φαντασία 論は錯誤の可能性と志向性一般の説明である Caston (1996) "Why Aristotle Needs Imagination"

  • Victor Caston (1996) "Why Aristotle Needs Imagination" Phronesis 41(1), 20-55.

ほぼ DA 3.3 の running commentary だが,要点は掲題の一点.


DA 3.3 の φαντασία 論のねらいと結論は不明瞭である.なお悪いことに 'imagination' という伝統的な訳語はあまり意味をなさない.後世の議論にあてはめるのではなく,元々のアリストテレスの動機を問う必要がある.

3.3 をよく読めば,問題の所在が錯誤の問題 (the problem of error) にあることがわかる.つまり一体いかにして心的状態の内容が現実のあり方と相違しうるのかを説明するという問題である.アリストテレスはこれを先行者の見解の難点として提示する.だがアリストテレス自身の感覚 (sensation)・概念把握 (conception) の理論にも同じ批判が生じうる.そして本稿の見解では,φαντασία はこの問題を避ける方便である.そのためアリストテレスは,まず φαντασία が感覚とも概念把握とも異なること,ついで φαντασία がそれらと異なり真正な仕方で誤りを容れることを示さなければならない.

したがって φαντασία はアリストテレスの志向性の説明に不可欠である.感覚と概念把握は志向性一般のモデルにはならない.かくて DA 3.3 はアリストテレスが志向性から生じる問題に関心を寄せそれを解こうと試みていたことを証する.

I. 『魂について』3.3 の位置づけ

この議論は DA 全体の構成における位置づけゆえになおさら興味を引く.DA 前半は基礎的な議論であり,先行学説の吟味 (1.1-5) と魂の定義 (2.1-2.3) に当てられる.そこから魂の基礎的能力を通って上昇していく: 栄養摂取・成長・再生産 (2.4),知覚能力 (2.5-3.2),概念的・推理的能力 (3.4-3.8).つまり叙述の順序はアリストテレスが魂に想定した階層を反映している.最後に欲望と行為といった他の能力を論じるが,これらには分類上の重要性は与えられていない.これらは実質的に全ての動物に帰属する.

しかし φαντασία はこのパターンを破っている.φαντασία も (ほぼ) 全ての動物に帰属するが,後回しにはされず,3.3 という知覚と思考のあいだの重要なつなぎ目に来ている.もちろんたまたまの可能性もあるが,そこに来る必然性があった可能性も捨てられない.

アリストテレス自身 3.3 で連続性の問題に敏感になっている.冒頭にいわく:

Ἐπεὶ δὲ δύο διαφοραῖς ὁρίζονται μάλιστα τὴν ψυχήν, (i) κινήσει τε τῇ κατὰ τόπον καὶ (ii) τῷ νοεῖν καὶ φρονεῖν καὶ αἰσθάνεσθαι, δοκεῖ δὲ καὶ τὸ νοεῖν καὶ τὸ φρονεῖν ὥσπερ αἰσθάνεσθαί τι εἶναι ... (427a17-20)

運動と知覚という基準は DA 第一巻以来のライトモチーフをなす (3.9 では in propria persona に擁護している).ここでは (ii) に思考が含められ,思考と運動という以降のトピックを予示する.ただしここで思考と感覚の類似性はエンドクソンにすぎない.アリストテレスはこれをある形では受け入れるが (3.4, 429a13-18),3.3 ではこれを攻撃し,必要な能力として φαντασία を導入する.そしてその議論は錯誤の問題に依拠している.

