ホッブズにおける権威づけと代表 Martinich (2016) "Authorization and Representation in Hobbes's Leviathan"

  • Al P. Martinich (2016) "Authorization and Representation in Hobbes's Leviathan" in Al P. Martinich and Kinch Hoekstra (eds.) The Oxford Handbook of Hobbes, Oxford University Press, 315-337.

リヴァイアサン』の鍵概念である権威づけ (authorization) と代表 (representation)1 についてのホッブズの見解を解明する.

1. 権威づけと移譲

リヴァイアサン』21章の主権の起源の理論に先立つ著述として,『法の原理』(1640)『市民論』(1642, 1647),『リヴァイアサン』17章がある.『法の原理』『市民論』は移譲 (alienation) 概念だけで主権者と臣民の関係を説明する.

移譲理論の問題は,権利の限界を示せていないことである.臣民が自己保存の権利を残した場合,自己保存という目的の手段に対する他の多くの権利が生じる.臣民がそれらをもとに主権者への反抗すべきだと判断することはありうる.

もう一つの問題は,市民にとって受け入れがたいということにある.17世紀イングランド人は自らの自由を誇りにしていた.統治に参加できない心理的疎外感は政治的不安定性につながるだろう.

ホッブズは移譲理論を明示的に却下したわけではないが,『リヴァイアサン』17章ではより魅力的な「権威づけ+移譲理論 (the theory of authorization-cum-alienation)」を提示している.そのキーパッセージは「主権者創出文 (the sovereign-making formula)」の前段に示される:

  • I Authorise and give up my Right of Governing my selfe, to this Man, or to this Assembly of men ...

この言葉は筋が通っていない.動詞 "authorize" の直接目的語は人だが,"give up" の直接目的語は権利だからだ.この文法的欠陥は,ホッブズのなかで明確でなかった権威づけと移譲の違いの存在を示している.同一の権利に関して権威づけと移譲は両立しない.実際21章では両者は区別される.また権威づけの眼目は,臣民が自らを主権者と同一視する理由を与える点にある.

主権者創出文はこう続く:

  • ... on the condition that thou give up thy right of governing yourself and authorize all of his actions.

この一節によって,主権者創出文は,文法的にはともかく,内容的には整合的になるようにも見える (「統治移譲」解釈 "government-alienation" interpretation): 自己統治の権利を放棄することで,主権者の行為すべてを権威づける.しかし,まさに権威づけに必要な権利が放棄されてしまっているという問題がある.また,主権者が臣民を内外の敵から守り全ての政治的判断を行うために移譲を求められる権利は無制限であり,そうした無制限な移譲は誰も認めないだろう.

したがって21章では権威づけと移譲が区別される.もっとも移譲が要らなくなったわけではない――絶対主権のためには移譲は実践上ほぼつねに必要となる.(おそらくそれゆえに,21章冒頭では臣民の自由が売買・契約・居住・食物・職業・教育などに制限される.) しかし絶対主権の正当化は,移譲ではなく権威づけに求められる.主権者が絶対なのは "every Subject is Author of every act the Soveraign doth" だからであり,権威づけ自体は自由の制約を伴わない.主権者創出文も "I authorize all his action" に変わる.この不整合はフィルマーも指摘している.

ホッブズは移譲の実践上の必要性を二通りのやり方で擁護している.第一に,臣民の側から言えば,臣民は主権者による統治・保護を望んでおり,その手段として移譲が必要である.(だが,これは潜在的に抑圧的でありうる.この論点からすると,臣民はどれを放棄するべきかを判断する権利を放棄する必要があるからだ.)

第二に,主権者の側から言えば,目的への権利をもつ者は手段への権利をもつため,例えば臣民は主権者が別の臣民を逮捕するのに干渉する権利をもたない.干渉すると主権者から保護の手段を取り除くことになるからだ.

