相対主義批判としての περιτροπή Burnyeat (1976) "Protagoras and Self-Refutation in Plato's Theaetetus"

  • Myles Burnyeat (1976) "Protagoras and Self-Refutation in Plato's Theaetetus" The Philosophical Review 85(2), 172-195.

  • 本論文は Sext. M 7.389-390 を論じた Burnyeat (1975) の続編.
    • セクストスは尺度説を主観主義と解し自己論駁的だと論じた:
      • 「全ての現れが真なら,同時に全ての現れが真ではないと現れているので,全ての現れが真であるわけではない」.
      • この場合どう περιτροπή (自己論駁) になるのかが問題になる.
        • Burnyeat (1975) では,主観主義に異論が存在することは前提されていると理解すればよい,と論じた.
  • だが,実際のプロタゴラスは主観主義者ではない.Burnyeat (1975) では,より権威ある Tht. 解釈では,彼は「判断者にとって真である」と主張したものとされる.
    • その場合自己論駁の批判はどうなるのだろうか.
  • Tht. 171ab.
    • 一見するとこう読める: (A) 全ての判断が真であり,(B) (A) が偽だと判断されるなら,(C) (A) が偽だということは真であり,ゆえに (D) (A) は偽である.
      • この場合「現れ」でなく「判断」であること以外セクストスと同じ.
    • だが実際は:
      • (M) 全ての判断は当の判断をする者にとって真である,
      • (N) (M) は偽だと判断されている.
      • (O) (M) は偽であると判断する人にとって,(M) は偽である.
    • ここまでだとプロタゴラス自身にとって (M) が偽であることにはなっていない.ゆえに自己論駁的でない.
  • プラトンがしばしば「にとって」を落とした書き方をしていることは批判されてきた (Grote, Vlastos).
    • しかし,単なる不注意で片付けてよいのだろうか.
      • 表層的批判 (161c-164b) に対するプロタゴラスの再反論 (166a-168c) があったあとでテオドロスが出てきてなされる議論だということを踏まえると,なおもっともらしくない.
      • 加えてプロタゴラス自身が与する考えの吟味であるとも強調されている (169de).
  • より直接的な文脈を検討するところから始める:
    • (1) プロタゴラスが『真理』を信じていなかったか (その場合誰にとっても真理ではない) (170e7-171a1),(2) 彼は信じていたが,大多数は信じていないか.
    • (2) の場合,
      • (a) 信じていない人が多ければ多いほど,そのぶん真ではなくなる.(171a1-5)
      • (b) περιτροπή 論証−−ここから (1) と同じ結論になる (171c5-7).
    • この文脈は,相対化の修飾句の除去に依存しない批判が意図されている証拠になる.
  • 170a の定式化は: (P1) x に p と思われるなら,x にとって p は真.
    • 同時にプラトンプロタゴラスが以下にも与していると考える:
      • (P2) x にとって p が真なら,x に p と思われる.i.e.,
      • (P3) x に p と思われないなら,x にとって p は真でない.
        • Cf. 152b. 単なる (P1N) ではない: x にとって ¬p が真なら,x に ¬p と思われる.
    • 既に (1) で (P3) の事例が用いられている.
  • だが,なぜ理論は自身に適用されねばならないのか,を問いうるかもしれない.
    • プラトン自身は Sph. 244bd, 252c でも理論の自己への違反を突く議論をしている.
    • 自己適用可能性に関する問題を措くとしても,「誰も信じなければ誰にとっても真でない」はなぜ反論になるのだろうか.
  • 答え: プラトンの考えでは,相対主義がある人にとって真でなければ,それは当人の判断について成り立たない:
  • ここで「にとって真である」とはどういう意味か.
    • 「に真と思われる」と同義と考えるべきではない (pace Passmore, セクストス).同義だとすると (P1),(P2) の重要性を説明できない.
    • むしろプロタゴラスは真理の理論を提示している.そして真理の理論は判断を世界とつなげねばならない.
      • プロタゴラスの場合,当の世界が個々人に相対化される.
        • この考えを真面目に受け取った結果が流動説である: 各人は真なる瞬間的現れの連続からなる私的な世界に住んでいる.
