存在論的コミットメントの基準 Quine (1948) "On What There Is"
- W. V. O. Quine (1948) "On What There Is" The Review of Metaphysics 2(5), 21-38.
現代の古典をちゃんと読むシリーズ.Owen (1965) の背景をさぐる目論見もあり,実際読んで正解だった.なお単行本版との異同は確認していない.
〔存在論的問題の係争点: 何が存在者の事例か〕
存在論的問題は単純だ.「何があるのか?」で問うことができ,「全てだ」で答えられる.しかし,諸事例をめぐっては,意見は一致を見ていない.
〔存在論的論争における否定派の不利〕
哲学者 McX と私の二人に不一致があり,McX が認める存在者 (entity) を私が認めていないとする.このとき,私は「彼が言うような存在者はない」と言って,彼の定式化に反対するだろう.しかし,私はそもそも彼の存在論が間違っていると考えているのだから,定式化に関する不一致は重要でない.その一方で,私自身の意見を定式化するとき,私は苦境に立たされる.「McX が認め,私が認めないようなものがある」とは,私は言えないからだ.
この議論が正しければ,不一致を認められないぶん,存在論的論争において否定派は不利である.これはプラトン以来の「あらぬ」の問題だ: あらぬものは,或る意味であらねばならない.この込み入った教説は「プラトンの髭」とあだ名されよう.その堅さは証明済みで,オッカムの剃刀を鈍らせてきた.
こうした考えから,McX のような哲学者は,ありはしないと思われるようなものに,あるということを帰属してきた: ペガサスがありはしないなら,語「ペガサス」を用いるとき,我々は何についても話していないことになる.だから,ペガサスがありはしないと言うのは不条理である.
〔非存在者の観念説〕
むろん McX は,ペガサスが時空間上に存在すると考えることはできない.そこで彼は,ペガサスは心の中の観念だと言うことになる.しかし,すでに混乱は明らかである.ペガサスを否定するとき,人はペガサスの観念のことを話していたわけではない.両者は全然違うものだ.
〔非存在者の非現実的可能者説〕
同じ方向性で McX よりもう少し明敏な哲学者を考えよう (Wyman とする).Wyman によれば,ペガサスは現実化されていない可能者であり,「ペガサスはありはしない」とは,正確にはペガサスが現実的でないということであり,「ある」かどうかを問題にするものではない.
(Wyman は語「実在する」(exist) を損なおうとする哲学者の一人である.彼はこの語を現実者に制限しようとするのだ.我々にしてみれば,ペガサスが実在しないとは,存在者ではないということだ.もし実在するなら時空的に存在しただろうが,それは「実在」ではなく「ペガサス」に時空的な含みがあるからだ.同様に,27 の立方根が実在するという言明に時空間的な含みがないのは,27 の立方根が非時空的な存在者だからであって,「実在」が多義的だからではない.しかし Wyman は,存在と存立は異なる,などと主張するのだ.以下では「実在する」という語は用いず,もっぱら「ある・存在する」(is) を用いる.)
Wyman の過密な宇宙 (可能者のスラム) は,醜いだけでなく,無秩序の温床でもある.可能者たち (e.g. 玄関にいる可能な太った男と可能なはげた男) の同一性・類似性・数をどう決定するのか.そもそも同一性概念を適用できるのか.適用できないなら,そんな存在者について語ることに意味があるのか.フレーゲ的療法によって,この事態はいくらか収拾されるかもしれない.しかしいっそ,Wyman のスラムを一掃したほうが良い.
可能性を含む様相は文全体に制限したほうがよい.可能な存在者を含める仕方で世界を拡張してしまうと,意味論的分析における進歩は見込めない.そうした拡張の動機は,「あるのでなければ,あらぬと言うことが無意味になる」という古い考えにある.
〔矛盾は無意味である説〕
しかし,例えば「バークレー校の四角い円屋根 (round square cupola)」となると,非現実的可能者ですらなく,非現実的不可能者である.これを Wyman が存在者として認めると,彼は矛盾に陥る.しかし賢明な Wyman はこれを認めない.彼はむしろ,「四角い円屋根」は無意味だと言う.
矛盾は無意味だという考えには伝統がある.Wyman と動機を何ら共有しないウィトゲンシュタインもこの伝統を受け継いでいる.だが,最初の動機は Wyman のようなそれだったのではないか.この考えに内在的な魅力はなく,帰謬法の拒否のような極端な考えへと導くものだ (むしろそこから帰謬法によってこの教説を否定できよう).加えて,この説が正しければ,矛盾かどうかについて一般に適用可能なテストは存在しないのだから,文が有意味かどうかを決める体系的なやり方も存在しないことになる.
〔記述理論による対処〕
ではどうするか.ラッセルは彼の単称記述の理論において,見かけ上の名前を,そう名付けられる存在者があると想定することなしに,有意味に用いるやり方を示した:「バークレー校の四角い円屋根はピンク色だ」→「何かが四角く,丸く,バークレー校の屋根で,かつピンクであり,その他に四角く,丸く,バークレー校の屋根であるものはない」.この分析の良いところは,見かけ上の名前が文脈のなかで言い換えられることだ.分析結果として統一的な表現が与えられるわけではないが,文全体の意味は保たれている.