II. 思考と感覚は「同じ」だというテーゼ

アリストテレスは思考が一種の知覚のようであるという見解に権威がある理由を二点挙げる.第一に一般的な類似性がある: ともに認知的態度である (ἐν ἀμφοτέροις γὰρ τούτοις κρίνει τι ἡ ψυχὴ καὶ γνωρίζει τῶν ὄντων, 427a20-21).第二に権威ある人々がそう述べている (οἵ γε ἀρχαῖοι τὸ φρονεῖν καὶ τὸ αἰσθάνεσθαι ταὐτὸν εἶναί φασιν, 427a21-22).だがこの歴史的主張を支える証拠は貧弱に見える:

Ἐμπεδοκλῆς εἴρηκε "πρὸς παρεὸν γὰρ μῆτις ἀέξεται ἀνθρώποισιν" καὶ ἐν ἄλλοις "ὅθεν σφίσιν αἰεὶ καὶ τὸ φρονεῖν ἀλλοῖα παρίσταται", τὸ δ' αὐτὸ τούτοις βούλεται καὶ τὸ Ὁμήρου "τοῖος γὰρ νόος ἐστίν". (427a22-26)

どの引用も知覚に言及しておらず,2つ目の引用は元の文脈では夢について述べたものである.共通する立場はせいぜい思考が環境と身体的条件に何らか依存するということにすぎない.この点古代の注釈者さえ批判的である.

だが続いてアリストテレスは次のように自らの解釈を擁護する.

πάντες γὰρ οὗτοι (a) τὸ νοεῖν σωματικὸν ὥσπερ τὸ αἰσθάνεσθαι ὑπολαμβάνουσιν, καὶ (b) αἰσθάνεσθαί τε καὶ φρονεῖν τῷ ὁμοίῳ τὸ ὅμοιον, ὥσπερ καὶ ἐν τοῖς κατ' ἀρχὰς λόγοις διωρίσαμεν. (427a26-29)

推論に訴えていることから分かるように,実際にはせいぜいテーゼに与している (are committed) とまでしか言えないと暗に認めている.だが私たちにとってはそれで問題ない.アリストテレスの立場の理解に必要なのは彼の論証だからだ.

例えば以上の議論は,思考と知覚が「同じ」だということの意味を明らかにしている.アリストテレスの提出する資料が必要とするのは類似性 (1) であって同一性 (1') ではない:

  • (1) 思考は知覚と同種の過程をなす.
  • (1') 思考は感覚といかなる点でも異ならない.

この弱い解釈はテオフラストスの De sens. 10 からも裏付けられる.アリストテレス先行者に代わって (1) の支持根拠を二つ与えている:

  • (2) 思考と知覚はどちらも身体的過程である.
  • (3) ひとは似たものを似たものによって (like by like) 思考し知覚する.

(2) (3) はいずれも (1) に十分だが必要ではない.ゆえにアリストテレスの批判が (1) に向けられているか,(2) と (3) にだけ向けられているか,どれか一つにだけ向けられているか,を見る必要がある.

III. 錯誤の問題

アリストテレスは (1) を批判する.

καίτοι ἔδει ἅμα καὶ περὶ τοῦ ἠπατῆσθαι αὐτοὺς λέγειν, οἰκειότερον γὰρ τοῖς ζῴοις, καὶ πλείω χρόνον ἐν τούτῳ διατελεῖ ἡ ψυχή. (427a29-b2)

いわく,先行学説には錯誤を説明する十分な資源がない.なぜなら:

διὸ ἀνάγκη ἤτοι, ὥσπερ ἔνιοι λέγουσι,

  1. πάντα τὰ φαινόμενα εἶναι ἀληθῆ, ἢ
  2. τὴν τοῦ ἀνομοίου θίξιν ἀπάτην εἶναι, τοῦτο γὰρ ἐναντίον τῷ τὸ ὅμοιον τῷ ὁμοίῳ γνωρίζειν. (427b2-5)

つまり a. 最初から錯誤の発生を否定するか,b. 彼らの理論が許す唯一のモデルを提示するか.後者のモデルは錯誤を一種の機能不全として説明する.アリストテレスはいずれも受け入れない (帰謬法).

