態になろうと欲する人々を彼ら自身の前提に基づいて論駁することはできない.同様に,プロタゴラス説が実在の本性を叙述しているという主張を諦める改訂プロタゴラス主義者にも,従前のプロタゴラス説批判は効かない (1011a17-20).
105. 懐疑論への応答
アリストテレスは懐疑論者の整合的な立場を認めており,懐疑論者の前提に依拠しつつ論駁することはできないとも認めている.しかし論駁できないわけではない.アリストテレスによれば,実際には対立する現れも一方を選ぶべき十分な理由があるのだ (1010b3-11).これは単なる教条主義ではなく,論敵が正当化について誤った見方をしているという主張である.論敵は論証を求めるべきでないところで求めているのだ (1006a5-11, 1011a3-13).この不合理性に気付けば,論敵は自らの異論を取り下げるだろう (1011a11-16).懐疑論者が受け入れている基準は自明ではなく,懐疑論者ならぬ我々を説得できない.アリストテレスは単に懐疑主義の帰結を批判しているだけではなく,前提を吟味しており,これは正当な手続きと言える.
106. 第一原理の知識
一方で,前提が単なる通念に依拠しているだけなら,懐疑論者の非難はもっともだと思われる.アリストテレスはそうでないことを示さなければならない.問答法と哲学の対比からして,(a) 議論が純粋に問答法的だということはありえない.すると議論は (b) 本質的に直観に訴えるものか,(c) 強い問答法を伴うかのいずれかである.
アリストテレスは全てに論証を求めるべきでないとする点で基礎付け主義を擁護しているのかもしれない.実際 APo. では推論的正当化なしに基礎的信念として何かを受け入れねばならないとされていた.Γ でも同じような主張がなされている可能性がある.
しかしそうすると,ὑποθέσεις に対する懐疑論の余地が残る (cf. Sext. Emp. PH I.168).前提が恣意的に思われるのである.また自明な基礎づけに訴えるなら,第一原理を探究する〈あるもの〉の学知の方法を理解するのは困難になる.
したがって APo. の正当化観を斥けるべき理由がアリストテレスにはある.実際 Γ では基礎付け主義的教説に依拠してはいない.Γ の議論はむしろ循環的である.それでも,それの何がまずいのかを示さなければならないのは,懐疑論者の方である (APo. では全ての循環論法が問題だとされている).Γ の結論はそれゆえ問答法に依拠している.しかし制限付きの基本的な信念集合に基づいているので,強い問答法である (この点こそ問答法と哲学を分かつ点である).強い問答法の前提を拒否すると,客観性と知識の可能性を全て否定しなければならなくなるのだ.
このようにしてアリストテレスは B の方法論的パズルに応答したことになる.彼は〈あるもの〉の学知のスコープと方法を叙述し,それがどう第一原理を示すのかを論じている.それゆえ彼は,二階の学知を求める動機となった実質的パズルに向き合わなければならない.
Γ は実体についての論者が何について論じてきたか,特定の実体論を受け入れうる基準は何かを示唆している.〈あるもの〉の一部を探究する学知は,本質的属性を有する持続的主項を探究する必要がある.ゆえにプロタゴラス的ないしヘラクレイトス的実在観は排除される; 可能態の存在を認めなければならない.そういうわけで,実体の最良の候補は,こうした条件を満たさなければならない.これを見つけたとき,A で求められていた学知が得られたことになる.