アリストテレスにおける「存在」の諸用法 Owen (1965) "The Snares of Ontology"

  • G. E. L. Owen (1965) "Aristotle on the Snares of Ontology" Renford Bambrough (ed.) New Essays on Plato and Aristotle, Routledge & Kegan Paul, 69-95.

Owen 精読シリーズ.アリストテレスにおける「ある」の存在用法のうち三種類を取り出し,そのうち (いわば continuant に適用される) ただ一種類について「別の述語による言い換え」という道具をアリストテレスが備えていた,と論じる.同時に,この三種類の区別をアリストテレス自身が分明にしえていない次第も明らかにする.

というのが大まかな筋だが,完全には理解できていない.特に「ある**」って何? というところで躓いている.何にせよ単線的な議論ではなく,かつ枝葉と見える諸部分にも (各々論文一本分くらいの) 洞察が含まれているので,折に触れて読み返したい.特に VIII 節の議論は現在の自分の関心に直接効いてくる話だと思う.

I

アリストテレスはしばしば「τὸ εἶναιは多様に語られる」と言う.時には τὸ εἶναι の代わりに τὸ ὄν が入る.Oxford translation (OT) では τὸ ὄν は慣例的に 'being' と訳され,複数形は 'things that are' ないし 'existing things' と訳される.これらの翻訳の不明瞭さの原因を理解するため,アリストテレスが動詞 εἶναι の多義性から何ごとかを結論している箇所を収集するところから始めたい.

  • Met. A (992b18-24): 'ὄντα' の多義性ゆえに,τῶν ὄντων στοιχεῖα について一般的探究を行うのは誤りである.(OT: 'elements of existing things')
  • Met. N (1088b35-89b33): 上記テーゼを論じる.(OT: 'existing things', 'things that are')
  • EE I (1217b25-35): この多義性ゆえに to on の単一の学知はない.
  • Met. Γ (1003a21-b16): 上記意見の修正.多義性にも拘らず to on の単一の学知はあり得る.ta onta の構成要素の探究はまさにこの学知に近づいているように思われる.

意見の矛盾は "Logic and Metaphysics" で論じた.本稿の関心はむしろ,これらが同一のトピックを扱っている点,そして何のトピックかについては広く合理的な合意があるという点にある.すなわち 'τὸ ὄν' は 'what there is' ないし 'what exists' を意味し,これを ontology が扱う.ーー しかし,事はそれほど単純ではないのだ.

もっとも,不注意ではあるにせよ,この解釈は正しい方向への第一歩ではある.というのも,他の種類の多義性に関する議論を回避しているから.'εἶναι' ないし 'to be' にはいくつかの用法がある: 述定,同一性,存在.『ソフィスト』篇は前二者を解きほぐしたが,前二者と最後の用法との区別にはそれほど成功しなかった.Met. Δ7 の καθ᾽αὐτὸ ὄν と κατὰ συμβεβηκὸς ὄν の区別はこの区別と似ているが異なっており,むしろカテゴリー間での異なる用法が問題とされる.動詞の機能は単一であり,実在に関する問いであるという見方とも両立する.

II

「あるものは多様に語られる」に戻ろう.Top. によれば,語に多くの用法があるとは,同名異義的に (homonymously) 用いられる,ということである.そして同名異義性の教説をアリストテレスは後年に至るまで修正を加えつつも保持した.

同名異義性は多義性 (ambiguity) とは異なる.'Bore' は同名異義的だが,'You are the greatest bore in England' は多義的でない.'Twice' は同名異義的ではないが,'You are twice the man your father was' は多義的である.アリストテレスに「多義性」と正確に対応する語はないが,近いのは ἀμφιβολία で,同名異義性が特定の語の特徴なのに対し,こちらは句ないし文の特徴である.しかしアリストテレスは,語「ある」の実在的役割の解明にあたって ἀμφιβολία 概念を用いてはいない.専らある文脈における一つの語「ある」の特異な性格が問題なのである.

