同名異義性の哲学的意義 Shields (1999) Order in Multiplicity, Ch.2
- Christopher Shields (1999) Order in Multiplicity: Homonymy in the Philosophy of Aristotle. Oxford: Oxford University Press.
- Chap.2. The Promises and Problems of Homonymy. 43-74.
三年越しに再開.本章も常識的な話の整理.メモするうえで以下の略語を用いる (cf. ch.1):
- DH (discreted homonymy): x と y は同名同義的に F である iff. (i) 両者は共通の名前を持つが (ii) 定義は一切共通しない。
- CH (comprehensive homonymy): x と y は同名同義的に F である iff. (i) 両者は共通の名前を持つが (ii) 定義は完全には重なり合わない。
- CDH (core-dependent homonymy): ὑγιής など (cf. 2.6).
- SH (seductive homonymy): x と y は蠱惑的同名異義者である iff. (i) 両者は共通の名前を持つが (ii) 定義は (a) 一切共通しないか,(b) 完全には重なり合わない。そして (iii) 観察者に対して,(ii-a) が正しければそれを偽だと思い込ませ,(ii-b) が正しければそれを偽だと思い込ませる傾向にある。
各々に当てはまる homonyms も簡単に DHs などと呼ぶことにする.
前節でアリストテレスが DHs と CHs (esp. CDHs) を認識していたのを見た.だが,実際に重要な哲学的概念がアリストテレスの言う仕方で振る舞うのかはまだ検討できてない.
アリストテレスによる同盟意義性の使い方は主に二つある (批判的用法と建設的用法).批判的用法では,アリストテレスは,「多義的な語を先行者が一義的だと想定したために誤った」と示す必要がある.建設的用法では,「当の語は多義的だが連合的 (さらには中核依存的) だ」と示す必要がある.以下では,(1) 各々の用法を考察し,(2) アリストテレスによる多義性のテストを検討し,(3) CH や CDH の要件を詰める.
2.1 同名異義性の批判的用法
例えばアリストテレスは同名異義性に訴えてプラトンの善の説明を批判する (EN 1096a).これは「ある哲学的観念の分析が非選言的定義によって表現可能な統一的説明規定を明らかにする」という前提への批判である.
同名異義性の批判的適用については Top. や SE が最も明確に浮き彫りにしている.論駁で訴える同名異義性は通常は DH である.多義性は明白な場合もある ('bank' を銀行/土手の意味で用いる二つの文を考えよ).
だが,それほど明白でない場合もありうる.例: 長年のビジネスパートナーを「仲間」(friends) と呼ぶ場合と,親密な友達関係をそう呼ぶ場合,これらの「仲間」は一義的に説明できないかもしれない.また両者を同義的に考えることで,仲間関係は本質的に相互の利益を含むと考える誤りに陥るかもしれない.
後者の比較的微妙な同名異義性の最も顕著な実例は,最も検知しにくい実例でもある.事実,その検知法を理解するには,それを支えるアリストテレスの形而上学・認識論の特徴を知る必要がある.本書が特に関心を寄せるのは「体」(body) と「一」(oneness) である.例えば「ジムで体を引き締める」と「レーニンの体が安置されている」は同名異義的とされる (cf. An. 412b20-7).Top. I.15 に鑑みれば,ここから次のような誤った推論が引き起こされるとアリストテレスは思ったのかもしれない.(i) 人体は可能態的には生きている,(ii) 死体は人体である,(iii) ゆえに死体は可能態的には生きている.
これが正しいなら,つねならぬ精確さが要求される理論構築の場面では,一見して一義的な事例に見えるものが,困難を引き起こしうることになる.
2.2 同名異義性の建設的用法
一方で,批判的文脈だけ見ていると,アリストテレスの同名異義性観の重要な部分を取り落とすことになる.彼はむしろ,非一義的な哲学的概念が,ときに多様性の内なる秩序・統一性を示していると考える.
それを見出す方法は二つある.第一に,アリストテレスは,「偶然 ἀπὸ τύχης」同名異義語であるものと,そうでないものを分ける (EN 1096a26-7).DH が全て偶然なわけではない (反例: 壊れた「斧」1).一方で,偶然でないものには非 DH が含まれる (「善」).
第二に (より重要),連合の特に重要な形式として,中核依存関係を強調する (「健康」「医学的」(Met. Γ)).本が医学書なのは医術の情報を含んでいるからだが,医術は本がなくても医術である,という依存関係がある.
というわけで,CDHs の場合,アリストテレスは非一義性,関連性,非対称的依存関係を順に示す必要がある.
2.3 同名異義性の第一の問題: 論争的文脈
非一義性の検知は簡単な場合もそうでない場合もある.極端に難しいのは「ある」(being) である.以下二文のあいだには異論の余地のない非一義性があるとは言えない:
- ソクラテスは存在する (exists),
- 白さは存在する.
