「ある」の非一義性の疑わしさ Shields (1999) Order in Multiplicity, Ch.9 #1

  • Christopher Shields (1999) Order in Multiplicity: Homonymy in the Philosophy of Aristotle. Oxford: Oxford University Press.
    • Chap.9. The Homonymy of Being. 217-267. [here 217-240.]

長いので二分する.前半は「ある」の中核依存性と「ある限りのあるもの」の学知の成立可能性が独立の論点と見なせると論じ,「ある」の非一義性に関するオーウェンとフレーデの解釈を批判する.


9.1 議論の枠組み

Brentano (1862) は「ある」の同名異義性を扱う際に Γ2, 1003b6-10 と E2, 1026a33-b2 に集中する.ブレンターノは,両箇所とも (i) 付帯的な「ある」,(ii) 真理の「ある」,(iii) カテゴリー的「ある」,(iv) 現実態の「ある」という四重の同名異義性が見られるとし,この四種をめぐって自説全体を組み立てる.

意味がこの四つに限られるのか,またそもそも二箇所が同一の図式を示しているのかは疑問である.とはいえブレンターノの図式は,アリストテレスの説が強い定式化と弱い定式化を容れることを示している.弱い定式化によれば,「ある」には複数の意味論的機能があり,機能は部分的には使用する状況に依存する (例: 真理的な (ii) と存在的な (iii)).

弱い同名異義性は当たり障りのないものだ.これは例えばカテゴリー間の「ある」の違いという説の裏付けにはならない (どのカテゴリーのものも「存在する」と言える).一方で (iii) は (ブレンターノは明言していないが) 「ある」のさらなる多様性を示している.(iii) は他と並置されるべき一義ではない.問題は,特定の意味の (おそらく実在ないし述定的)「ある」がさらなる多様性を容れるかなのだ (cf. Owen 1965a, 264).

これまで見てきたように,CDH の確立には (i) 一義性の論証,(ii) 連合の確立,(iii) CDH4 に沿った中核依存性の確立,の三段階が必要であった.従来の「ある」の同名異義性の解釈者たちの議論は (i) を等閑視しており,結果として不整合な議論になってしまっている.

9.2 「ある」に関するアリストテレスの発展

Met. Γ では「ある」が同名異義的 (DH) であることが否定される (1003a33-5).そこから,オルガノンから Γ までの間に発見があったという考えが出てきた.Owen は「アリストテレスは οὐσία を τὸ ὄν の焦点的意味とすることで οὐσία の特殊学を τὸ ὄν の普遍学へと変換しえたのだ」と考える.この発展史仮説は次のような一連の哲学的問いを表現している: (1) いかなる発見がアリストテレスに考えの変更を強いたのか.(2)「ある」が CDH だというのはどういうことか.(3) 単一の「ある」の学知の確立とアカデメイア派批判の両方を支持するような CDH 説はあるのか.

こうした問いを誘発するのは「ある」の普遍学を導入する Γ11, 1003a21-32 である.だがこの導入が CDH の発見によるということはアリストテレスは明言していない.「EE などの時点で CDH の把握に失敗しており Γ の時点で発見していた」のかどうかは分かっていない.なので,CDH 分析を「ある」に適用する動機が何でありうるかを検討する必要がある.そうすれば,「ある」の CDH と普遍学の可能性がつながっている (弱い) 証拠になるだろう.

しかし実際には,そうした証拠は見出しがたい.なるほど,EE 1212b25-35 (cf. APo. 92b14; Top. 121a16-19, 121b7-9) では「ある」の学知の可能性が明確に否認されている.また APo. I.10, 76a37-40; I.32, 88a36-b9 では,各科学におけるものが全てあると言えるような「ある」の単一の意味はないと言っているように見える.オルガノンに散在するこうした主張は,CDH を認知していなかった証拠に見えるかもしれない.だが,オルガノンの議論に「ある」の CDH 分析と両立不可能なものはない (↔ Aubenque 1962, 181).オルガノンでも CDH を一般論として認めていた証拠があり2,かつ「ある」が CDH であることを拒否していた証拠はない以上,単に沈黙していたと考えるべきだ.

「ある」の学知の可能性に関する心変わりはどう説明するのか,と問われるかもしれない.だが,そもそも心変わりなどしていないのだ.まず,類比による公理の特徴づけは CDH 分析に関して完全に中立的である.加えて,Γ1 の学知は「ある限りのあるもの」の学知であり,「「ある」の一般学」ではない.「として」表現 ('qua' locution) がスコープを制限することで「ある」の学知の否定と両立可能になっている.Met. では「ある」が単一の類であるとは言われていないし,「多様に語られる」とされる限りではむしろ否定されている.かつ「ある」の類の措定が必要かどうかで心変わりしたという証拠もない.

以上は発展史を否定するものではない.むしろ発展はあったと思う (2.9 の B が偽だと考えるようになった).論点は,CDH が「ある限りのあるもの」の学知の発見にとって決定的だったわけではないということだ.

9.3 「ある」の同名異義性への5つのアプローチ

以下ではアリストテレスによる「ある」の CDH 分析が誤っていると論じる.(上記の論点ゆえに,そこから「ある限りのあるもの」の学知が損なわれることはない.)

まず「ある」の同名異義性に関して5つの尤もらしいアプローチを列挙し,どれも擁護可能な議論にならないと論じる.次いでより一般的に問題を診断する.

5つのアプローチとは以下である.

