『自然学』I の議論は混乱している Bostock (1982) "Aristotle on the Principles of Change"

  • David Bostock (1982) "Aristotle on the Principles of Change in Physics I" Malcolm Schofield, Martha Nussbaum (eds.) Language and Logos. Cambridge University Press. 179-196.

特に節立てされていないが,便宜上見出しをつけた。最後の部分についての自分の理解がやや甘いと感じるが,ひとまず理解できた範囲で書き留めておく。


〔問題の導入: 原理論史と変化論との論点の齟齬〕

Phys. I 冒頭では,「自然について」の探求は「原理」に関する規定から始めるべきであると述べられる。ここでアリストテレスは,「自然」とは何か (第2巻で答えられる),ここで「原理」とは何か,を明示しない。だが,第2章以後のタレス以来の哲学史が示すとおり,アリストテレスが試みているのは,世界の究極的構成要素 (the ultimate ingredients) の列挙,および,それらから世界が構成される仕方の説明である。

しかしながら,間もなく,アリストテレス自身の問題は全く異なるものであることが判明する。本稿の主題は,この相違に注意を向け,アリストテレスが相違にどの程度気づいていたかを問い,相違に気づいていなかったということの諸帰結をたどることである。

アリストテレスの議論が進むにつれ,彼が関心を有する原理が,自然的対象 (τὰ φύσει ὄντα) の原理ではなく,自然的過程ないし変化,とりわけ生成の原理であるとわかってくる。この主題は I 4 で導入され (187a15),I 5 で確立される (188a30-b26)。I 6-7 も同様に進む。

もちろん,自然概念は運動・変化と密接に結びついており,またこうした分析において自然的対象の「構成要素」という視点も失われてはいない。だが,I 7 の議論が自然的変化に限定されていないことは注意すべきである。ここで,自然についての議論は,より一般的な議論へと逸脱している。

最初から,先行する自然学者たちの問題は,解決されるというよりは迂回されている。アリストテレスが「原理は何であるか」よりも「いくつあるか」に関心を寄せているのは興味深い特質と言える。取り出されている唯一の論点は「みな反対者を用いている」というものであり,それがどの対かは分からない。

特にアリストテレスは,たった一つの対しか必要でないと論じているように見える (I 6)。これは奇妙な主張であり,熱冷乾湿の二対の教説などに鑑みればなおのことである。ーー だが,これは誤解である。ただ一つの対とはむろん「形相と欠如」のことだからだ。そして,これは先行する自然学者の学説となんら対立する見解ではない。自然学者の探究の続きであるかのように導入されている議論は,じつは変化一般についてのメタ探究なのだ。

〔I 7 の教説の解釈〕

アリストテレスの教説は,変化が形相・欠如・基礎に置かれるものを含む,というものだ。この一般性からして,純粋に概念的な探究の結果であることが予想されるかもしれない。事実 I 7 のほとんどの議論は概念的な水準でなされているように見える。ここでの議論の目的は,我々の言葉づかいについてコメントし,それが以下の一般的枠組みに当てはまることを示すことである:

Διωρισμένων δὲ τούτων, ἐξ ἁπάντων τῶν γιγνομένων τοῦτο ἔστι λαβεῖν, ἐάν τις ἐπιβλέψῃ ὥσπερ λέγομεν, ὅτι δεῖ τι ἀεὶ ὑποκεῖσθαι τὸ γιγνόμενον, καὶ τοῦτο εἰ καὶ ἀριθμῷ ἐστιν ἕν, ἀλλ' εἴδει γε οὐχ ἕν· τὸ γὰρ εἴδει λέγω καὶ λόγῳ ταὐτόν· οὐ γὰρ ταὐτὸν τὸ ἀνθρώπῳ καὶ τὸ ἀμούσῳ εἶναι. Καὶ τὸ μὲν ὑπομένει, τὸ δ' οὐχ ὑπομένει· τὸ μὲν μὴ ἀντικείμενον ὑπομένει (ὁ γὰρ ἄνθρωπος ὑπομένει), τὸ μὴ μουσικὸν δὲ καὶ τὸ ἄμουσον οὐχ ὑπομένει.