III

実在的役割の「ある」が多様な意味を持つことをアリストテレスはあちこちで述べている (e.g., Met. H 1042b15-1043a7).あるとは何かであることである (これは Pl. Sph. の結論である).さらにアリストテレスは以下のように詳論する.第一に,"A is" は "A is P" を含意するが,逆は成り立たない (Int. 21a24-8).第二に,こうした同名異義性を認めても,それが多すぎて手に負えなくなることはない.「ある」とは実体・量・質……のいずれかであることだからだ (APo. 83b13-17).アリストテレスによれば,(1) どんなカテゴリーも他のカテゴリーの種ではないし,(2) どのカテゴリーも「ある」の種ではない.だから,「ある」は還元不可能な様々な意味を持つように思われる.アリストテレスは,サメと内気さが何らかの「あるもの」だから何かを共有している,という神話を消し去ろうとしたのだ.(なお,「〈ある〉は類ではない」という主張は,存在が述語ではないことを意味しない.存在が諸述語の選言であるというに過ぎない.)

この分析は,実際,「実在的」用法に多様な意味があるということを気付かせてくれる."Arrowby is no more" とは,彼がもはや生きていないということだ."Whether the rule against smoking in hall still exists" を訊くとは,規則が認められているか・施行されているかを訊くことだ.その否定にも,"extinct", "dead", "dismantled", "disused" 等々の異なる述語が対応する.

この分析に対する最初の (よくある) 異論は「Arrowby はいないのだから論理的主語にはなりえない」というものだ.これに対しては,「その異論は名前の指示と担い手を混同している」と応じられる (PU §40).これへの再反論として,「「A はまだ存在していない」のような文は A の指示が与えられていることを肯定しかつ否定しているのではないか」というものがある.だがこれに対しては,「私がある個体が生じるだろうと知っていると言える度合いに応じて,私はその個体を今指示できるのだ」と応じられる.

だが,それ以外に,解釈上の問題がある.Met. H2 では,「これこれが存在する」という形式の文が扱われていると読むのが自然である.氷が存在するとは,硬さを保っていることである (1042b27-8).しかし直後では (1043a7-12),アリストテレスは硬さを用いて「氷」の意味を与えている:「X がもはや硬くない」は「X がもはや存在しない」ではなく「X がもはや氷でない」の言い換えだとされる.これは「ある」に様々な意味があることとどう関係するのか.これを言い換えすぎ問題 (the problem of the overworked paraphrase) と呼ぼう.この問題は οὐσία や εἶναι の多義性の問題に関係する.

もう一つの問題は,以上の分析が時間的な始まりと終わりをもつ個体 (ないし担い手) にしか当てはまらないということだ.例えば氷一般の存在を否定することは,この分析によれば,偽であるのみならず自己矛盾的である.存在の否定は「氷は固くない」になり,その論理形式は "Whatever is P is not P" となるからだ.これに対する対処法として,「氷は存在しない」のアリストテレス的分析は「水は凍らない」だというものが考えられる.しかし,アリストテレスは特定の主語の場合に特定の言い換えを要するとは言っていない.実際のところ,そうした言い換えをする分析は同名異義性ではなく多義性を用いたものに過ぎないだろう.だから,別の方策を考え出す必要がある.

IV

最初のありうる解決は,分析を個体に限定してしまうことだ.そうすれば,言い換えすぎ問題も次のように説明できそうに思われる: 個体の氷塊が「ある・存在する」ことの意味を理解するとは,「氷」が一般に何を意味するかを理解することである.

そうだとすれば,οὐσία や εἶναι の両義的な振る舞いも理解できる.「οὐσία は αἰτία τοῦ εἶναι ἕκαστον である」(Met. H, 1043a2-3; cf. DA II, 415b12-13) とは,氷個体が存在するとはどういうことかを「氷」の定義が説明するということである (αἰτία は原因ではなく説明である).また先述の通り Δ7 では,'καθ᾽αὐτὸ ὄν' という語によって,異なるカテゴリーで異なる意味をもつ「ある」の一般的用法が同定されていた.ここでは存在用法である.しかし別の箇所では,この言葉は定義にも使われる.アリストテレスにとっては,「氷」と「木」の定義を設定することと,「存在」の二義を設定することは同じ企てだったのである.

しかし,時間に限りがある個体に分析が制限されるのはやはり問題である.なるほどアリストテレスは,個体が普遍より ὄντα たる資格を持つと示唆している (Met. Λ, 1071a21-2).また実体のみならず他のカテゴリーにも個体と普遍の区別はあり,そうした属性の場合もやはり個体の存在が普遍の存在を保証する1.とはいえやはり,この制限が間違っていることは明らかである.

V

なぜ間違っているかというと,クラスや普遍にだけ言及する存在言明もアリストテレスは使用し言及しているからだ.例えば APo. I, 76a31-6 および II 冒頭がそうである.もっとも,彼の議論はあやふやで混乱している.