唯名論者は同じ「存在」をソクラテスについて肯定し白さについて否定するだろうし,あることが同名異義的であることを否定する人はアリストテレスの主張に根拠がないと考えるだろう.特に意識的に一義性を主張する反対論者に出くわした場合,アリストテレスは非一義性の基準を示す必要が出てくる.
2.4 同名異義性の基準: 『トポス論』I.15
そうした論争的性格はアリストテレスも承知している (EN 1096b26-7).例えばプラトン主義者は「クサンティッペは善い」も「徳は善い」も同じく善のイデアの分有ゆえに善いのだと説明するだろうし,だから非一義性を認めないだろう.それゆえ,批判者アリストテレスは,論点に実質を与えなければならない.
アリストテレスは Top. I.15 で同名異義性の一連の指標 (homonymy indicators) を示す.そこに含まれるのは:
- 語がどんな反対語を持つか,
- 反対性の存在 (a24-35),
- 中間者の存在 (a35-b12),
- 矛盾する事柄の違い (b14-20),
- 語形変化と派生名性 (b29-107a1),
- 意味表示 (a3-18),
- 類の同一性 (a18-30),
- 定義と抽象 (a36-b5),
- 比較可能性 (b13-18),
- 互いに従属しない類の種差 (b19-26),
- 種差の違い (b26-31),
- 種差として用いられているか,種として用いられているか (b32-6).
どれか一つに当てはまるだけで同名異義性に十分であり,かつ (6. を除けば) どれも必要ではない.
さて,「善」は全てを満たすわけではない.どころか,明確に満たしているものは一つもない.
2.5 同名異義性の基準: 意味表示
Top. I.15 で意味表示 (signification) を基準として示す箇所は,同名異義性が第一義的には (ないしは最も自然な表現としては) 言語に関する教説だという印象を裏付ける: 'a is F' と 'b is F' の 'F' が別のことを意味表示しているなら,「F 性」は同名異義的である.
実際アリストテレスは,語が同名異義的だと明言することもあり (GC 322b29-32),それに近い言い方をする場合もある (Top. 106b29ff.).
だが標準的には,むしろ存在者を同名異義者として語っている (cf. An. 412b18-22 の眼の例).それゆえ,GC のほうが緩い・変則的な例だと言いたくなるかもしれない.
いずれにせよ,アリストテレスの手続きは見かけ上整合しない: 語-語義に関わるのか,存在者-本質に関わるのかが不明瞭である.それゆえ,同名異義性を言う上で意味に訴えるのが適切なのかもよく分からない.したがって,まず同名異義性論の哲学的眼目と意味表示概念を吟味する必要があろう.
2.6 焦点的意味・焦点的関連・中核依存関係
同名異義性の性格いかんは意味表示の本性いかんに依存する: 後者が言語的なら,同名異義性は言語的意味 (meaning) の違いだけで生じることになるし,非言語的なら意味はほぼ無関係になる.
また,意味表示が言語的観念なら,「健康」の非一義性と関連性,特定の適用の先行性を言う際に,アリストテレスは言語的直観に訴えうることになる.
CDH の異論の余地のない事例である健康を考えるとよい (Met. Γ, 1003a34-b6).この例から次のような形式的制約が取り出せる:
- CDH: a と b が中核依存的な仕方で同名異義的に F である iff.
- (i) a が F であり,かつ
- (ii) b が F であり,かつ
- (iiia)「b が F である」における F の説明規定が,「a が F である」における F の説明規定を必然的に非対称的参照するか,または
- (iiib) ある c が存在して,「c が F である」における F の説明規定を,a, b 両者の場合の F の説明規定が必然的に非対称的に参照する.
不明瞭なのは,CDH において説明規定が必然的に別の説明規定を参照する理由である.言語的直観に訴えれば意味の理解可能性に訴えてこれを説明できるし,また善の焦点的意味 (focal meaning, Owen) を同定できる.
だが問題もある: 現在問題になっている,非一義性が言えるかどうか微妙な例では,言語的直観だけでは論争に決着がつかない.EN も「善」の非一義性を言う際に言語使用には訴えていない.そうだとすると,善の CDH はむしろ非言語的な焦点的関連 (focal connection, cf. Irwin 1981) だということになる.
CDH を焦点的関連とするなら,必然様相の説明,連合と中核依存関係を決定する原理が別途必要になる.またこれに関連して,CDH の諸依存関係に統一性が見られないという 問題もある.さらに,CDH 自体には適切な関係と無価値な関係 (junk relations) を区別する原理がない (「から千マイル以内にある」といった瑣末な関係を排除できない).
そういうわけで,何が CDH に当てはまるかの枠組みを提供する二階の説明が必要である.アリストテレス自身はこうした二回の説明を与えていない.だが,例から特定することはできる.