この議論は Tht. の議論に似ている.Tht. では (A) 知識は感覚だというテーゼが (B) 全ての現れが真であるというテーゼ,および (C) 知覚と知覚対象は主体と対象の相互作用のなかでのみ存在するというテーゼ (秘密の教説) と密接に結び付けられる.(C) は広く支持される (153e).つながりの中身は明瞭でないが,Burnyeat が言うように同値なら,(A) の支持者が (B) に与しているとプラトンは考えたのかもしれないし,すると彼もやはり一般的な説明方式から錯誤の問題が生じると考えていたかもしれない.

もっともアリストテレスの最終的な議論は非常に異なる.まず彼の議論は認識論的ではなくまずもって魂論的 (psychological) であり,知識や正当化は問題とされない.また論証構造も異なる: アリストテレスは (C) より散文的な前提 (2) (3) に訴えており,結論も (A) ではない (A はジレンマの一方にすぎない).

A. ジレンマの第一の角

第一の角は見込みがないとアリストテレスは見ており,何ら反対論証を加えていない (魂論の範疇にない).(1) はそれ自体では不可謬性を含意しない.(2) からも出てこない (cf. Phd.).問題は (3).目下の文脈にプレソクラティクスの引用を置くとき,「知覚」と「思考」は別々の心的過程ではなく,全ての心的状態を指す.そして一般的テーゼとして理解すると,(3) にはほとんど代案がない.

理由は (3) が二つの問題を一緒くたにしているから: (i) 特定の心的状態がいかにもたらされるか (brought about),(ii) 当の心的状態が何についてのものか (その内容).つまり (3) は以下のサブテーゼに分解できる:

  • (3a) 似たものが似たものから作用を受けるときに,ひとは知覚ないし思考する.
  • (3b) 特定の状況でひとが知覚・思考するものは,その状態をもたらしたものに正確に対応する.

(3) を受け入れている人は,(3a) を受け入れているがゆえに (3b) を受け入れている傾向にある.だが (3a) と (3b) は独立であり,例えば (3a) を斥けつつ (3b) を受け入れることもできる (アナクサゴラスの立場).これが重要なのは,(3b) から (4) が直ちに帰結するからだ:

  • (4) 特定の状況でひとが知覚・思考するものは,環境のなかのものに正確に対応する.

しかしこれは明らかに錯誤を排除する: p と信じていることは事態 p によりもたらされ,X について考えることはもの・対象・個体 X によってもたらされる.つまり (3) から (5) が帰結する:

  • (5) 全ての現れは真である.

これは第一の角である.したがって (3) のスコープを真理的な (veridical) 心的状態に制限する必要がある.この場合それ以外の心的状態の内容については別の説明が必要である.それらの状態が相互作用の結果だとするなら,似ていないものの相互作用によるのでなければならない.これが二つ目の角である.

B. ジレンマの第二の角

第二の角を斥けるには論証が必要である.

δοκεῖ δὲ καὶ ἡ ἀπάτη καὶ ἡ ἐπιστήμη τῶν ἐναντίων ἡ αὐτὴ εἶναι. (427b5-6)

これはアリストテレス自身の意見ではない (錯誤の実例と知識の実例が同じなはずはない).むしろ第二の角の帰結である.しかしなぜこれが帰結するのか.知識 A:A も B:B も錯誤 A:B や B:A とは帰結しない.

Hicks, Ross は「反対者の ἐπιστήμη は同一である」という原理に訴えるが,ἐπιστήμη の意味が異なる (ここでは scientia, Wissenschaft の意味ではない).

むしろ EN 5.1 の主張を参照すべき: πολλάκις μὲν οὖν γνωρίζεται ἡ ἐναντία ἕξις ἀπὸ τῆς ἐναντίας (1129a17ff.). 例: 不健康は健康から知られる.DA 1.5, 411a3-7 にも同様の主張がある.これを認めると帰謬法は成立する.もちろん論敵は認めないこともできるが,アリストテレスはここで ad hominem な議論を意図していない.むしろアリストテレスが第二の角を受け入れられないということを示している.したがって錯誤の問題は彼にとって真正な困難となる.