      • したがって S2 をパラフレーズすると:
      • つまり,ソクラテスに p と思われることが,ソクラテスの世界における真理の十分条件でない.同様に ¬(P3S) から必要条件でもない.
        • 尺度説を信じていない人全員にこれが当てはまる事実は尺度説にとって問題となる.誰もがそれが必要十分な世界に生きているというのが尺度説の想定だからだ.
      • したがって (1) の場合は完全に自己論駁的.
      • 一方このとき,プロタゴラスは他の人が相対主義的世界に生きていない可能性を認める必要がでてくる.
        • これが (2a) の論点.
          • 結論がたんに「より多くの人々に真」か,「絶対的により多く真」かであいまい.後者だとするとすでに相対化を緩めてしまっていることになる.とはいえそれでも,プロタゴラスが矛盾に陥るというもとの論点自体は正しい.
  • この文脈を踏まえるなら,(2b) の (O) がそれほど無害かどうか疑わしい.(M) が万人の信念に妥当する理論を意図しているなら,(O) が帰結することから,(M) は自己論駁的である.
    • (A) を (M) と理解しなければ,ソクラテスのみならず反対論者全体がプロタゴラス説と無関係な主張を行っていることになる.また一旦相対的な真理について述べていると理解するなら,全体をそう理解すべき.
      • ここで問題になっているのはプロタゴラスの「真」「偽」の用法であり反対論者のそれではない; (B) (N) は絶対的でよい.
  • 以上の解釈は περιτροπή が中間的 (interim) 結論しか導かない理由を説明する.
    • プロタゴラスによってもプロタゴラスの「真理」は争われる」と 171c5-7 で結論付けられる.これを言うために,プロタゴラスを他の反対論者に合流させるのが περιτροπή の役割.
    • もしここで「端的に」偽だと述べているとすれば,論駁は b2 で終わっていることになる.
      • だが,実際は終わっていない:「プロタゴラスにとっての」(171a6: μὲν) 反対論者の意見が「反対論者にとっての」反対論者の意見 (171b4: δέ γ᾽) と対比される.
        • Burnyeat 解釈では: プロタゴラスは,「尺度説が端的に偽だという主張が端的に真だという反対論者の判断が,当の反対論者にとって正しい」と認めなければならない.
        • さらに Burnyeat 解釈は 171bc の役割を説明する: (D) の内容が「反対論者にとって偽」なら,プロタゴラスにとってどうかを説明する必要が当然に生じる.
    • 171b9: プロタゴラスは反対論者が真なる判断をしていると認めてしまった結果,反対論者がプロタゴラス的尺度でないと認めてしまっている.それゆえ尺度説 (M) はプロタゴラスにとっても真でなくなる.
  • きちんと言うには 170c 以降の文脈を全て扱い,修飾句を抜かす他の箇所と比較検討しなければならないが,それはここでは試みない.
  • 代わりに,(M) に関する以上の議論が無害でないという点についてもう少し敷衍する.
    • 以上の議論は, 尺度説が万人の判断に妥当する理論を企図することを前提してきた.
    • さて,「何かを主張するとは,何かが真だと主張することだ」とよく言われる.それはその通りだが,それを用いることでプロタゴラスに対する論点先取に陥らないよう注意する必要がある.
      • プロタゴラスが「尺度説はプロタゴラスにとって真だ」と言っているだけだと応答する可能性を検討しなければならない:
        • (MP) 全ての信念はその信念をもつ人にとって真である,ということはプロタゴラスにとって真である.
    • 171d: ソクラテスの皮肉.眼目は「プロタゴラスは問答法的議論に従うことを拒否することでしか応答できない」ということかもしれない.
    • しかしさらに言えば,独我論によって主張を維持できるかさえ疑わしい.プロタゴラスは実は (MP) を絶対的に主張しているからだ.
      • 尺度説を二度適用してしまわないためには,尺度説自体は絶対的に主張されねばならない:「x is F」が a にとって相対的に真 iff.「x is F for a」が絶対的に真 (翻訳原理).
        • 「a にとって x is F は真」と「a が x is F と判断する」の結びつきがあるために,「〜にとって真」は絶対的な真とは異なりどこかで止まる必要がある (無限背進する内容を判断することはできないから).したがって翻訳原理は受け入れる必要がある.