APo. は〈ある〉が類ではないこと (92b14),存在者は諸カテゴリーに分かれること (88b1-3) を知っている.このことは EE 同様,ὄντα の一般学という発想に敵対的である.また諸領域における論理式の用法はただ類比によってのみ関連するとも述べられるが (76a37-40),主題ごとに「存在する」に異なる意味があるとは述べられていない.むしろ「A が存在するかどうか」と「A とは何か」には形式的な区別が引かれる (89b34-90a1).もちろん後の方では,A が何であるかを知っている程度に応じて,A が存在すると知るのだ,と補足される (93a21-33).しかし A に応じた「存在する」の言い換えはなされていない.

制限を擁護する人は,「普遍に適用するとパラドクスが生じることを見越したから,アリストテレスはあやふやになったのだ」と言うかもしれない.だが,それで終わる話では到底ない.

アリストテレスの例は「ケンタウロスや神があるかどうか」である (89b32).他のところでは似た例として「直線」「三角形」「単位」を挙げる (76a34-5).つまり彼は,ある概念・記述を提示して,それに当てはまるものが何かあるかを問うている.これは我々が見てきたのとは違って,'il y a' 'es gibt' ないし \exists x(Fx) と表せる種類の用法である.これは述定的用法ではなく,むしろ述語に寄生した用法である.これまでの用法を「ある*」,今の用法を「ある**」としよう.Arrowby が存在するとき,少なくとも一人の男がある**.だが Arrowby が死ぬと,もはやあり*はしない一人の男がある**.「ある」が述定的な役割を果たすどんな文からも,「ある」が非述定的な役割を持つ別の文を構築できる.だから,後者を述定的に再解釈するのは無益な無限後退である.

アリストテレスはこれら二義を区別していない.すると,これは存在言明に関する APo. のためらいを説明するだろうか.――説明の始まりではあるが,それ以上ではない.というのも,我々が区別を自明のものに見せてきたのは,過度な単純化に基づいているからだ.「ある*」が個体についてのみ言えるというのは間違いだし,「ある**」が普遍についてのみ言えるというのも間違いかもしれない.そして,前者が間違いだとアリストテレスは認識していた.

ある*の一般的が言明は可能である (e.g., 種族の存続と絶滅).また,存在*が述語なら,存在*についての単称言明と一般言明の関係について特定の見解を期待できる.Kneale (1962: 63) が言うように,アリストテレスは両者を同等のものと見なしていた.「人間は肉食である」と「プラトンは肉食である」において,繋辞と述語は同じ役割を果たす (主語に当たるものが肉を食べるときに真である).それと同様に,「氷が存在する」と「特定の氷塊が存在する」はどちらも,凍っているときに真である.

実際 De Int. 19b15-35 は,「人間は公正である」という無害な述定だけでなく,「人間はある」という存在言明にも「全ての」「全てではない」という量化子を付すことで,単称言明と一般言明のこうした並行性を示している.解釈者はこれに困ってきたが,ここで「ある」が「ある**」の意味だとすれば,それは尤もである.「全ての」を「ある**」に付けるのは不条理だからだ.

さらに言えば,アリストテレスは量化子抜きで「人間が存在する」などと書くことがしばしばあるが,この「存在」が「ある**」の意味なら,この省略は,いま見た通り,当然である.だが「ある*」の意味だとすれば,「人間は存在する」と「人間は公正である」の並行性は全然別の含みを持つ.アリストテレスによれば,後者は「ある人間は公正である」の意味であり,特定個人についての主張と同じ意味を持つからだ.そして実際 Met. Λ, 1070a22 では,「健康が存在するのは人間 (the man) が健康なときである」と言われるとき,まさにこの結論が存在言明に適用されている.ここにはプラトンとの対抗関係がある.健康が存在するとは,健康の非質料的で永遠な範型があるということではなく,「ある*」に関する上述の分析が可能な仕方で,時間的な担い手を有することなのだ.

このように考える限りで,「ある*」と「ある**」を区別する動機は生じない.だから「三角形が存在する」の機能に関する躊躇いは,まだ解決していない.

むろん,アリストテレスが見逃した「ある*」と「ある**」の区別は,非常に重要な区別である.ある*を人間や氷山に述定することは,それを述定する人間や氷山がある**ことを前提 (presuppose) している.アリストテレスが両者を区別できなかったことは,彼がこうした形式の言明の存在前提を分析できなかった主要因をなしている.もっとも,先駆者がなした進歩を概説する際に,できなかったことを述べても始まらないけれども.