IV 全ての現れが真であるというテーゼ

まとめると,アリストテレスは少し言い過ぎていた.ジレンマは (1) ではなくその補助命題 (3) から出てくるのである.アリストテレスは (1) を認め (3) を斥ける先行者を知っている:

ὅλως δὲ διὰ τὸ ὑπολαμβάνειν (i) φρόνησιν μὲν τὴν αἴσθησιν, (ii) ταύτην δ᾽ εἶναι ἀλλοίωσιν, (iii) τὸ φαινόμενον κατὰ τὴν αἴσθησιν ἐξ ἀνάγκης ἀληθὲς εἶναί φασιν: ἐκ τούτων γὰρ καὶ Ἐμπεδοκλῆς καὶ Δημόκριτος καὶ τῶν ἄλλων ὡς ἔπος εἰπεῖν ἕκαστος τοιαύταις δόξαις γεγένηνται ἔνοχοι. (Met. Γ5, 1009b12-17)

感覚は思考であり,思考は一種の性質変化である.ゆえに感覚も一種の性質変化である.そしてこの結論は,全ての現れが真であるというコミットメントを含んでいる.したがって前節の議論を用いてこの議論も再構成できる: (1) および次の (6) から (5) が結論される.

  • (6) 思考と知覚はどちらも性質変化である.

DA 3.3 の第一の角と似た議論だが,違いもある.DA の議論は認知が「似たものの似たものによる」身体的過程であることを要求するが,(6) はより広い.したがって (2) や (3) を斥ける人,例えばアナクサゴラスも含まれることになる (アナクサゴラスは思考が非物体的だと考え (↔ (2)),また (テオフラストスによれば) 似ないものどもの相互作用だと考えている (↔ (3)).) だからアリストテレスにとって,問題は身体的過程かどうかではないし,「似たものを似たものによって」理論の詳細にも依存しない.むしろ,「性質変化」だという主張が錯誤の説明を不可能にするのだ.

デモクリトスなどを含む以上,この「性質変化」は狭義の κίνησις κατὰ τὸ ποιόν ではない.むしろ広く「別の状態になること」だと考えなければならない.とはいえ,それだけの意味なら,私たちが「性質変化」していることは否定しようがない.より強い主張があるはずだ.

その主張とは,「変化がひとの経験すること,つまり心的状態の内容を決定する」というものだ:

καὶ γὰρ Ἐμπεδοκλῆς μεταβάλλοντας τὴν ἕξιν μεταβάλλειν φησὶ τὴν φρόνησιν: “πρὸς παρεὸν γὰρ μῆτις ἐναύξεται ἀνθρώποισιν.” καὶ ἐν ἑτέροις δὲ λέγει ὅτι “ὅσσον δ᾽ ἀλλοῖοι μετέφυν, τόσον ἄρ σφισιν αἰεὶ καὶ τὸ φρονεῖν ἀλλοῖα παρίστατο.” καὶ Παρμενίδης δὲ ἀποφαίνεται τὸν αὐτὸν τρόπον: “ὡς γὰρ ἑκάστοτ᾽ ἔχει κρᾶσιν μελέων πολυκάμπτων, τὼς νόος ἀνθρώποισι παρίσταται: τὸ γὰρ αὐτὸ ἔστιν ὅπερ φρονέει, μελέων φύσις ἀνθρώποισιν καὶ πᾶσιν καὶ παντί: τὸ γὰρ πλέον ἐστὶ νόημα. (1009b17-25)

パルメニデスについてはテオフラストスの De sens. 3 がいっそう明瞭な並行性を示す.