McX や Wyman の想定とは異なり,「ウェイヴァリーの著者」のような語が有意味であるために客観的指示は必要でない.それらに代わって束縛変項が客観的指示の担い手となる.それらは言語の基本をなす有意味な語であり,またその有意味性は何らかの予め割り当てられた対象を前提しない.ラッセルの記述理論によって,あらぬものについての言明は自滅的だという古い考えは完全な失敗に終わるのである.
「ペガサス」は記述句ではなく語だが,記述として言い直せばよい:「ベレロポンが捕えた有翼の馬」.あまりに基本的で適切な言い換えがない場合は,「ペガサスである」「ペガサスる」のような語を造語すればよい.そうすることで,対応する属性をイデア界や心の中に認めねばならなくなるとしても,問題はない.我々と McX, Wyman はさしあたり,普遍者ではなく,ペガサスがあるかないかを争っているのだ.
そういうわけで,「「これこれがありはしない (So-and-so is not)」という形式の言明 (「これこれ」には単純名詞か記述的な単称名辞が入る) は,これこれがあるのでなければ無意味である」という McX や Wyman の主張は,もはや無根拠である.
だからといって,我々は,あらゆる存在論的コミットメントから自由なわけではない.「1000 と 1010 の間に素数がある」と言うなら,我々は数を含む存在論に自らをコミットしているし,「ペガサスがある」と言うなら,ペガサスを含む存在論にコミットしている.しかし,「ありはしない」と言うなら,我々はコミットしていないのだ.
〔意味と名指しの違い〕
意味と名指しが違うということを分かっていれば,記述理論がなくとも,Wyman と McX が以上のことに勘付くことはできたかもしれない.「明けの明星」と「宵の明星」は同じものを名指すが,同じ意味を持つわけではない (さもなければ,両者が同一だと分かるのに観察は不要だったろう).McX は名指される対象と意味を混同し,かつ意味を心の中の観念だと考えた結果,ペガサスの観念説に陥ったのだ.Wyman がこのしくじりを避けたことは注目に値する.
〔普遍者の存在論〕
属性・関係・クラス・数・関数のような普遍者の存在論的問題に移ろう.特徴的なことに,McX は普遍者はあると言う: 赤さという属性があるのは,赤い家や赤いバラがあるのと同じくらい自明である.こうした自明性は形而上学,とりわけ存在論の特徴である.ある人の存在論は,その人が全経験を解釈する概念枠組みにとって基本的であり,その枠組み内部では存在論的主張は自明のものとなる.
McX にとって公理的である存在論的主張は,別の概念枠組みからすると,同じく自明に偽となる:「赤い家」や「赤いバラ」は雑多な存在者を指示するのであり,それらに加えて「赤さ」が指示する存在者があるわけではない.
McX が訴えうる説得手段の一つは既に除去されている.彼は「赤い」('red' or 'is-red') という述語の有意味性に頼ることはできない.名前であることは有意味であることより特別な特徴だからだ.
〔意味という存在者の拒否〕
だが McX は,別の戦略を採る:「なるほど「赤い」は属性の名前ではないが,意味はある.そして意味は普遍者であり,その普遍者とは,私が属性と呼ぶものかもしれない.」これは McX にしては鋭い指摘だ.これを退けるには,私は意味を拒否するしかない.しかし,それで問題はない.意味という抽象的存在者を拒否するだけで,語や文が有意味であることを否定するわけではないからだ.
意味についてふだん人々が語っているやり方として有用なものは二つある.有意味性と同義性だ.「意味を与える」とは単に同義語を発話することだ.「意味それ自体」が性に合わないなら,直接的に発話を有意味・同義的なものとして語ればよい.これらの形容詞の説明は難しいが,意味という存在者に説明上の価値があると考えるのはまやかしにすぎない.
〔存在論的コミットメントは束縛変項の使用に存する〕
ここまで,単称名辞や一般名辞を用いる際に,それが名指す対象を前提する必要がないこと,また意味という存在者を措定せずに発話を有意味・同義的と言えることを示した.McX は,じゃあ何一つコミットメントは要らないのか,と訝ることになる.
答えは否である.既に見たとおり,束縛変項を用いて,我々は存在論的コミットメントを行う:「〜であるような何かがある (there is something) which ...」.しかしこれこそ,我々が存在論的コミットメントをなす唯一のやり方なのである.見てきたように,名前の使用は基準にならない.あるとは,変項の値になることだ.伝統文法の言葉で大まかに言えば,代名詞の指す範囲にあることだ.「何か」(something)「何も」(nothing)「全て」(everything) という量化の変項は,我々の存在論全体を範囲とする (range over).
例えば,「ある犬は白い」とは,犬である何かが白いということだ.この言明が真であるには,「何か」は白い犬を含まねばならないが,犬性や白さを含む必要はない.一方で,「いくつかの動物学的種は交配可能だ」と言う場合には,種そのものを存在者として認めることになる.このコミットメントを避けるには,種への見かけ上の指示を避けるような言い換えを考案する必要がある.
