Γίγνεσθαι の文法 Burnyeat (2003) "Apology 30b2-4"

  • Myles Burnyeat (2003) "Apology 30b2-4: Socrates, Money, and the Grammar of ΓΙΓΝΕΣΘΑΙ" Journal of Hellenic Studies 123, 1-25.

問題

οὐκ ἐκ χρημάτων ἀρετὴ γίγνεται, ἀλλ᾽ ἐξ ἀρετῆς χρήματα καὶ τὰ ἄλλα ἀγαθὰ τοῖς ἀνθρώποις ἅπαντα καὶ ἰδίᾳ καὶ δημοσίᾳ.

この文は通常次のように訳される: "Virtue does not come from money, but from virtue money and all other good things come to human beings in both private and public life".

だが,徳が富をもたらすという主張は,プラトンのその他のテクストに反する.聖書 (マタイ6:33) を引いて擁護する論者もいるが,聖書もまた両面的である (マタイ19:23).

翻訳の選択肢

Burnyeat (1971) では,標準的訳文を批判して,χρήματα を一般的に 'valuables' と訳した.これは誤りで,そうした意味の拡張を行うなら πλοῦτος を用いるべきである.後に Vlastos が Burnet (1924: 124) の解決を発見した: χρήματα καὶ τὰ ἄλλα ἅπαντα を主語,ἀγαθὰ τοῖς ἀνθρώποις を述語と取るべきである.

独仏の学者はそれぞれに標準解釈に懸念を表明してきた.英訳は Burnet の提案を無視することが多かったが,近年は Burnet 解釈がいくらか復活してきた.Burnet 解釈への唯一の筋の通った反論は De Strycker and Slings のものである:

[Burnet's] construction ... cannot be accepted. The parallelism of the two pointedly antithetical members requires (1) that the sentence could be ended with χρήματα, and that καὶ τὰ ἄλλα κτλ. should be considered an afterthought; (2) that γίγνεται should in both members mean 'comes from'. Besides, the collocation of ἅπαντα shows that ἀγαθά cannot be separated from τὰ ἄλλα and ἅπαντα. If Plato had wanted to say what Burnet makes him say, he would certainly not have said it in such an ambiguous and misleading way.

金銭の価値に関するソクラテスプラトンアリストテレスの議論

上記の第三の論点である Burnet による ἀγαθά と τὰ ἄλλα の分離から始める.もし χρήματα καὶ τὰ ἄλλα ἀγαθά が一続きなら,ソクラテスは金銭を善と考えていたことになる.だがソクラテスが in propria persona にそう主張する箇所はプラトン著作のどこにもない.また 30b の Burnet 解釈は 41d ともうまく符合する.

De Stryker and Slings も 30b と 41d が一緒に解釈されるべきことは認めるが,しかし彼らの方針で解釈すべきだとする.また彼らは Leg. I.631bc や R. X.613a も付け加える.しかしながら,後者では貧しさが単なる τῶν δοκούντων κακῶν に数えられている.彼らの議論の誤りは R. 全体の解釈の誤りに由来すると思われる.Leg. の一節もよく読めばむしろ Burnet 解釈と符合する.

後代のプラトン主義の伝統では富を善に数え入れることもあったが,これはプラトンアリストテレスとを調和させようとした結果であり,アッティクスのように純粋なプラトン主義を保とうとする人々は魂の善のみを善だと主張した.かつアリストテレスの実際の立場も後代の見かけよりニュアンスに富んでいる.

Rhet. I.5 では金銭が善に数えられているが,これはエンドクサの繰り返しに過ぎない.EE VII.15 に見られる彼の立場は,富は本性上善ではあるが,善い人にとってしか善ではない,というものである.NE I.8 では富の道具的価値が,やはり有徳な人に関してのみ,認められている.これらはプラトンの見解への異論というよりはその洗練と言える.

De Strycker and Slings は Pol. VII.1 1323a40-1 を引証する.しかしこれは公刊著作を用いた箇所であり,かつ無限に蓄財すべきだと考える人々への ad hominem な反論の一部であって,論点はむしろ R. X の議論と相即する.