2.7 同名異義性の諸問題: その例解
「ある」とか「善」は難しすぎるので,そこまで論争的でない中間的な事例で例解する.一つは「生」(life) である (An. 413a20-6).
アリストテレスはディオニュシオスを批判して「生は多様に語られる」と述べる.だが第一に,こうした非一義性はそれほど自明ではない: (1)「生」の非一義性は言語的直観によって支持されようが,言語的直観に訴えてよいかは問題である.(2) また,アリストテレスは語が特定の用例のなかで同名異義的であるが,同時に他の用例では一義的であるという可能性を認めている (Top. VI.10).一方ここで問題になっているのは狭い部分集合の中でさえ同名異義的だということである (例: ソクラテスが「生きている」 ≠ この犬が「生きている」 ≠ このバラが「生きている」).
また第二に,かりに非一義性を認め,また各々の「生きている」の書き換え方に同意したとしよう (「理性的活動に携わる」「感覚的活動に携わる」「栄養摂取的活動に携わる」).その場合でも,生の中核が何なのかは問題になる.理性的活動からバラの生を説明することはできない.一方で,栄養摂取的活動を中核とすることもできない (神も生きているから.Cf. Met. 1072b29-30).というわけで,連合・中核依存関係の説明も問題になる.
かつ第三に,何らかの中核が得られた場合 (cf. An. 412a14-15),それは元々見逃されていた一義性を再発見したというのとどう違うのか.この点でも,アリストテレスによる哲学的一義性批判が正しいかどうかが問題になる.
2.8 アリストテレスの発展における同名異義性
「生」の可能的な多様性について,アリストテレスは自身の見解を生涯固持した.だが「友愛」についてはそうではない: EE では同名異義性が主張され,NE では斥けられる.
これは友愛の一義性について新たな知見を得たからではない.むしろ,不完全な友愛が CDHs の資格を満たすかどうかについて揺れているのだ.あるいはむしろどれが正しい関係かについて心変わりしたのかもしれない.しかしいずれにせよ,これを決めるメカニズムは CDH によって与えられる.アリストテレスの態度の変化が反映しているのは,友愛観の変化か,同名異義性の扱いの洗練か,その両方である.
同名異義性の扱いが変わったとすると,難題が生じる.アリストテレスは最初期から同名異義性を導入しており,友情も CDH として分析していたので,形而上学的理論や意味論的理論の他の部分を展開した後で初めて同名異義性を考案したとは考えられない.このことは特に「ある」の同名異義性を考える上で重要である.オルガノンでは「ある」の一般的学知の可能性が疑われていた.だが Met. Γ ではそうした学知が導入されている.ここでアリストテレスがなした発見は,同名異義性ではなく,「ある」に関わる.実際 EE で用いられた焦点的関連の例が Γ でも用いられている.−−以上は,(i)「ある」の学知が『分析論』の議論と矛盾すること,(ii) CDH に関するアリストテレスの見解が不変だったこと,を前提する.だが友愛の例は (ii) を疑う理由になりうる.
2.9 同名異義性の第一の保証: 依存性と学知
アリストテレスは研究対象の一義性を学知の要件とする.これについては次のような論証が可能である:
- (A) 領域 D についての学知が可能であるためには,D の全メンバーが実現する単一の普遍が存在する必要がある.
- (B) D の全メンバーが単一の普遍を実現するのは,当の普遍が一義的説明を容れるときに限る.
- (C) ゆえに,領域 D についての学知が可能なのは,D のメンバーが一義的説明を容れる普遍を実現するときに限る.
実際アリストテレスは (C) に近いことを言っていることもある (995b6-10, 996a18-b26).だが,「生」「ある」「善」「友愛」が非一義的で,かつそれらの探究が可能なのなら,彼は (A) か (B) を斥けるか修正する必要がある.
CDH は (A) の動機を保存しつつ (A) を拒否するメカニズムを与える.善のイデアに訴えずとも,善の全形式がある核心的概念に関連するなら,善についての学問的説明を与えることができる.CDH によれば,普遍は特殊者を実例に持つわけではなく,概念的な仕方できつく結び付けられるのである.それゆえ (A) に代わって次のように言える:
- (A') 領域 D についての学知が可能であるためには,(i) D の全メンバーが実現するか,あるいは (ii) 各メンバーの説明の完全な説明が必然的に訴える,単一の普遍が存在する必要がある.
これにより単一の普遍を実現しない諸存在者を扱う学知が許容できる.また同時に (B) によって不当に一義性を前提する人々への批判は固持できる.
2.10 同名異義性の第二の保証: 多様性における秩序
また,アリストテレスが CDH の要請に従う中核依存関係の適当な説明を定式化し擁護できれば,多様性における秩序の見通しに即した哲学の方法を与えることになる.
2.11 結論
〔省略.〕
-
これはどうして DH なんだろうか.↩