〔数学の哲学への含意〕
以上の基準は存在者を最小限に抑えるものではない.古典数学は抽象的対象の存在論的コミットメントにどっぷり浸かっている.かくして,普遍者に関する中世の論争は,現代の数学の哲学で再び燃え上がった.任意の理論がどういう存在論へのコミットメントを行うかを決める明示的基準があるぶん,問題は以前より明晰である.この基準が哲学的伝統において明確に生じていなかったために,総じて現代の数学者は古い問題を論じていることを認識していない.しかし,数学の基礎付けに関する根本的亀裂は,まさに束縛変項が指示すべき存在者の範囲に関する不一致に存するのだ.実在論・概念論・唯名論という中世の三つの見解が,現代の論理主義・直観主義・形式主義に対応する.
実在論は,普遍者・抽象的存在者が心と独立にあるというプラトン主義的教説である.同様に,フレーゲ,ラッセル,ホワイトヘッド,チャーチ,カルナップの論理主義は,束縛変項が抽象的実体を指すことを許す.
概念論は,普遍者はあり,心が作ったものだとする.ポワンカレ,ブラウワー,ワイルらの直観主義は,抽象的存在者が予め指定された素材から個別に作り上げられうる場合にのみ,束縛変項がそれを指示することを許す.論理主義と直観主義の対立は単なるたんなる難癖ではなく,どの程度の濃度の無限を認めるかや,ひいては実数に関する古典的法則を認めるかどうかを左右する.
ヒルベルトの形式主義も直観主義同様,無制約に普遍に訴えることをよしとしない.直観主義に二つの理由で異論を唱えるが,それらは対極にある: 一方では古典数学を弱めることを嫌った結果として,他方では昔の唯名論と同様,抽象的対象を完全に拒否して,――しかし結果としては同様に――数学を無意味な記法の戯れとして残しておく.この戯れは有用でありうるし,また数学者の営為の統語論的規則自体は (記法 notation 自体とは違って) 有意味で理解可能なものである.
〔存在論的論争のやり方〕
では,(数学的なものを含む) 対立する諸々の存在論をどう裁定できるのだろうか.「あるとは変項の値となることだ」という意味論的定式は答えにならない; これは言明や教説が先立つ基準と一致するかの判定に使うものだ.何があるのかはこれとは別の問題である.
何があるのかを論じる上で,意味論の平面上で作業すべき理由はある.第一に,冒頭の窮境を避けるためである.私は McX と論争する際に,私の束縛変数の範囲を McX の認めるところまで認めるわけにはいけない.だが,McX が肯定する言明を特徴づけることで,相違点を特徴づけることはできる.
そして第二に,議論の共通の土台を探すためである.存在論の不一致は概念枠組みの基本的な不一致を伴うとはいえ,McX と私の概念枠組みはコミュニケーション可能な程度には収斂している.存在論的論争が意味論的論争に翻訳されうる限りで,論争における論点先取は先送りできる.
〔存在論の選択の基準〕
とはいえ,存在論的問題が言語的な問題だというわけではない.思うに,存在論の受け入れは,科学理論の受け入れに似ている.なまの経験の無秩序な断片が適合し整序されうる最も単純な概念枠組みを我々は採用するのだ.存在論が決まるのは,最広義の科学を抱き込む概念枠組み全体を我々が決めたときだ.存在論が言語の問題なのは,科学理論の採用が言語の問題なのと同程度でしかない.
しかし「単純性」は不明瞭で多義的である.なまの経験を逐一伝えるのに最も効率的な概念群も,物理主義的な概念枠組みも,ともに単純である.おそらくどちらも発展に値するし,前者は認識論的に,後者は物理的に,根本的である.物理主義的枠組みが根本的なのは,無数のばらばらの経験出来事がいわゆる対象に結び付けられる仕方ゆえである.現象主義的な観点からすれば,物理的対象の概念枠組みは便利な神話である (有理数の初等算術の枠組みから見て,実数の算術が便利な神話でありうるのと同様に).
一方で,物理的対象のクラスや属性を含む存在論は,物理主義的枠組みからしても神話である.物理学の説明を容易にする限りで,これも良い・有用な神話である.私がこれを神話であると言うのは,数学における形式主義を物理学的枠組みに適用した結果である.しかしこの提案は,単に審美的・現象主義的観点からなしているにすぎない.
数学の神話と物理学の神話の類推は (他にも,おそらくは偶然的な仕方で) 密接である.世紀転換期に,ラッセルのパラドクスや集合論のその他のアンチノミーによって,数学的な神話づくりは意図的で明白なものになった.物理学においても,光の波動説と粒子説の間でアンチノミーが生じた.これが徹底的な矛盾でないとすれば,それは物理学が数学ほど徹底的でないからにすぎない.また第二の危機として,1931年にはゲーデルの不完全性定理が発見されたが,ハイゼンベルクの不確定性原理はその姉妹と言える.
〔結論〕
本稿は,いくつかの存在論が誤謬であることを示し,理論の存在論的コミットメントの明示的基準を示した.だが,どの存在論を採るべきかの問いは依然開かれている.