アリストテレスの φαντασία は懐疑的な φαίνεσθαι と関連する (が,必ずしも一貫していない) Schofield (1978) "Aristotle on the Imagination"
- Malcolm Schofield (1978) "Aristotle on the Imagination" in G.E.R. Lloyd and G.E.L. Owen (ed.) Aristotle on Mind and the Senses, Cambridge: Cambridge University Press, 99-129. [Reprinted in Jonathan Barnes, Malcolm Schofield, Richard Sorabji (ed.) (1979) Articles on Aristotle 4, London: Duckworth, 103-132.]
アリストテレスはプラトンとともに想像力 (imagination) の最初の発見者である.そしてそれを詳細に分析したのも彼が初めてである.以下では DA 3.3 に限って φαντασία 論の解釈上の問題を扱う.
そもそも imagination と訳してよいかどうかは疑われてきた.実際 Tht. や Sph. の用例では φαίνεσθαι に対応する心的状態であり,DA 3.3 でも φαίνεσθαι との結びつきは保存されている.加えて,明らかに心的イメジャリーではなく,むしろ直接的感覚経験に近そうな例が φαντασία には割り当てられている.また実際に知覚しているものの φαντασία を持ちうるとも認められている (cf. Wittgenstein, Zettel n.621).そこで何人かの解釈者は,φαντασία を (準) 感覚的現前を把握する包括的能力とみなしてきた.この場合 φαντασία は現象主義者・懐疑主義者にとっての感覚的活動となるか,ないしは (カント的な) 単なる受動的作用を解釈する能力だということになる.
カントと結びつけるなら,imagination と訳しても良いかもしれない.だがこうした見方は DA 2 の感覚論と整合しない.多くの人は "ἡ φαντασία καθ' ἣν λέγομεν φάντασμά τι ἡμῖν γίγνεσθαι" (428a1-2) という主張を「φαντασία は心的イメージを生み出す能力だ」という意味に理解してきた (ただし全員がではないし,私もそうは思わない).そしてまた Ross も φαντασία を 'decaying sense' (ホッブズ) や 'faint and languid perception' (ヒューム) と結びつけた.
こうした証拠の対立は,しかし Hamlyn が言うように議論が不整合であることを意味しない.対立の多くは見かけ上のものにすぎない.例えば想像力と同定するさい範囲を心的イメジャリーに制限する必要はないし,φαντασία を φαίνεσθαι と結びつけたからといって現象主義的に解釈する必要はない (そう前提してしまうのは Ausin が批判する種類の 'appears' の多様性への無感覚による). 後述の通り,アリストテレスが目を向けている φαίνεσθαι の用法は,比較的まれな機会における,「かくかくに見える (――が本当だろうか?)」という懐疑・警戒・どっちつかずの態度 (scepticism, caution or non-committal) を示すたぐいのものである.
とはいえ一方で,φαντασία と想像力は単純には同一視できない.φαντασία の統語的振る舞いと意味論的広がりは 'imagination' と大きく異なる (n11).また 428a1-b9 で φαντασία に割り当てられる諸現象からすると「想像力」とは随分異なる様相を呈する.その議論は一言で言えば「非範例的感覚経験」(non-paradigmatic sensory experiences) をする能力に関わっている.すなわち,夢にせよあいまいなセンスデータにせよ,範例的な成功した感覚知覚に似ているもののその中心的諸特徴を欠いており,それゆえに懐疑的な φαίνεσθαι を生み出す種類の経験である.この解釈の利点は,続く因果分析の理解を容易にすることにある.そこでは φαντασία の感覚的性格が前提され,φαντασία は感覚知覚にもとづき定義される.加えて,非範例的感覚経験を扱っていると考えれば,それに単一の一般的説明を与える試みはそれほどおかしなものでなくなる.
しかし他方で,φαντασία と想像力の同一性を完全に捨て去るのも誤りである.427b16-24 における δόξα と対比された特徴づけは想像力にばっちり当てはまる: φαντασία は意のままになり,また恐ろしいものの φαντασία は直ちに恐怖を引き起こさない (絵のように).これらの特徴は「非範例的感覚経験」に当てはまらないわけではないが,内容上も文脈上も引き合いに出す必要がない.またこの前後の箇所は他とは独立に書かれた痕跡がある (n16: 後の議論 (428a14-24) がここを参照していない).