だが,純粋な概念分析だけからは,全ての場合に当てはまる (ἐξ ἁπάντων τῶν γιγνομένων ἔστι λαβεῖν) とまでは言えない: 無からの生成ケースについて考慮する必要がある。このケースがありえない,ということの論証は,以下でなされる。

[190a31] πολλαχῶς δὲ λεγομένου τοῦ γίγνεσθαι, καὶ τῶν μὲν οὐ γίγνεσθαι ἀλλὰ τόδε τι γίγνεσθαι, ἁπλῶς δὲ γίγνεσθαι τῶν οὐσιῶν μόνον,

[a33] κατὰ μὲν τἆλλα φανερὸν ὅτι ἀνάγκη ὑποκεῖσθαί τι τὸ γιγνόμενον (καὶ γὰρ ποσὸν καὶ ποιὸν καὶ πρὸς ἕτερον [καὶ ποτὲ] καὶ ποὺ γίγνεται ὑποκειμένου τινὸς διὰ τὸ μόνην τὴν οὐσίαν μηθενὸς κατ' ἄλλου λέγεσθαι ὑποκειμένου, τὰ δ' ἄλλα πάντα κατὰ τῆς οὐσίας)·

[b1] ὅτι δὲ καὶ αἱ οὐσίαι καὶ ὅσα [ἄλλα] ἁπλῶς ὄντα ἐξ ὑποκειμένου τινὸς γίγνεται, ἐπισκοποῦντι γένοιτο ἂν φανερόν. ἀεὶ γὰρ ἔστι ὃ ὑπόκειται, ἐξ οὗ τὸ γιγνόμενον, οἷον τὰ φυτὰ καὶ τὰ ζῷα ἐκ σπέρματος.

[b5] γίγνεται δὲ τὰ γιγνόμενα ἁπλῶς τὰ μὲν μετασχηματίσει, οἷον ἀνδριάς, τὰ δὲ προσθέσει, οἷον τὰ αὐξανόμενα, τὰ δ' ἀφαιρέσει, οἷον ἐκ τοῦ λίθου ὁ Ἑρμῆς, τὰ δὲ συνθέσει, οἷον οἰκία, τὰ δ' ἀλλοιώσει, οἷον τὰ τρεπόμενα κατὰ τὴν ὕλην. πάντα δὲ τὰ οὕτω γιγνόμενα φανερὸν ὅτι ἐξ ὑποκειμένων γίγνεται.

全ての生成は何かからの (from) 生成である,と論じており,第3-4段落の議論はあきらかに経験的である。とくに第4段落の列挙は諸事例の経験的列挙であり,ア・プリオリな分割ではない。ここで論じられているのは〈なること〉(becomings) という特殊な種類の生成 (generations) であり,これは無からの生成を含まない。全ての現実的生成は〈なること〉である。とはいえ他方,「全ての〈なること〉において何かが存続しなければならない」というのはア・プリオリな概念分析である。

もっとも,このように経験的/概念的分析という二段階を設けることは,多分に理念化の結果であって,アリストテレス自身がなしている区別ではない。とはいえ,アリストテレスが「何かが存続し,ある形相が獲得/喪失される」という結論に自信を持っていることの理由は,彼がこのような議論を念頭に置いていたという想定にしか求められえない。

しかしここで,「〈なること〉において何かが存続する」という見解をアリストテレスに帰することに反対する Charlton の議論に対し,本稿の見解を擁護しなければならない。彼は「基礎に置かれるもの」を一貫して述定の主項の意味に解する。だが,「全ての場合に当てはまる」という文言は,「何かが存続する」解釈を支持する*1。また続く 190b9-14 では明らかに実体の生成について語られている。