だが,これだけではまだ (5) は出てこない.心的状態の内容が真だと保証されないからだ.おそらくアリストテレスが考えていたのは,むしろ次のようなことだ.内容の理論は,特定の内容が特定の性質変化から生じるという事実を述べるだけでなく,なぜそうなのかも述べる必要がある.先行者の立場の問題は,内容を説明するさいに当の性質変化以外に訴えることができないということだ.

先行者が取りうる戦略は二つ.一つは (3b) を採ること (エンペドクレス,アナクサゴラス).この場合 (5) が帰結する.もう一つは性質変化と内容の関係を単なるなまの事実とみなすこと (デモクリトス).アリストテレスは後者を特徴づける際に「全ての現れが真」と「どの現れも真でない」の間を揺れ動いている.いずれにせよ論点は,どの現れも同等であり,「真」とか「偽」とかラベリングすることに意味がないということ.仮に「全てが偽」だとしても,逸脱 (deviation) は存在せず,したがって錯誤はない.

V アリストテレスのジレンマ

一方で,アリストテレス先行者を引用するのは,一面の真理を含んでいると信じているからだ.だから,アリストテレスが何を受け入れ何を斥けているかが問題になる.実際アリストテレスも (1) (3) (6) を受け入れているように見える.もちろん様々な留保つきではあるが,しかしその留保によって主要な困難から逃れえているわけではない.

まず,(1) は明確に受け入れている: DA 3.4, 429a16-17. また (3) の一ヴァージョンは 2.5 で擁護される.いわく感覚は対象と可能的に似ており,感覚作用によって現実的に似る.アリストテレスが斥けているのは (3a) のヴァージョンにすぎない.したがって関連する「現れ」はつねに真となるだろう.

(6) からも同じ帰結が生じる.アリストテレスが ἀλλοίωσις と呼ぶのをためらうのは狭義の意味においてにすぎない: 「むしろ εἰς αὑτὸ γὰρ ἡ ἐπίδοσις καὶ εἰς ἐντελέχειαν だ」という論点はここには関係しない.

さらに言えば,アリストテレスはこの帰結を恐れていない.最も基本的な形式である (固有) 感覚や概念把握について言えば,それらは不可謬である.重要なのはひとえにこの限定であって,全ての認知的機能がそうだということにさえ与しなければ,(3b) から破壊的帰結は生じなくなる.

そして現にアリストテレスはそれに与していない:

  • 感覚とも概念把握とも異なる心的状態として想像・連想・記憶・予期・推論・熟慮・欲望・行為・情動・夢などがあり,これら全てが φαντασία の働きを必要とする.
  • また思考 (予測・推論・否定) はふつう単独の概念の把握としての知性の働き以上のものを要する.したがって感覚と φρονεῖν 一般を区別したのは当然である.そして φρονεῖν も φαντασία を必要とする (3.7, 3.8).
  • 感覚も全て単純な因果モデルで説明できるわけではない.花の色や匂いは自体的に感覚に作用するが,「花として」はそうではなく,ただ付帯的に知覚される.解釈者たち (Cashdollar, Modrak) はそうした知覚が他の認知機能を必要とするものと想定しており,それは正しい.そしてそれらの機能は全て φαντασία を前提する――要するに錯誤を容れる限りで φαντασία が必要になる.

要するに彼は,「知覚」「思考」をより狭く理解することで錯誤の余地を容れ,φαντασία という新たな心的状態に訴えて錯誤を説明しようとしている.もちろんそのためには φαντασία はモリエールの嗜眠力のような被説明項の単なる再叙述であってはならず,独立の積極的説明を必要とする.またその説明は思考の説明に先立つ必要がある (思考は φαντασία を前提する諸認知状態に感覚より強く依存するから (後述)).

VI 諸能力の区別

そのためアリストテレスは (1) φαντασία が感覚とも概念把握とも区別されること,(2) φαντασία の内容は別様に説明されるべきことを示さねばならない.これこそ 3.3 の残る部分で行われていることである.