というわけで,3.3 冒頭の〔「想像力」の〕φαντασία と,428a1 以降の〔「現れ」の〕φαντασία がどうして一つの概念として扱われうるのかを理解する必要がある.答えは,すでに示唆した通り,多かれ少なかれ一貫性のある一群の心理的現象についてアリストテレスは様々な見方を採用していたのだ,というものだ.とはいえ彼も事柄を完全に明確にわかっていたわけではないだろう.
本論文の方法と限定に関する注意.以下では φαντασία の最も詳細な議論である DA 3.3 のばらばらの主張から描像を組み上げる.DA の他の章や PN に依拠しすぎてはいけない (Ross はこの誤りに陥った).
もちろん他の著作と不整合だとまずいだろう.例えば次のような反論が考えられる.(1) 懐疑的・警戒的でどっちつかずな φαίνεσθαι と結びつけると,φαντασία を運動の要件とする MA との整合性が疑わしくなる.(2) より一般に,そのような否定的な心的能力をアリストテレスが特定しようと思ったとは考えにくい.これに対する私の見解は,DA 3.3 の眼目は φαντασία を感覚や思考と区別することにあるので,境界づけに関わる特定の特徴に着目しており,他の著作と強調点が異なる,というものだ.φαντασία は家族的概念であり,文脈が変わると取り出される要素も変わるのである.
φαντασία と φαίνεται
Ross は φαντασία を,(準) 感覚的現れ一般をとらえる包括的能力と見なしている.だが,これは間違いである.
Ross 解釈の最も有力な証拠は Met. Γ5, 1010b1-14 であろう.なるほど,ここでの φαινόμενα は (準) 感覚的現れである (b3-9).そして b2-3 は (Bonitz の修正に基づくなら) τὸ φαινόμενον が真だという主張が φαντασία と感覚の違いから斥けられている.すると φαντασία はあらゆる φαινόμενα を経験する能力だと考えるのは尤もらしい.この箇所や同章全体の Tht. への引証に鑑みればこの用法はふしぎではない.
とはいえこれは唯一の可能な解釈ではない.なるほどアリストテレスは感覚を φαντασία の種と捉えていると考えることもできるが,しかしむしろ φαντασία と感覚を並列していると考えることもできる.Tht. はこの点で一義的に前者の根拠になるわけではない.
というわけで,φαντασία と感覚が同じでないという主張の内実は,DA に,就中 3.3, 428a5-16 に立ち返らなければ理解できない.まず φαίνεται の用法を見る.
ἔπειτα οὐδὲ λέγομεν, ὅταν ἐνεργῶμεν ἀκριβῶς περὶ τὸ αἰσθητόν, ὅτι φαίνεται τοῦτο ἡμῖν ἄνθρωπος, ἀλλὰ μᾶλλον ὅταν μὴ ἐναργῶς αἰσθανώμεθα πότερον ἀληθὴς ἢ ψευδής. (428a12-15)
ここには感覚と φαντασία の対比が明確に見て取れる: ひとをはっきり見ているときは「ひとに見える」とは言わない.'ἡμῖν' は主観性への注目を示す.意識的な解釈活動は φαντασία の役割である.とはいえ他方,意識的反省を伴わなくとも,実際に知覚していることを超え出ている場合,何かに見えることは想像力の働きとなる (例: まばたき).こうした場合にも φαντασία の一般的特徴づけは当てはまる.絵を見る経験に似て警戒的・懐疑的・どっちつかずであり,また意のままになる.
したがってここで φαντασία の範囲は狭い (全ての現れではない).そうでなければ,ここの議論も,2巻の議論も,別の書き方になっていたはずだ.ほか 'φαίνεται' は 428a6-8 および 15-16 に出現し,いずれももっぱら非範例的感覚経験を扱っている.428a5-16 も同様: 例えば a8-11 では φαντασία が若干の動物にないとされ,続いて「多くの φαντασίαι は偽」(a11-12) と言われる.
