「ある」の一義性 Shields (1999) Order in Multiplicity, Ch.9 #2

  • Christopher Shields (1999) Order in Multiplicity: Homonymy in the Philosophy of Aristotle. Oxford: Oxford University Press.
    • Chap.9. The Homonymy of Being. 217-267. [here 240-267.]

9.7 「ある」の同名異義性と機能的確定

機能的確定テーゼ (FD) に訴えて「ある」の同名異義性を説明する道はあるか.厳しい.「あるもの」それ自体に機能はないからだ.

これに「単一の機能がないから非一義性を説明できるのだ」と応じるのはうまくない (関連する複数の普遍があるわけではなく,そもそも一つもないという話だから).

「機能はある」と言い立てる人もいるかもしれない.例えば意味論的機能で分類できるという提案がありうる (例: 実体の場合は「について・において語られる」ことがないなど).この提案は,同名異義性そのものを意味論的テーゼとするものだ:

  1. 実体・質・量・関係 etc. が存在する.
  2. 実体・質・量・関係 etc. は合成意味論のなかで弁別可能な程度に別々の機能的役割を果たす.
  3. FD.
  4. したがって,実体・質・量・関係 etc. は別々の類である.
  5. したがって,「存在する」は「実体が存在する」「質が存在する」etc. で弁別可能な程度に別々の役割を果たす.
  6. 語が別々の諸属性を意味表示するなら,その語は同名異義的である.
  7. したがって,「存在する」は同名異義的である.

だが,高解釈すると,「ある」の同名異義性の形而上学的性格が犠牲になる.加えて,1-4 から 5 が出るかは疑わしい (全カテゴリーを「これこれのものが存在する」と一義的に説明できそう).さらに,仮に FD から非一義性が言えたとして,そこからどう CDH が言えるのかも問題になる.

9.8 カテゴリーから同名異義性へ?

より一般的なカテゴリー論的アプローチを試みよう.アリストテレス自身カテゴリー論から「ある」の同名同義性を推論している (APr. 48b2-4, 49a6-10; Met. Δ7, 1017a22-30).尤もらしい議論とは言えないが,一応注目に値する哲学的所与がここにはある: ソクラテス・リュケイオンにいること・四つのものであること等々に「何であるか」と問うことができるが,それらの種類は様々で,かつその間には優先順位がある,と言いたくなる.そこから,それらが「あるということの様々な仕方である (different ways of being)」という仮説が成り立つ.

Grice 1988 はここから議論を再構築する:

  1. 全ての平叙文は何かについて何かを意味表示する (ある普遍を主項に帰属する) 動詞句を含む.
  2. 1 は存在文 (existentials) について真である.
  3. したがって,存在文は普遍を主語に帰属する.
  4. もし「存在する」が単一の普遍を意味表示するなら,類的普遍を意味表示することになろう.
  5. 存在は類ではない.
  6. したがって,「存在する」は単一の普遍を意味表示しない.
  7. したがって,「存在する」は複数の普遍を意味表示する.
  8. 「存在する」が複数の普遍を意味表示するなら,それらは以下2つの条件を満たす.(i) それらはなるべく少なくあるべきだ.(ii) 各々の普遍は,それらが第一に帰属するものに本質的に帰属すべきだ.
  9. 2条件を満たすのは諸カテゴリーそのもののみだ.
  10. したがって,「存在する」はちょうど10個のカテゴリーに対応する複数の普遍を意味表示する.

2 が怪しいと思う人もいるかもしれないが,私はむしろ 4 を問題だと考える.第一に,F する全てのやり方が何らかの類 F に属するわけではない.給仕には色々なやり方があるが,それらの類がどれも「給仕」という単一の類に属すると考える理由はない.第二に,種 F1, ..., Fn を認めたとしても,'F' に対応する複数の普遍があると言う理由にはならない.

おそらくグライスは誤っている.カテゴリー論から「ある」の同名異義性を導く,論点先取のない論証は存在しないのだ.