ὥστε δῆλον ἐκ τῶν εἰρημένων ὅτι τὸ γιγνόμενον ἅπαν ἀεὶ συνθετόν ἐστι, καὶ ἔστι μέν τι γιγνόμενον, ἔστι δέ τι ὃ τοῦτο γίγνεται, καὶ τοῦτο διττόν· ἢ γὰρ τὸ ὑποκείμενον ἢ τὸ ἀντικείμενον. λέγω δὲ ἀντικεῖσθαι μὲν τὸ ἄμουσον, ὑποκεῖσθαι δὲ τὸν ἄνθρωπον, καὶ τὴν μὲν ἀσχημοσύνην καὶ τὴν ἀμορφίαν καὶ τὴν ἀταξίαν τὸ ἀντικείμενον, τὸν δὲ χαλκὸν ἢ τὸν λίθον ἢ τὸν χρυσὸν τὸ ὑποκείμενον. (190b10-14)

ここで「生成するものが合成物 (συνθετόν) だ」と言いうる根拠は,直前で述べられる,存続する要素と獲得される要素の区別に存する。そして直後に,この主張が実体に妥当することが説明される。したがって,Charlton は誤っており,「基礎に置かれるもの」は二重の役割を果たす。

以上が I 7 の教説の解釈である。この教説は,二つの重要な問題を呼ぶ。(1) このア・プリオリな論証は正しいのか? すなわち,全ての〈なること〉において何かが存続するのか? (2) アリストテレスはこの主張を固持していたか? ーー だが,ここでは以上の問いには答えない。むしろ,I 5-6 に戻ることにする。

〔I 5-6: 論証の混乱はアリストテレス自身の混乱を示す〕

「変化は全て形相の獲得/喪失である」というテーゼは,自然の基礎的過程における反対者の役割に関する自然学者の理論と関係しない。形相と欠如の概念は反対者概念より広い概念である。しかし,アリストテレスはこの点に気付いていないように思われる。というのも,I 5 で「変化はつねに反対者の間で起こる」というテーゼを擁護しているからである。そして I 5 の論証はむろん誤っている。

第一に,「全ての白くないものから生じるわけではなく,黒いもの,あるいは中間色のものから生じる」と述べるが (188a37ff.),無色のものからも生成もあるだろうーー等々。特に,「調和したもの / 不調和なもの」の対において誤謬は明らかである: 銅像の形と反対の形はない。実際また,I 7 が認める実体カテゴリーに属する形相には反対者はないはずである。

同様の混乱は I 6 にも見られる。第一の論証 (189a22-26) は形相と欠如全般には妥当しない。もっとも結論自体は変化全般に妥当する。

第二の論証 (187a27-32) には驚くべき点が二つある。(1)「原理は何らかの基礎に置かれるものについて語られるべきではない」ということを額面通りに受け取ると,形相と欠如は原理ではなくなってしまう。おそらく,これほど強い主張を読み取るべきではないのかもしれない。(2)「我々は,反対的なものどもを,あるものどものうちのいかなるものの本質存在であるとも見ない」ということも,形相と欠如には妥当しない。この点は第三の論証にとって致命的である。

第三の論証 (189a32-34) は,実体が何ものの反対でもないことから,「どうして実体ではないものから実体があることがあろうか? あるいは,どうして実体ではないものが実体に先立つことがあろうか?」と続ける。つまり反対者を原理とすると実体が原理ではなくなる。だが,形相/欠如に議論を一般化するとき,第二実体の身分がどうなるのか,やはり明らかでない。

結局の所,I 6 で「第三の原理」が実体であるとされているのか,が問題である。一方でアリストテレスはこれらの論証の適切さについてコミットしていないようにも見える。だが他方で,I 7 末尾の一節は,I 6 の議論は正しく,しかしこの時点では「第三の原理」が何であるかは明らかでなかったと示唆する。加えてしかし,I 6 末尾の議論 (189b22-7) は第三の原理が実体であることを前提している。以上より,I 5-6 はなんら aporematic ではなく,見解は確立されている。

したがって,アリストテレスは「形相と基礎に置かれるもののいずれが実体であるかは,いまだ明らかでない」(I 7, 191a19-20) と述べるが,結論は定まっているように見える。いかにしてアリストテレスはこの結論を回避するのか?二通り考えられる。(1) Cat. の教説を取り下げ,非実体への述定を許容する (cf. Metaph. Z3)。(2) 実体が第三の原理であることを否定する。

*1:明示的に述べられていないが,文脈から補えば,「実体の変化において留まるものである以上,単なる述定の主項ではありえない」という趣旨だろう。