長い中央部 (427b6-428b9) でアリストテレスは φαντασία が感覚とも思考とも異なることを示す一連の議論を行う.φαντασία は以下と区別される:

  1. 感覚 (428a5-18)
  2. 概念把握 (428a17)
  3. 知識 (428a18)
  4. 信念 (427b16-24, 428a18-24)
  5. 信念と感覚の複合 (428a24-b9) (cf. Sph. 264ab; Tim. 52a)

さらに 3.9 では "τὸ φανταστικόν, ὃ τῷ μὲν εἶναι πάντων ἕτερον" と述べている.これが重要なのは,De insomn. 459a16-18 でアリストテレスは感覚と φαντασία は (τῷ εἶναι に異なるにせよ) 実例がつねにともに生じる (always coinstantiated) と認めているからである.要するに非同一性の論拠として (i) 外延的基準と (ii) τῷ εἶναι な違いとがありうる.

(i) は例えば感覚と思考の違いに用いられる (427b7-8, b12-14).φαντασία と推論,φαντασία と信念はここで区別される.φαντασία と感覚の違いは DA で明瞭でなく,DA の外でははっきり共外延的だとされる.

(ii) はより強力な論拠である.そして φαντασία の最も決定的な特徴は虚偽である.虚偽を容れる唯一の候補は信念だが,第一に外延が異なり (φαντασία をもつ動物の方が多い),第二に,好きなものを信じることはできないが,好きなものに φαντασία を働かせることはできる.φαντασία は言明や否定言明とは異なる (3.8, 432a10-11).またそれゆえ情動面でわれわれに作用しない.

VII φαντασία と錯誤

では,φαντασία はいかにして偽でありうるのか.このことが 3.3 の最後の節で説明される.心的状態の内容は因果的に説明されるが,φαντασία と感覚ではその基盤が異なる (428b10-17).ついで φαντασία が真/偽になる諸条件を詳述し,以前の議論の主要要素を再度主張する (428b20-429a8).

以下のような因果分析 (aetiology) が展開される: 感覚の場合,対象が最初の刺激 (αἴσθημα) を周縁的感覚器官にもたらし,その変化が中央の感覚器官に至って感覚経験をもたらす.だがこの刺激はさらなる間接的影響をもたらす.この κίνησιν ὑπὸ τῆς ἐνεργείας τῆς αἰσθήσεως (b13) は φαντασία である (b25-26, 429a1).そしてこれは ὁμοίας εἶναι ταῖς αἰσθήσεσι である (a4-5).したがって φαντασία は二つの側面で感覚から派生する:

  1. φαντασία は因果的に特定の感覚から派生し,
  2. φαντασία の特性 (character) は特定の感覚の特性から派生する.

φαντασία は要は最初の刺激の残響 (echoing) である.このアナロジーを敷衍すると:

  • 私が叫ぶと,
    • 叫びはまず直接的に空気の振動を引き起こし,それによってあなたに私の声が聞こえる.
    • 一方で,空気の振動は峭壁に反響して第二の振動を引き起こし,それによって再度私の声が聞こえる.

それと同様に,

  • 対象 (αἰσθητόν) から,
    • 直接の感覚刺激 (αἴσθημα) が生じ,そこから感覚経験が生じる.
    • 一方で,感覚刺激は φάντασμα をも生じ,そこから別の経験が生じる.

このように φάντασμα は感覚と似た変化であり似た種類の影響をもたらす.要するに因果的な力 (causal power) は似ている.

だが,φάντασμα はその原因,つまり感覚刺激についての (about) ものではない.通常それは原因の原因 (外的対象) についてのものである.だが必ずしもそうではない; 対象に至る因果連鎖はなんら本質的ではない.φάντασμα の内容を決めるのは因果的な力であって因果的先行者ではないのだ.