またグライスの議論は,アリストテレスMet. B3 で示しているカテゴリーと同名異義性の繋がりを見落としている:

εἰ μὲν γὰρ ἀεὶ τὰ καθόλου μᾶλλον ἀρχαί, φανερὸν ὅτι τὰ ἀνωτάτω τῶν γενῶν: ταῦτα γὰρ λέγεται κατὰ πάντων. τοσαῦται οὖν ἔσονται ἀρχαὶ τῶν ὄντων ὅσαπερ τὰ πρῶτα γένη, ὥστ᾽ ἔσται τό τε ὂν καὶ τὸ ἓν ἀρχαὶ καὶ οὐσίαι: ταῦτα γὰρ κατὰ πάντων μάλιστα λέγεται τῶν ὄντων. οὐχ οἷόν τε δὲ τῶν ὄντων ἓν εἶναι γένος οὔτε τὸ ἓν οὔτε τὸ ὄν: ἀνάγκη μὲν γὰρ τὰς διαφορὰς ἑκάστου γένους καὶ εἶναι καὶ μίαν εἶναι ἑκάστην, ἀδύνατον δὲ κατηγορεῖσθαι ἢ τὰ εἴδη τοῦ γένους ἐπὶ τῶν οἰκείων διαφορῶν ἢ τὸ γένος ἄνευ τῶν αὐτοῦ εἰδῶν, ὥστ᾽ εἴπερ τὸ ἓν γένος ἢ τὸ ὄν, οὐδεμία διαφορὰ οὔτε ὂν οὔτε ἓν ἔσται. ἀλλὰ μὴν εἰ μὴ γένη, οὐδ᾽ ἀρχαὶ ἔσονται, εἴπερ ἀρχαὶ τὰ γένη. (998b17-28)

前半では,「もし ἀρχαί が最も一般的な普遍者なら,一と〈ある〉がものの類だということになるが,それは不可能だ」と論じられている.後半ではなぜ不可能かが手短に論じられる.〈ある〉は類ではないというのはアリストテレス自身の信念だ.そしてその論証は,グライスが訴えるカテゴリー論の特徴ではなく,分類学的方法のテクニカルな特徴に訴えるものである.議論は二つの帰謬法の形を取る:

  1. 「ある」と一が類だと仮定せよ.
  2. 類の全ての種差は (a) 存在し,かつ (b) 一つである.
  3. したがって,(i) 〈ある〉の種差は存在し,(ii) 一の種差は一つである.
  4. (i) なら,あるという類の種は自身の種差を述語づけられる.
  5. (ii) なら,一という類の種は自身の種差を述語づけられる.
  6. いかなる種も自身の種差を述語付けられない.
  7. したがって 4 も 5 も偽である1
  8. したがって 1 か 2 が偽である.
  9. 2 は真である.
  10. したがって,仮定 1 は偽である.

もう一つは以下の通り (3, 4 が異なる):

  1. 「ある」と一が類だと仮定せよ.
  2. 類の全ての種差は (a) 存在し,かつ (b) 一つである.
  3. したがって,(i) 〈ある〉の種差は存在し,(ii) 一の種差は一つである.
  4. (i) なら,「ある」という類は,種なしに,種差を述語づけられる.
  5. (ii) なら,「一」という類は,種なしに,種差を述語づけられる.
  6. いかなる類も,種なしに,自身の種差を述語付けられない.
  7. したがって 4 も 5 も偽である[^1].
  8. したがって 1 か 2 が偽である.
  9. 2 は真である.
  10. したがって,仮定 1 は偽である.

より単純な二つ目から検討する.問題は 4 以降である.「種なしに」(ἄνευ τῶν αὐτοῦ εἰδῶν) の内実は不明瞭だが,Top. VI.6, 144a31ff. の以下の議論がヒントになる.いわく,類は種差に述語づけられない.二足の人間に動物を述語付けられたとしても,二足 (being two-footed) に動物を述語づけることはできない.種を加えてはじめて述定は真になるのだ (ただしこのとき固有性たる種差は余分になる).できない理由は2つ: (1) 動物が種差に述定されるなら,多くの動物が種に述定される.(2) 動物の各々は個体 (ἄτομον) なのだから,種差も個体になってしまう.

理由 (1) は敷衍が難しいものの,類「ある」の不可能性に直接関わる.この (1) は同名異義性に訴えているように見える: 仮に「二足が動物だ」を真とする読みがあるなら,この「動物」は「カリアスは動物だ」の「動物」とは別の概念でなければならない.しかるに,「動物」は同名異義的ではない.