あることとなること

繰り返すと,標準的翻訳への異論はあくまで哲学的であり,文献学的なものではない.ἀγαθά が γίγνεσθαι の主語となる例はプラトンにもある.以下では ἀγαθά が述語になりうることを文献学的に説明する.

どう翻訳するにせよコンマの後に γίγνεται を補う必要がある. De Stryker-Slings の異論 (2) は,Burnet 解釈だと γίγνεται の意味が一つ目 (comes to be) と二つ目 (becomes ) で変わってしまう,というものだ.だが,ここに意味の変化はない.このことを言うには Ap. を離れてプラトン=アリストテレス存在論の深みへと脱線する必要がある.

De Stryker-Slings による γίγνεσθαι 理解は意味論的に関連する εἶναι の実在的意味と述定的意味を分ける標準的理解と並行的である.そして近年の研究では,プラトンに関して,この見解が不適当であることを示した (esp. Kahn, Brown).以下では γίγνεσθαι についても同様だと論じる.

現象として εἶναι は補語を取ることも取らないこともある: (1a) x ἐστι, (1b) x ἐστι F. γίγνεσθαι も同様である: (2a) x γίγνεται または (2b) x γίγνεται F. ここで問題なのは (2a) と (2b) の関係である.以下では,(1) と (2) はどちらも両義的ではなく,(1a) も (2a) もそれだけで完全な文であるのみならず,(1a) から (1b),(2a) から (2b) への移行 (補語の追加) は意味を変えないと論じる.

類比: 'I am teaching' はそれだけで完全である (それだけで真偽を問いうる) が,さらに 'I am teaching French' とさらに補完できる (further completable).以下ではプラトンギリシア語でこれがどう働いているのかを論じる.そのために,εἶναι が決定的な役割を果たす,二つの哲学的に重要な箇所を引証する.

プラトンにおける「ある」

例1: Tht. 185a8-d1 (この箇所の議論の意義につき cf. Burnyeat (1976) "Plato on the grammar of perceiving").

Σωκράτης περὶ δὴ φωνῆς καὶ περὶ χρόας πρῶτον μὲν αὐτὸ τοῦτο περὶ ἀμφοτέρων ἦ διανοῇ, ὅτι ἀμφοτέρω ἐστόν;

Θεαίτητος ἔγωγε.

Σωκράτης οὐκοῦν καὶ ὅτι ἑκάτερον ἑκατέρου μὲν ―― ἕτερον, ἑαυτῷ δὲ ―― ταὐτόν;

Θεαίτητος τί μήν;

Σωκράτης καὶ ὅτι ἀμφοτέρω ―― δύο, ἑκάτερον δὲ ―― ἕν;

Θεαίτητος καὶ τοῦτο.

Σωκράτης οὐκοῦν καὶ εἴτε ἀνομοίω εἴτε ὁμοίω ―― ἀλλήλοιν, δυνατὸς εἶ ἐπισκέψασθαι;

Θεαίτητος ἴσως.

Σωκράτης ταῦτα δὴ πάντα διὰ τίνος περὶ αὐτοῖν διανοῇ; οὔτε γὰρ δι᾽ ἀκοῆς οὔτε δι᾽ ὄψεως οἷόν τε τὸ κοινὸν λαμβάνειν περὶ αὐτῶν. ἔτι δὲ καὶ τόδε τεκμήριον περὶ οὗ λέγομεν: εἰ γὰρ δυνατὸν εἴη ἀμφοτέρω σκέψασθαι ἆρ᾽ ἐστὸν ἁλμυρὼ ἢ οὔ, οἶσθ᾽ ὅτι ἕξεις εἰπεῖν ᾧ ἐπισκέψῃ, καὶ τοῦτο οὔτε ὄψις οὔτε ἀκοὴ φαίνεται, ἀλλά τι ἄλλο.