φαντασία を広義に解する人は,プラトンの「信念と感覚の結合」説を批判する箇所 (428a24-b9) に訴えるかもしれない.そこでアリストテレスは,まず τὸ οὖν φαίνεσθαι ἔσται τὸ δοξάζειν ὅπερ αἰσθάνεται, μὴ κατὰ συμβεβηκός (428b1-2) という説について,信念と対立する「現れ」の経験という反例を持ち出す (b2-4).プラトン自身は φαντασία を広義に解しているように見えるが (Sph. 264a-b),アリストテレスはそれに与していない.プラトン・アリストテレス両方の意味での φαντασία に関して反例が作れれば充分なのである.太陽の例は懐疑論を含むものとして読める.この解釈は De insomn. 460b3ff. とも整合する.(実際のところ,プロタゴラス的 φαινόμενον の例としては,太陽の例はいくぶん奇妙である.Cf. Austin の「月は六ペンスくらいの大きさだ」の分析 (Sense and Sensibilia, p.41)).
Ross は DA 3.3 の末尾を広義解釈の論拠とするが,彼の議論は付帯的感覚の存在を閑却している.また同箇所から φαντασία を特別な解釈能力とみなす Ross の主張は帰結しない.
とはいえ確かに,φαντασία が非範例的感覚経験だとすれば,固有のものを知覚しつつ当のものの φαντασία を持てる理由はよく分からない.アリストテレスは自身の φαντασία のスコラ的分類に圧倒されてしまったのかもしれない.
φαντασία と φάντασμα
428a1-2 では φάντασμα が "ἣν λέγομεν φάντασμά τι ἡμῖν γίγνεσθαι" と定義されている.この文言は φάντασμα が心的イメージの経験能力であるという狭い解釈の証拠とされてきた.これは間違いである.たしかに φάντασμα がイメージを指す場合はあるが (e.g. in De Memoria),DA 3.3 はそうではない.
φάντασμα のもとにある φαντάζω は "make apparent" を意味する.ヘレニズム期以前には中・受動態のみ出現する ("only in Pass." という LSJ の記述は誤り): Hdt. 7.10, 4.124, 7.15, Pl. R. 380d, Symp. 211a, Phil. 51a, etc. プラトンの場合もっぱら偽りの見せかけ (deceptive guises) を指す.
一方で名詞の φάντασμα には,アリストテレス以前には,動詞から期待される「見せかけ」「提示」の意味はない.プラトンやアリストテレスはときおり「幽霊」の意味で用いる.だがプラトンのよくある用例は φαίνεσθαι と関連付ける用法である.この場合たしかに「イメージ」「表象」に近くなる.だがプラトン自身 Sph. で自分の用法の基盤を明らかにしている.彼によればソフィスト術は φανταστική の一種であり,φάντασμα は εἴδωλον の一種であって,忠実な似姿として現れるがそうでない εἴδωλον を指す.またイメージと無関係なところでも φάντασμα は φαίνεσθαι と関連付けて用いられる: Parm. 165d, Crat. 386e.
これら二例は De insomn. 460b3ff. の用法とも対応しており,この箇所はさらに DA 3.3 428a1-b9 とも類似している.それゆえ結論として,DA の φάντασμα も懐疑的 φαίνεται に対応する名詞であると思われる.実際また "λέγομεν" という言葉づかいは,懐疑的 φαίνεται に依存した言語的振る舞いを問題にしていると理解できる.
こうした言語的振る舞いへの依拠は,なるほど ἔνδοξα への依拠というアリストテレス哲学の特徴を示しているが,同時に想像力に関する二つの不毛な切り出し方を避けている点で,心理的現象の特徴づけ方に関する彼の洞察を示している.すなわち単に物理的・生理的に特徴づけるのでもなく,また (ヒューム流に) 内観によって特徴づけるのでもない.
φαντασία が働く事例のなかで,夢の例は詳説に値する.意のままになる・恐怖を引き起こさないという一般的特徴づけがどちらも当てはまらないからだ.
