アリストテレス魂論の認知主義的解釈 Wedin (1988) Mind and Imagination, Ch.1

  • Michael Wedin (1988) Mind and Imagination in Aristotle, Yale University Press.
    • Chap.1. Aristotle on the science of the soul. 1-22.

DA の魂概念の一般的な特徴づけ.おおむね Putnam-Nussbaum ラインの機能主義的解釈だが,留保も加えられている (§3).


アリストテレスは心理学 (psychology) の創設者である.というのも第一に,特に DA は,魂の一般的定式化と諸能力の幅広い説明を行っているという点で,魂の一般理論を論じていると言える.

第二に,様式 (style) の点でもそう言える.心理学の課題は,生理的レベルの記述と志向的レベルの記述の関連付けにある.一方で,生理学的発想の心理学者は,理論がうまくいけば志向的レベルの行動のタイプと生理的状態・過程のタイプに直接的な相関を与えられると考える.他方で,認知的発想の (coginitively minded) 心理学者は,二つのレベルの間に,「何かが認知的課題をこなすために,それがどう組織されているべきか」という問いの余地を認める.志向的レベルのふるまいはサブルーチンに分解され,理想的にはハードウェアにおける実現に至るまで分解される.認知主義者はシステムの設計の仕方を重視し,それは設計を実現する物質と独立だと考える.アリストテレスがこのどこまで独立性を認めたかは定かでないが (cf. Sens. 438b6-9),彼が認知主義者と同様に,設計・組織を魂の本質とみなし,それを抽象的に特徴づける必要があると考えたのは間違いない.

以下で論じるように,DA で中心的なのは機能的・認知的システムとしての魂という概念である.生理的レベルと志向的レベルの間に説明上のギャップがあることが,アリストテレス心理学の基本前提なのだ.

1. 自然学の分科としての心理学

Met. Ε1 は対象に応じて学知を三区分する: 神学 (分離・不変),自然学 (分離・変化),数学 (非分離・不変).「分離している」とはそれだけで存在しうること.自然学の対象は変化し,それゆえ質料的でなければならない.数学も存在論的には同じ対象を扱いつつ,変化を捨象している.つまり存在論的に還元されるが説明上は還元されない (ontological reduction without explanatory reduction).一方で自然学は獅子鼻 (snubness) の探求のように行わねばならないとされる.獅子鼻は凹み (concavity) と違って本質的に鼻に実現される属性である.同様に,自然的対象への説明は,たしかに形相に焦点を合わせはするが,しかし本質的に質料への言及を伴う.

魂を論じる場合も同様である (E1, 1026a5-6).DA I.1 は,魂の全ての属性が身体の属性でもあるか,それとも魂に固有の属性があるか,を問う (403a2-4).固有の属性があるなら分離可能である.魂のある部分が分離可能なら,それは自然学に属さない.νοεῖν がそうした部分の最大の候補となる.この点の議論は 3 巻に持ち越されるが,1.1 では全属性が身体の属性だと主張され,それゆえ情動の定義は質料を伴う必要があるとされる.例えば "τὸ ὀργίζεσθαι κίνησίς τις τοῦ τοιουδὶ σώματος ἢ μέρους ἢ δυνάμεως ὑπὸ τοῦδε ἕνεκα τοῦδε" (403a25-27) ――物理的過程・原因・目的.これに対して自然学者 (「血の沸騰」) や問答家 (「仕返しの欲求」) の怒りの説明は十分でない.

自然学者が形相に関係する仕方は問答家とは異なる.探求主題 S について,物理的過程 P と対応する形相 F があるとする.自然学者は S が起きる時に物理的なレベルで何が起こっているのかを述べようとする.その際 F に言及しないと,説明は,単に不完全だというだけではなく,P の同一性が F に依存するため (P の個別化に F が必要であるため),そもそも説明になっていない.それゆえ "ὤστε οὔτ᾽ ἄνευ ὕλης τὰ τοιαῦτα οὔτε κατὰ τὴν ὕλην" [θεωρητέον] (194a14-15).

2. アリストテレス的な魂における形相と機能

したがって自然学固有の原理・技術が魂の特徴と能力の説明に用いられることになる.だが魂論は単なる自然学的原理の応用ではない.例えばシステムが対象の表象能力をもつことを説明する必要があるために,当の説明は認知主義的な自然主義的説明になる.

DA I では,まず魂の本性・本質 (τήν τε φύσιν αὐτῆς καὶ τὴν οὐσίαν) を考察し,次いで諸属性 (ὅσα συμβέβηκε περὶ αὐτήν) を考察すると宣言される.前者 (魂の定義) は II.1-3 で扱われ,後者はそれ以降で扱われる.後者の例として ὀργίζεσθαι, θαρρεῖν, ἐπιθυμεῖν, ὅλως αἰσθάνεσθαι (403a3ff.); またそれらは魂の機能と受動状態 ("τῶν τῆς ψυχῆς ἔργων ἢ παθημάτων") とされる.したがって,魂は様々な仕方で機能するシステムの一形式とみなすことができる.もっとも,魂が学んだり考えたりするわけではない.ひとが魂によって (τῇ ψυχῇ) そうするのである (408b13-18).

この議論は四原因論と関連付けることもできる.アリストテレスの「原因」とは「何ゆえ」であり,Moravcsik (1975) が解釈するように,形相因とは構造,目的因とは機能の謂である.したがって,ある人間が何であるかの説明は,それがすることを達成するために (機能・目的) それがどう働くか (形相) の説明を含んでいる.

形相によって機能を説明するとは,魂をブラックボックスとして扱うことに等しい.だが,それが十全な説明になるには,魂がさらに細かい認知的ユニット (δυνάμεις) へと分解されねばならない.DA はこうした認知主義的なトップダウン戦略を取っていると見ることができる.