Θεαίτητος τί δ᾽ οὐ μέλλει, ἥ γε διὰ τῆς γλώττης δύναμις;

Σωκράτης καλῶς λέγεις. ἡ δὲ δὴ διὰ τίνος δύναμις τό τ᾽ ἐπὶ πᾶσι κοινὸν καὶ τὸ ἐπὶ τούτοις δηλοῖ σοι, ᾧ τὸ ‘ἔστιν’ ἐπονομάζεις καὶ τὸ ‘οὐκ ἔστι’ καὶ ἃ νυνδὴ ἠρωτῶμεν περὶ αὐτῶν; τούτοις πᾶσι ποῖα ἀποδώσεις ὄργανα δι᾽ ὧν αἰσθάνεται ἡμῶν τὸ αἰσθανόμενον ἕκαστα;

Θεαίτητος οὐσίαν λέγεις καὶ τὸ μὴ εἶναι, καὶ ὁμοιότητα καὶ ἀνομοιότητα, καὶ τὸ ταὐτόν τε καὶ τὸ ἕτερον, ἔτι δὲ ἕν τε καὶ τὸν ἄλλον ἀριθμὸν περὶ αὐτῶν.

最初の ἐστόν は existential で,ダッシュ内に了解される εἶναι は copula だというのが普通の理解ではないだろうか.だが,プラトンの議論は単一の動詞を必要とする.

最後のソクラテスの οὐκ ἔστι は色や音の存在の否定ではありえない.色は自身と同一であり,音と同一でありはせず,音と似たものである等々の意味である.ここでプラトンは x οὐκ ἐστι F から x οὐκ ἐστι へと移行している.こうした移行はプラトンだけのものではない (cf. Dissoi Logoi 5,5); 仮に『両論』の著者がプラトンに影響を受けていたとしても,少なくとも論理的・言語的におかしいとは思っていない.というわけで,最初の ἐστόν とダッシュ内が同じ意味で使われていると考えるべきである.ここでは 'to exist' とは訳すべきではない (プラトンで他にそう訳せる箇所があるのは確かだが,その場合でもギリシア語の正確な意味を伝えていると考えるべきではない).

例2: R. V, 476d 以降.ここでは見たり聞いたりすることを愛好する人々が知識を持たないことが次のように論証される: (1) 知識はつねに τὸ ὄν についてのものだが,(2) 彼らが尊ぶ美しいものは醜い (美しくありはしない) ものだとわかることもある.(3) したがって,慣習的に美しいとみなされているものは,μεταξύ που κυλινδεῖται τοῦ τε μὴ ὄντος καὶ τοῦ ὄντος εἰλικρινῶς である.(4) それゆえ ((1) より) 知識の対象とはならない.この (2) から (3) が出るためには 'x is F' から 'x is' へ,'x is not F' から 'x is not' への移行が必要である.

この単一の動詞は,Sph. では,単一の形相たる〈ある〉(Being) に対応する.Sph. 252eff. はこうした諸形相が母音に比される: 全ての音節は母音を必要とするが,そのことによって母音が単なるつなぎ目 (繋辞) となるわけではない.こうした「完全だが補完可能」な性質は Leg. X, 901c8-d2 にはっきり例示されている.

アリストテレスにおける「ある」

アリストテレスプラトンの単一的「ある」概念に対抗して τὸ ὂν λέγεται πολλαχῶς と主張した: 10種の κατηγορίαι (述定のタイプ) は還元不可能な仕方で異なる〈あるもの〉の種をなす.そのどれも述定と対比される意味での実在ではない; 実体のみが「ἁπλῶς にある」というのを「実在する」と言い換えてしまうとアリストテレスの寛容な存在論は毀損されてしまう.x ἐστι からは x ἐστι F が導かれる (F はカテゴリー的に適する値).