「純粋な権威づけ理論」(pure authorization theory) の新しさは,権威づけがそれだけで成立し,統治の起源を説明する点にある.移譲は,権威づけ +「目的に権利を持つものはその手段の権利を持つ」原理 + 主権者がすべきことについての前提,から出てくる.またこの理論では,臣民は主権者の行為を自らの行為と認めるので,政治的安定性が増す.

ホッブズ最良の理論がラテン語版の『リヴァイアサン』(1667 または 1668) に出ていると期待するのは間違いである.ラテン語版は概して哲学的水準がより低い.例えば権威づけ+移譲理論の箇所では "Authoritatem et Ius meum regendi meipsum concedo" と言われ (concedere は give up と agree with で多義的),次の文では transfero (i.e. 移譲) と言い換えられている.

2. 人格と代表

以下では次のことを示す: ホッブズにとって,代表関係に立つのは,主権者と個々の臣民である.

リヴァイアサン』の支配的見解によれば,人格とは代表者 (representatives) である.この点について解釈者たちは『市民論』やラテン語版の参照が有用だと考えるが,著者はむしろそれらの方が英語版より問題含みだと考える.英語版によれば,主権者は非自然的人格 (non-natural persons) であり代表者である.一方で,3節で見るように,コモンウェルスは非自然的人格だが第一義的には代表者ではない.

ホッブズは16章冒頭で最初に人格を特徴づける:

A PERSON, is he, whose words or actions are considered, either as his own, or as representing the words or actions of an other man, or of any other thing to whom they are attributed, whether Truly or by Fiction.

When they are considered as his owne, then is he called a Naturall Person: and when they are considered as representing the words and actions of an other, then is he a Feigned or Artificiall person.

成人は自身を代表するとき自然的人格であるが,代表者が主権者のときもあり,その場合代表されるのは主権者以外の人である.もっとも主権者であるところの人は同時に自然的人格としても振る舞う.この人は死ぬが,(イングランド法によれば) 主権者は死なない.また寡頭制や民主制において主権者を構成する人も主権者ではない.(残念ながらホッブズ君主制びいきから君主を人間とときどき同一視してしまっている.) ここまでは解釈上争いがない.

解釈が分かれるのは "when they are considered as representing ..." 以下である.Skinner が指摘するように,"then is he a Feigned or Artificiall person" の he は文法的には an other だが,その場合非自然的人格は代表される側であり代表者ではなくなる.むしろ文章の流れからすれば,1つ目の he と同じ A PERSON を指すと考えられる.いずれにせよ,ホッブズはある人格が別の人格を (主権者が臣民を,裁判官や代行者が主権者を) 代表すると考えている.

この箇所と『人間論』やラテン語版『リヴァイアサン』との整合性は明瞭でない.『人間論』の対応箇所は最終章 "De homine fictitio" では次のように言われる:

Persona est cui Verba & Actiones hominum attribuuntur vel suae vel alienae. Si suae, Persona naturalis est; si alienae, Fictitia est.

下線部の意味が不明瞭である.著者の解釈では:「もし言葉や行為が別の人に帰属されるなら,その人は虚構的 (人工的) である」.つまりアガメムノンを演じる者の言葉はアガメムノンに帰属し,アガメムノンが人格である.この解釈は橋や病院が人格たりうるという直後の主張と整合する.これは英語版『リヴァイアサン』とは逆である.『リヴァイアサン』でうまくいっている人格・代表・本人 (authors)・演者の関係は『人間論』ではうまく噛み合っていない.

このことは『人間論』の主題が非政治的振る舞いにあることの結果であろう.実際,後古典的な "fictitia" は "ficta" や "artificiosa" と違い, "artificial" より "fictional" に近い.様々な人間の行為が一つのものに直接帰属するというコメントは,虚構的キャラクターにはぴったり当てはまるが,主権者と臣民の関係には当てはまらない.

ラテン語版では次のように述べられる.

Persona est is qui suo vel alieno nomine res agit. Si suo, Persona Propria, sive Naturalis est; si alieno, Persona est ejus, cujus Nomine agit Repraesentativa.