理由 (2) は素直な議論だが説得力はない.一般論として成り立つには,類が,本質的に実体に述語づけられる特権的性質 (privilegede property) である必要がある.動物はそうした特権的性質だと言えるにせよ,「ある」もそうだという独立の理由は存在しない.

理由 (1) は上記の前提がないぶんより尤もらしいが,「ある」が同名異義的でないことに訴える必要があるため,同名異義性を示す議論には使えない.したがって,二つ目の帰謬法は失敗している.

一つ目の帰謬法はどうか.問題はやはり 4, 5 である.こちらの 4, 5 は種が種差に直ちに述定可能だという謎の前提が入っている.とはいえこの前提は,類が述語づけられるなら何らかの種が述語づけられることと,類「ある」が種差に述語づけられることから,一応説明可能ではある.

またこちらの 6 は Top. VI.6, 144b4-9 に論拠がある: (1) 種差は種より幅広い存在者について言われる,(2) 種差が種を述語に持つなら,種差自体が種になる.−−だが,(2) は字面上アリストテレスにとってさえ妥当な議論でない.また (1) も同様に決定的ではない.なるほど「水棲は鱒だ」は無意味か偽だろう.だが,種差の種への述語づけが有意味で真な事例は作れる (例: 外延性 (抽象的存在者から集合を取り出す種差) は属性だ).

したがって,アリストテレスが擁護できている主張は類「ある」の場合に適用可能なほど一般的ではない.第一に,種の種差への述定が類の述定ゆえになされるとは限らない (このとき 4 は偽).第二に,種の種差への述定は無意味でも偽でもない可能性がある (このとき 6 は偽).

結論として,アリストテレス自身のテクニカルな議論も,グライスの議論も,「ある」が類ではありえないことを示しえていない.

9.9 「ある」の同名異義性に関する一般的問題

ここまで各論的に「ある」の同名異義性の不成立を論じた.問題はそもそも非一義性を確保できていないことにあった.以上で扱ったのは代表的解釈なので,「ある」の同名異義性の教説は少なくとも再査定を必要とする.

さらに言えば,「ある」はそもそも一義的なのだ.そのことは次の議論から示せる.

  1. F なもの2つが非同名同義的に F であるならば,それらは Fs としては比較不可能 (incommensurable, ἀσύμβλητα) である.
  2. あるものどもはあるものどもとしてはつねに比較可能である.
  3. したがって,あるものは非同名同義的に F ではない.
  4. 同名異義性と同名同義性の区別は排他的である.
  5. したがって,あるものどもはつねに同名同義的にあるものどもである.
  6. あるものどもがつねに同名同義的にあるものなら,それらは一義的にあるものどもである.
  7. したがって,あるものどもは CDH ではない.

吟味の必要があるのは 1, 2 だけである.1 はアリストテレスが明言している (Phys. 248b6-11): 2つのものが同名同義的に F でない限り,F 性の点で両者を比較することはできない: 新参者と草木のどちらがより青いとも言えない (DH), 顔色と養生法のどちらが健康だとも言えない (CH).

2 はアリストテレスの実践に示されている.例えば Met. N1 では関係が最も程度の低い仕方で実体の一種,あるものの一種 (ἥκιστα οὐσία τις καὶ ὄν τι τὸ πρός τι) だとされる.こうした実在の度合いを受け入れているなら,あるものどもは比較可能である.

実際また,あるものどもは比較可能だと言える2.実体や関係があると言うとき,何らか比較可能なことを述べている.例えば関係があると言い,そのさい空間のどこかを指ささない場合,私はあるカテゴリーに帰属するものを別のカテゴリーについて否認しているのだ.

また,諸カテゴリーの説明規定が実体の説明規定に依存すると考える理由はない.存在的依存関係 (ontic dependence) は説明上の依存関係を含意しないからだ.例えば性質は非実体の性質でありうる.そして CDH に関係するのは説明上の依存関係のほうである.

9.10 結論

「ある」の同名異義性の教説は,一見尤もらしいが,間違っている.


  1. 原文は「3 も 4 も」.二つ目の帰謬法も同じ.

  2. 以降の議論はどれもあまりよく分からない.