反対に x ἐστι F から x ἐστι が導かれるとは限らないとする点で,アリストテレスプラトンより慎重であった (De Int. 11, SE 5, 25, Met. Θ3).とはいえそれも一般則の例外にすぎない.アリストテレスにおいても ἐστι はそれ自体で意味論的な意味を持つのであり,その数が10個あるだけである.つまりプラトン同様,単なる繋辞の「ある」という考えはアリストテレスの与り知らないところだった.この考えに最も接近したのは De Int. 3, 16b19-25 だが,ここで述べられているのも,高々,「文脈なしには意味を持たない」ということに過ぎない.繋辞を分離するには,それを実在の「ある」と対比できなければならない.

対比の重要性はガレノス,Inst. Log. 2, p.5.3-22 Kalbfleisch を見れば明らかである.ここでは ἁπλῆ ὕπαρξις としての「ある」が語られており,この「ある」は 'to exist' と訳してよいようなものである.とはいえ,ἁπλῆ と付いているのは,ὑπάρχειν も補完可能な動詞だからである.なるほど ὕπαρξις は私たちが実在的に訳すような用法を表しがちである.名詞は原理的にはもとの動詞 (root verb) の任意の用法を示しうる.そして実際,ὕπαρξις も述定・何か類的なあること (generic being of something)・任意のカテゴリーのものの οὐσίαを表す.ὕπαρξις の意味は文脈により異なるのであり,ὕπαρξις が実在を「意味する」と言うのには用心したほうが良い (cf. Wiggins 1971).

Cf. ὕπαρξις は οὐσία 同様「財産」の意味があり,これは全く他と区別された意味 (distinct meaning) である.Tht. 144cd は οὐσία のこの「あるもの」と「財産」の両義性に基づいてダジャレを言っている.そしてダジャレは意味の区別があることの証拠である.οὐσία / ὕπαρξις の実在用法と述定用法に関する同様のダジャレは想像しがたい.

アリストテレスに戻ると,彼は APo. II.1 で (神やケンタウロスが)「ἁπλῶς にある / ありはしない」の問いに優先順位を与えた後に,しかし「では神は何であるのか (What, then, is a god?)」の問いを付け加える.私たちは *"What, then, exists a god?" と問うことはできない.アリストテレスにとっても,端的な「ある」(is simpliciter) は完全であるが補完可能なものである.

存在しない対比のもう一方 (繋辞) についてはもっと強く言ってよい: かりに意味論的意味を持たない繋辞としてアリストテレスが考えているとすれば,彼はカテゴリー論だけでなく,εἶναι という重要動詞についてのその他の哲学的テーゼも主張できなくなるだろう (cf. Δ7, E2, Θ1, and esp. Γ1-2, E1).

アリストテレスにおける「なる」

次いで γίγνεσθαι に移る.GC I.2-5 で γίγνεσθαι ἁπλῶς は γίγνεσθαί τι と区別される.彼は γίγνεσθαι ἁπλῶς という考えを擁護した上で,γίγνεσθαι ἁπλῶς (実体的変化) と質的・量的変化とを区別する.両者は対称的である (Broadie): 前者は基礎に置かれるものが変化し属性が残る; 後者は基礎に置かれるものが残り属性が変化する.

C.J.F. Williams はこの区別が coming into existence と coming to be something or other の区別にぴったり対応しないことを正しく指摘するが,それをフレーゲ的な二階の述語として existence を捉えていなかったことによる混乱として批判する.だが,これはギリシア語を誤って exist の意味に取った結果の批判である.

Met. Z7, 1032a13-14 を見よ: πάντα δὲ τὰ γιγνόμενα (i) ὑπό τέ τινος γίγνεται καὶ (ii) ἔκ τινος καὶ (iii) τί. こうした構文は他にも見られる.これを現代語訳すると次のように 'come to be' を反復せざるを得ない: 'Everything that comes to be comes to be by the agency of something and from something and comes to be something.' この英語は Burnet の Ap. 訳と完全に並行的である.

これに続いて彼は "τὸ δὲ τὶ λέγω καθ᾽ ἑκάστην κατηγορίαν: ἢ γὰρ τόδε ἢ ποσὸν ἢ ποιὸν ἢ πού" と述べる.ここで γίγνεσθαι ἁπλῶς は γίγνεσθαί τι の一例にすぎない.