以上の解釈は二箇所から裏付けられる.一つは 402b9-16. 魂の諸部分の個別化の難しさを述べた後,この箇所で「μορία と ἔργα のいずれを先に探究すべきか」が問われ,その問いが「対象と機能のどちらを先に探究すべきか」という問いに結び付けられる.諸部分の個別化という論点は DA II.4 冒頭で繰り返される:

εἰ δὲ χρὴ λέγειν τί ἕκαστον αὐτῶν, οἷον τί τὸ νοητικὸν ἢ τὸ αἰσθητικὸν ἢ τὸ θρεπτικόν, πρότερον ἔτι λεκτέον τί τὸ νοεῖν καὶ τί τὸ αἰσθάνεσθαι· πρότεραι γάρ εἰσι τῶν δυνάμεων αἱ ἐνέργειαι καὶ αἱ πράξεις κατὰ τὸν λόγον. εἰ δ' οὕτως, τούτων δ' ἔτι πρότερα τὰ ἀντικείμενα δεῖ τεθεωρηκέναι, περὶ ἐκείνων πρῶτον ἂν δέοι διορίσαι διὰ τὴν αὐτὴν αἰτίαν. (415a16-22)

こちらは単なる方法論的なすすめではない.ここでは,「能力 (faculties) は機能 (functions) と対象 (objects) から個体化され同定されねばならない」ということ (FFO 条件) が明らかにされている.402b9-16 で中立的に μορία と呼ばれていたものはここでは δυνάμεις である.

さらに 417a21-b16 (枠組みパッセージ the Framework Passage) では現実態と可能態の諸種が区別される:

  • K1. S が知る者1である iff. S が知る者2になる能力をもつ1
  • K2. S が知る者2である iff. S が知る者3になる能力をもつ2 (知る2能力1を現実化1している).〔第一現実態〕
  • K3. S が知る者3である iff. S が特定の思考対象を観照している (知る3能力2を現実化2している).〔第二現実態〕

枠組みパッセージは FFO を前提している.知る者2は知る者3から定義されており,したがって究極的には知識の対象から定義されているからだ.また質料が FFO にも枠組みパッセージにも中心的には登場していないことに注意すべき.能力の定義は,能力の働き方の説明と違って,質料を考慮せずになしうる.

枠組みパッセージで形相と機能が密接に結びついているのは,システムが機能から定義されるとすれば,驚きではない.形相と機能が密接に結びつくのは,知る者2から知る者3への移行においてである.システムの実働とはシステムの本質・形相の最高度の発露だからだ.

一方で知る者1から知る者2への移行については,第一にこの移行の原因,第二に移行を可能にする内的構造が問われねばならない.アリストテレスにとって,後者の問いに中心的なのは「システムがいかにして志向的対象を表象しうるか」という問題である.この点にアリストテレス心理学の認知主義的側面が現れるのであり,そこでは φαντάσματα が説明上重要になる.

3. アリストテレス的な魂における認知主義

アリストテレスの思想が認知主義だ」というここでの主張は穏健なものにすぎない: 現代の認知主義との「本質的同一性」(Wilkes 1978. 各々のもつ〔全ての〕本質的特徴に関する同型性) は成り立たない (計算可能性などは含まれない).T1アリストテレスの理論,T2 を現代の (機能主義的) ある理論としよう.T1 からアリストテレス特有の前提を捨象して得られた T* を両方が満たすとして,それはアリストテレスの理論そのものではなく,したがってアリストテレスの理論と関わりのない意図されざるモデルをもちうる.

ここで関心があるのは単に,アリストテレス心理学がどの程度,以下の二つの認知主義的制約を受けているのかである: (1) 心理的システムは,当のシステムの内的状態が世界についてのものである仕方を説明し,それゆえシステムの振る舞いを説明するような,表象の内的諸システムを持つ.(2) 心理的システムはそれらの表象 ([re]presentation) を解釈する部分ないし下位システムを持つ.

Wilkes はアリストテレスを現代的な機能主義者だと述べた結果,アリストテレス心理学における表象の役割を否認してしまった.彼女によれば:

  • (W1) 機能主義は,いかなる内的表象的仕組み (internal [re]presentational device) も認知的活動の形式的説明に関連しないことを含意する.

いわく,アリストテレスは心的出来事をもの化 (reifying) しなかったし,思考や記憶を諸行為として語らなかったので,W1 を帰属してよい.Wilkes はここで,「αἴσθησις は sensation ではなく sense や sensing であり,センスデータの意味での αἴσθημα は De insomn. の特殊な文脈でしか用いられない」という Matson の議論を,思考や欲望に拡張している.

だが第一に,思考の特定の生起 (episodes or occasions) を認めたからといって,命題的態度の存在論に与する必要はない.第二に,アリストテレスの能力論は能力の行使に言及する必要がある.第三に,事実としてアリストテレスは思考の諸生起について語っている: 現実態における心は思考対象と同一である.

というわけで,アリストテレスは W1 を主張していない.そして Wilkes や Robinson 1978 のような二元論的センスデータ論に陥らないためには,アリストテレス内的表象に与していると考えるほかない.「志向的態度の適切かつ唯物論的な説明をどう与えるのか」という所謂「ブレンターノの問題」を解決するには,Field (1978) によれば,内的表象のシステムが必要である.Field は内的表象として文トークンを考えるが,アリストテレスの場合はそうでない.だが内的表象を導入する眼目は同一である.次章では φαντασία が諸能力の活動に資する一般的表象能力の役割を果たすと論じる.