したがって,φαντασία の特性が感覚の特性から派生したと述べたとしても,それが同一の特性を保つと言う必要はない.φαντασία は元々の刺激からは逸脱しうるが,それでも何らかの感覚刺激の内容と同一である.

アリストテレスの主張をまとめるなら:

  • (P) 任意の φάντασμα φ と時間 t において,φ が t において中心的感覚器官に生み出しうる全効果は,何らかの感覚刺激 s が起きるとき,それが中心的感覚器官に生み出しうる全効果と同一である.そして t において φ の内容 (be about) は s の内容でありうるものと同一である.

このとき φαντασία の内容は因果的発端から完全に逸脱しうる.De insomn. 2, 460b18-27 の記述はこの説明を確証する.また MA 7, 11 の議論も同様の分析に基づいている.またアリストテレスは虚偽を説明する上でより一般に原因と内容の乖離に訴えている (e.g. Met. Δ29).

この新理論には色々な問題があるがここでは扱えない (cf. Caston 1998).ここではただ重要な帰結をいくつか述べておく:

  • まず φαντασία の内容と感覚内容が緊密に結びついている.したがって φαντασία は運びうる情報のタイプについて準知覚的である (imagistic, pictorial).ただし φαντάσματα 自体は観られるものではない.むしろ因果的な力によって表象する感覚システムの変化であり,実際にその因果的な力を行使するかに拘らずその力を持つ.それゆえ φάντασμα が生み出しうる経験が φάντασμα と同じ内容を持つ必要はない.それゆえ φαντασία は画像的経験の同時発生なしに様々な心的状態を担うことができる.
  • また φαντασία が準知覚的であることはアリストテレスの志向性論にとって重要である.ここで問題になっている虚偽は,言語や論弁的思考における虚偽とは種類が違う.後者は概念の組み合わせから説明されるが,ここでは概念も組み合わせも問題になっていない.つまり概念的構造を前提しない志向性論が可能になっている.
    • 熟慮やより高度な認知は概念や推理を必要とするが,そうした機能も φαντασία に,したがって概念的な事柄より基礎的な志向性の形式に,依存している.

VIII φαντασία と信頼性

アリストテレスは φαντασία が真/偽になる諸条件に話題を転じる (428b17-30).いわく知覚の種類に応じて信頼性は異なる (固有感覚,共通感覚,付帯的感覚).驚くべきことに,ここでアリストテレスは固有感覚について錯誤の可能性を認めているが (b19),おそらく実際は φαντασία のことが念頭にある (cf. De insomn. 2, 459b7-13).

信頼性の異なる知覚の諸種から生じた φαντασία の諸種も信頼性が異なる.固有感覚と共起する φαντασία は最も信頼性が高い,他の知覚形式との共起は信頼性が保証されない,離れた対象の場合は最も信頼性が低い.これらをどう説明すべきかはなんら明瞭でないが,感覚と φαντασία が現実世界で働く仕方についてのアリストテレスの偶然的前提に依拠している.これらはそもそも φαντασία がいかにして虚偽でありうるかの説明ではなく,φαντασία が真/偽となる特定の状況の議論にすぎない.

IX 結論

このように,DA 3.3 冒頭で提示された錯誤の問題が,同章の主題であった.先行者の理論は単純すぎて錯誤を説明できなかったが,アリストテレスの感覚と思考の説明にも同様の問題があった.そこである別の能力を導入し,それが感覚に因果・内容両面で依存すると認めつつ,うまくジレンマをかわす分析を行った.すなわち因果的先行者ではなく因果的な力に訴えることで,対象の実在を必要としない説明が得られた.これにより概念や予期に訴えない志向性の内容の基盤が得られた.

したがって φαντασία は「非範例的感覚経験」(Schofield) の典型ではない.むしろ錯誤はあまりにありふれているので説明が必要なのだ.アリストテレスDA 3.3 でこれに応えて φαντασία の理論を提示した.この理論の成否については稿を改めねばならない.