Ross は夢と想像力を結びつけるためには心的イメジャリーの概念に訴えねばならないと考えているように見える.だが De insomn. が実際に用いているのは,そうした概念ではなく,むしろ φαίνεται が夢の内容とアスペクト視 (seeing of aspects) の両方に用いうるという事実である.いわく,夢の原因は,発熱している場合などの病的なアスペクト視の原因と同じである (428b25-8).すなわちいずれの場合にも,何らかの小さな類似のために,あるものが別のものに見えているのだ.熱のあるひとの現れも,意のままにならず,また場合によっては情動や行為を引き起こす.これらに共通の因果的説明によって通常の φαντασία の基準が満たされないことは説明できる.つまり諸能力が一般に損なわれているために φαντασία のみが効いている状況である.ここに至って,φαντασία を想像力と呼ぶべきかどうかというのは擬似問題にすぎなくなる (どうとも呼べる).
知性と感覚の境界にて
DA 3.3 において φαντασία は,知性と感覚のどちらとも異なるものとして導入される.ある意味で章全体がこの擁護に充てられていると言ってよい.最初の諸節 (427b16-428b9) は φαντασία が両者と異なることの論証であり,最後の節 (428b10-429a9) は φαντασία に感覚が必要であることの論証である.
アリストテレスは φαντασία と感覚・思考を同一視する論者に対する一撃の論駁にこだわっており,それゆえこれらの近縁性について深く省察していない.また φαντασία とはいかなるものかについての無矛盾な定式化も行っていない.
アリストテレスは φαντασία を διάνοια や νοεῖν と区別するが,3.3 の記述はこの点で揺れ動いている.いわく φαντασία は ὑπόληψις の要件であり,また περὶ δὲ τοῦ νοεῖν ... τούτου δὲ τὸ μὲν φαντασία δοκεῖ εἶναι τὸ δὲ ὑπόληψις (427b27-28).
とはいえそこから「思考の活動と φαντασία は区別されていない」と結論すべきではない.De Memoria (449b31-450a5) では φαντασία は ὑπόληψις のみならず思考過程自体とも区別されている.少なくとも,DA で φαντασία が ὑπόληψις としか区別されていないからといって,思考と φαντασία を全く区別していなかったと言うことはできない.3.3 の眼目は φαντασία と判断能力の区別にあり,したがって ὑπόληψις と区別できれば充分だったのだろう.加えて φαντασία と ὑπόληψις を区別する基準 (意のままになる・情動的反応が異なる) は φαντασία と思考活動一般とを区別するものではない.
一方で φαντασία の思考に似た特徴は一定不変のものではない.夢見るときや発熱時の φαντασία はむしろ知覚に似る.428a1 以降の議論も同様で,φαντασία は ὁμοίαν ἀνάγκη εἶναι τῇ αἰσθήσει (b14) だとされる.要するにアリストテレスは φαντασία を思考の一形式として扱うところから始め,感覚をその本性に組み入れて議論を終えている.特に事実について真/偽なる見解を与える傾向に着目することで,φαντασία は感覚同様,むしろ判断の能力であるとされているように見える.Ross は 428a3 の修正を通じてこの点を否定し,アリストテレスが 428a5-b9 で,φαντασία が能力であることを否定しているという解釈を示している.この修正は不要である (Rodier).アリストテレスの論点はむしろ,φαντασία は感覚や信念と同様に真/偽として評価されうるものの,評価の帰結が異なるということである (太陽の例など).
以上の通り φαντασία の統一性は脆弱である.なるほどアリストテレス自身の諸々の例を複雑だが整合的な概念地図のうちに位置づけることはできるかもしれないが,彼自身が自分の説明のうちなる緊張や,思考と感覚がともに想像力に寄与する仕方をきちんと述べるという哲学的課題の難しさに気づいている様子がないことは注意すべきだ.また φαντασία がときに ὑπόληψις に近づくという不整合は確かにあるように思われる.
結論
とはいえ,関連するさまざまな心理現象を視野に収めた想像力論の嚆矢として,アリストテレスの議論は称賛に値する.