  1. 「ある」の同名異義性とは,還元・翻訳に関するテーゼである.
  2. 「ある」の同名異義性とは,「ある」が主項に帰属する諸方式に関するテーゼである.
  3. 「ある」の同名異義性は,あるものの諸種がさまざまなあり方をしていることの把握から来ている.
  4. 「ある」の非一義性は,FD によって基礎づけられる.
  5. 「ある」の同名異義性は,カテゴリー論から推論される (最重要).

9.4 定義・翻訳・焦点的関連

Owen の解釈は論文によりばらつきがある.Owen 1960 は「ある」の同名異義性を還元可能性・翻訳可能性に訴えて説明する: 「非実体に関する言明は実体に関する言明に還元・翻訳できる」.

だが,この主張は弱すぎる部分と強すぎる部分がある.弱すぎるのは,翻訳可能性では非対称性が説明できないから,また定義の役割が明確化されていないからだ.要するに CHD4の形式的諸制約が満たされていない.一方で,強すぎるのは,CDH が翻訳可能性・還元可能性を保証しないからだ (cf. FCCP).

9.5 ある* とある**

Owen 1965a は翻訳・還元に訴えず非一義性に集中している.まずオーウェンによれば,アリストテレスは実在するものが何らかの種類 (sortal) に属すると考えている (cf. Geach 1954-5; Anscombe and Geach 1961).(ここまではよい.) そしてそこから,「a があるのは aF だからであり,b があるのは bG だからだ」と分かり,「ある」の非一義性が分かる.鮫があることと内気さがあることに何かが共通しているというのは神話なのだ (Owen 1965a, 265).

これはおかしい.オーウェンの議論が,「ある」が類でないことに依存しているのなら,これは以降で論駁される (9.8).そうでないなら,「神話」呼ばわりには根拠がない.

オーウェンMet. H2 を引いて,様々な「ある」の主張の否定が異なるパラフレーズを容れることを示す.「氷が存在する」の否定は「氷が溶けた」だが「ソクラテスが存在する」の否定は「ソクラテスが死んだ」である.それゆえ前者の「ある」は「固い」を,後者の「ある」は「生きている」を意味する.

この説明には二つ問題がある.第一に,このような否定の仕方をすると,「ある」の意味は果てしなく多様になってしまう.だが語の意味表示は無際限ではありえない (Γ, 1006b5-7).オーウェンはこの点に留意してカテゴリー論に訴えるが (265),上記のテストが示す消滅のあり方の数とカテゴリーの数が一致すると考える理由はない.

第二に,存在者の構成様態が異なるからといって異なる意味で存在すると考える理由はない.虎が動物であるあり方と蝶が動物であるあり方はある意味で違うにせよ,同名同義的に動物である (Cat. 1a8).

これとは独立に,オーウェンは同名異義性の動機を与えている (尤もオーウェン自身が動機になると述べているわけではない).それは,述語で言い換えられそれ以上の補完を必要としない存在*と,概ね存在量化子に対応しある述語 F を用いて \lnot\exists x(Fx) と表されるべき存在**である.オーウェンの見方からは,ある*を分離することで,文脈感受的でありそれゆえ非一義的な「ある」の意味をアリストテレスが同定したことになる.−−だが,この論点も強い同名異義性の論拠とはならない.

もっともオーウェンMet. H2 に注目したのは正しい.この箇所の議論はより抽象的に特徴づけうる: アリストテレスは存在の仕方を複合される仕方と位置づけという二点から特徴づけ,後者に関して意味表示の条件に訴えている.内在的性質だけでは,例えば木材をまぐさとして特徴づけたり,風を北風として特徴づけたりすることはできない.「氷がある」は何かが特定の状態にあることを意味表示するのに対し,「まぐさがある」は何かが特定の位置に置かれていることを意味表示する.このように,「ある」の同名異義性とは,異なる事物的属性 (real property) が異なる状況下に置かれていることに存する.

そうだとしても,問題は二つ残る.第一に,この見方でもやはり「ある」が無際限に多義的になってしまう.第二に,この見方も存在の条件から存在性格を推論しているにすぎず,「存在」の同名異義性までは示せていない.したがって H2 の議論は同名異義性の確立に失敗している.

9.6 あるものの諸種,あることの諸方式

オーウェンのアプローチは失敗している.別のアプローチとして,一般形而上学と特殊形而上学の関係に着目するものがある.それによれば,神的存在者が中核的に存在し,他の実体や非実体は派生的に存在する (Frede 1987; Patzig 1960).

フレーデによれば,(i) 神学はたんに神を扱うだけでなく,広く神的実体というあり方を扱う.(ii) 神のあり方は説明的に第一義的 (explanatorily primary) であって,他の存在者のあり方の説明はこれに訴える必要がある.(iii) それゆえ,ある限りのあるものの研究はこの中核的事例を探究することになる.

一般/特殊形而上学の調停に向けたこうしたアプローチも,やはり「ある」を非一義性で中核依存的なものとして分析することになる.そしてこの分析の段階でフレーデも行き詰まっている.フレーデは「自然的実体とそうでないもの (数など) はあり方が違う」という仕方でこれを説明している.いわく,然的実体は (1) 存在するためにそれ以外と異なる基準を満たす必要があり,(2) 質料をもち付帯的述定を容れる仕方で存在するという特色を有する.−−だが,これらはどれも存在の多義性の証拠にはなっていない.したがって,フレーデによる調停の試みも失敗している.


  1. 原文は一貫して “Metaphysics iv. 4” と誤記している.

  2. 本当に?