再び下線部が問題である.解釈は二通り: (1)「他人の名のもとで行うとき,その人は,その名のもとで行うところの人の,代表者である」.(2)「他人の名のもとで行うとき,人格は,彼がその名のもとで代表者として行為するところの人に属する」.前者は英語版,後者は『市民論』と平仄が合う."Truly or by Fiction" にあたる区別が消滅し "vel suae vel alienae" が響いていることは後者の証拠となる.ウサギとアヒルの錯視じみており,ホッブズがわざと曖昧にしたとも考えられる.

3. 第一の政治的代表者としての主権者

本節では『リヴァイアサン』において主権者と臣民の関係が第一の政治的関係であると示す.主権者は個々の臣民を直接代表する.ゆえにコモンウェルスの存在は主権者の存在の論理的帰結となる.また主権者はコモンウェルスをも代表する.理論的にはコモンウェルスは不要な付随現象にすぎない (epiphenomenal).

権威づけ+移譲理論の箇所が再びキーパッセージとなる.いわく,人々は "confer all their power and strength upon one man or upon one assembly of men, ... which is as much as to say, to appoint one man or assembly of men to bear their person." ここで権力を与えられるのはコモンウェルスではなく主権者である.主権者創出文はコモンウェルスに言及していない.コモンウェルスはむしろ主権者が生まれた後に導入される: "This done, the Multitude so united in one Person, is called a COMMON-WEALTH; in latine CIVITAS." 主権者の時間的先行性はラテン語版にも認められる ("quo facto").

18章では,コモンウェルスの設立によって,(コモンウェルスの諸権利ではなく)「主権者の諸権利」が作られると言われる.臣民は主権者の臣民でありコモンウェルスの臣民ではない.主権者はまた「コモンウェルスの代表者」とも言われる.だが,コモンウェルスが主権者の行為の本人であるわけではない (pace Skinner).本人だとしたら臣民が行為の責任を免れうることになってしまうだろう.ホッブズコモンウェルスを極小化しようとする (31.1).

コモンウェルスは主権者と異なり臣民を構成要素に含む.ホッブズの類比によれば,コモンウェルスは身体,主権者は魂である.主権者創出文を見ても,主権者と臣民に直接的政治的関係が成り立つことがわかる.コモンウェルスにおける臣民たちの統一性は主権者の統一性に依存して成り立つ.

ホッブズが主権者をコモンウェルスが生み出すものと見なしたがらないのは,そう見なすと主権者の権威がコモンウェルスに媒介されることになり,主権者がコモンウェルスを代表しそこねていると臣民が判断できるようになってしまうからだ.(17世紀前半のイングランド法には類比的な例が見いだせる: 王の代行者は王と異なり,直接的に代表しないため,不正をなしうる.結果として,Strafford 伯や Laud 大主教はチャールズ1世に従った罪で処刑された.) そうした媒介を認めるのが例えばロックの理論であり,彼の場合は "commenwealth" の代わりに "society" や "community" が用いられる.

ホッブズコモンウェルスが主権者と少なくとも等根源的だと言おうとすることもある: "COMMON-WEALTH ... [OR] that great LEVIATHAN ... wee owe ... our peace and defence." だが続く文が示すように,これは混乱した物言いにすぎない.

4. 結論

ホッブズの最良の理論によれば,諸個人が (信約により) ある存在者を権威付けて,彼らを代表させる.権威づけ自体は諸権利の移譲を含まず,それゆえ諸個人の自由を制限しない.制限の理由は,「目的を望む者は手段を望む」原理と,主権者がほぼつねに統治に充分な資源を欠いていることにある.権威づけは主権者と諸個人の代表関係をつくりだす.その帰結としてコモンウェルスが作られ,諸個人が統一される.コモンウェルスは自身では行為できないので,主権者はコモンウェルスをも代表する.ホッブズの権威づけと代表の理論は,コモンウェルスではなく,主権者に優先性と特権を与えるものである.


  1. 訳語は水田訳に従う.