実体的な「なる」の構造についてのアリストテレスの見方の具体例を挙げるについては哲学的なややこしさがある:「ソクラテスが人間になった」と言うと,ソクラテスが人間になる前に存在したかのように聞こえてしまう.とはいえ,こうしたややこしさはギリシア語動詞の文法的分析そのものとは無関係である.

さて,(iii) が4つのカテゴリー的に異なるタイプの前述語をカヴァーするとしよう.したがって,上記の定式における γίγνεσθαι は πολλαχῶς λεγόμενον となる.しかし,上記の定式が教えるのは,γίγνεσθαι ἁπλῶς が実体カテゴリーの述語によってさらに補完可能だということである.

要するに: (1) Ross の翻訳が示すように,'come to be' は補完不可能な実在的意味を持つ (点で Williams は正しい).(2) だが,ギリシア語の x γίγνεται は補完可能である.(3) ゆえに,アリストテレスと Williams の間で,言語は変わっている.

'x exists' のように文法的に補完不可能な,existence を意味する動詞はギリシア語にあるか.ὑφεστηκέναι は補語を取りえない点で最良の候補である.しかしガレノスは「同時代のギリシア人が ὑφεστηκέναι を旧来の εἶναι, ὑπάρχειν と同じ ἔννοια で用いている」と述べている.またエピクロスや新プラトン主義者の用法は existence ではなく度合いを容れる reality の意味に近い.

もう一つの問題は ὑφεστηκέναι と ὑπάρχειν に関するクリュシッポスの対比にある.この問題は強調されすぎてきたきらいがある; 両者はいつでも対比されるわけではない (cf. Sext. Mat. 8.338, Alex. In APr. 4.9-11).ὑπόστασις グループの範囲とニュアンスを特定するのは容易ではないだろう.

こうした問題を深追いする代わりに,次の示唆に留める: おそらくどんなギリシア語動詞も 'to exist' には意味が合致しない.おそらくは現代ヨーロッパ諸語におけるこの語の出現の方が説明を要する.OED は英語における出現を 1602 年とし,同様に Gilson は仏語に定着したのも17世紀だと論じる.初期近代の反スコラ的風潮を考えれば,補完不可能な動詞がアリストテレス的な問いをブロックするものとして歓迎されたのかもしれない.

なお以上の議論はフレーゲの洞察にけちをつけるものではない.彼によれば,「ある F は G である」形式の命題を伴う推論が可能な言語は,実在に対応する語がなくとも,実在について語るのである.フレーゲの論理学は思考の論理学であって,言語の論理学ではない.

プラトンにおける「なる」

プラトンMet. Z7 の定式を見たとすれば,彼はそれを問題なく受け入れるだろう.(i) は Tim. 28a4-6, (ii) は Phd. 70cff. に同様の考えが見られる.懸案の (iii) はどうか.γένεσις と οὐσία の対比を確立する R. の議論は,γένεσις によって生成消滅を強調するのみならず,むしろいっそう,述定的な変化可能性に携わっているように思われる.事実また彼は,アリストテレスが γίγνεσθαι ἁπλῶς というところで,γίγνεσθαι ὄν / ὅλον と書いている (Sph. 245d).また Cf. (OCT の) Phdr. 241d1-3.

翻訳再訪

というわけで,Ap. 30b2-3 の Burnet 訳だと γίγνεται の意味が途中で変わってしまう,という De Strycker-Slings の批判は当を得たものではない.

転置

最後に ἅπαντα の転置ヒュペルバトンを説明する必要がある.ポイントは ἅπαντα の修辞的強調にある: "... yes, all other things, both in private and in public life." ἀγαθά の前に小休止を挟みクレッシェンドで発声するとよい; 意味は明瞭であり,民主政を愛する人々に対して明確に侮辱的となる.

中性複数が続いていることも転置を妨げはしない.類例として: R. IX, 581c3-4; Leg. VII, 798d1-2.