VI

以上のように範囲を制限したとき,アリストテレスの分析には何が残っているだろうか.単称言明についての「ある」の分析は有効だろう.だが,これを一般言明に拡張すると,言い換えすぎ問題が再来する.氷が硬い (ice is solid) なら,「硬い」は「氷」の定義と「ある」の言い換えという二つの役目を果たすことになる.そして,そこから生じる困難は,単称言明と一般言明を区別するだけでは和らがない.一般存在言明もあるからだ.

しかし実際のところ,困難はもう解決している.困難は,言い換えすぎた結果「氷がある」が単なる自明事となってしまう,ということであった.しかしアリストテレスの分析によれば,「氷が存在する」のような一般言明は,先述の仕方で個別言明に還元される.ゆえに,この困難は生じない.

とはいえ,この解決には代償もある.すなわち,この場合,一般言明を含めたあらゆる存在言明を,何かが「依然」存在しているという意味に理解しなければならないし,否定存在言明は「もはや」ないしは「未だ」存在していないという意味に解さなければならなくなるのだ.なるほど,現存する自然種の場合は,そう理解しても (ある**の言明とある*の言明を混同しても) 問題なかろう.しかし,「ケンタウロスは存在しない」をこのように理解するのは,不条理である.

APo. はそうしたある**の言明にある*の分析を適用することを避ける一方,両者を明確に区別してもいない.この不明確さは,現存する種の場合にはある**の言明とある*の言明を混同しやすいということから説明できるのである.そして,もはやケンタウロスや山羊鹿の非存在に関する不確かさを解決する必要がない限りで,彼は形式論理・科学哲学においてはもっぱら現存する種の事例に専心していたのだ.

要するにアリストテレスは基本的にある*の存在言明に専心している.だが,もう一つ重要な留保を加えねばならない.「ある」の存在用法には第三の種類があるのだ.

VII

アリストテレスはときに,(a) 「もはや存在しない」とは理解できない仕方で否定存在言明をなし,(b)「依然存在する」とは理解できない仕方で存在言明をなす.時間,空間,空虚,数学的対象に関する言明がそれである.

(1)「セントラミン2」(2)「ケンタウロス」(3)「自己欺瞞」があるかどうかを問う場面を考えよう.(1) はそういう言葉があるかどうかを問うもので,アリストテレスは考慮していない (cf. Pl. Chrm. 159a, Meno 82b, Alc. I 111b-c).(2) は語に対応するものが存在するかを問うもので,「ある**」に関わる.ケンタウロスは彼自身の事例である.(3) は表現の用法が論理的に整合するかを問うものであり,アポリアーによって扱われ,適切な定義によって応えられる.

(3) には一見して二つの困難がある.第一に,この説明は A の定義を与えることが A の存在の主張に等しいとするが,アリストテレスはある箇所で定義が存在を含意し得ないと述べている (APo. II. 92b19-25).第二に,A に関する特定の定義の否定は A の存在の否定になるが,これはおかしいし,問答法を体系化したアリストテレスがそう考えたとも思えない.だが,目下の文脈では,これらの困難は問題ではない.アリストテレスが分析しているのは通用している概念だからだ.

そういうわけで,そうした文脈での問いは「これこれは現実のものか (Is so and so real?)」と翻訳できる.実際アリストテレスの「ある」は時々この曖昧な形容詞によって理解される必要がある (cf. SE 170b8-11,「ある X」と「現れる X」の区別).

VIII

以上の解釈に基づいて述べておくべき所見がいくらかある.

第一に,アリストテレスの「ある」の存在用法は以上三つには限られない.ただアリストテレスは述語の言い換えという武器しか装備していなかったので,これらの区別を明示的には関知していないのである.

第二に,アリストテレスのテクニックが最もうまくいくある*述語の区分においても,述語の資格は疑われうる.疑いの源泉の一つは述語がまだ真でない場合の主語の両義的な地位だが,この疑いはおそらく III 節で十分に晴らされている.この疑いは将来の存在についての知識に関する懐疑論から生じるものと思われる.もう一つの問題は,述語の否定に関して生じる: 例えば人間をアリストテレスに倣って「二足歩行の動物」と定義するとする.すると,「Friday という人はもはやない」と言うとき,それは Friday はもはや二足歩行の動物ではないということを意味する.しかし,足を切断した場合でも同じことが言えてしまう.――だが,これは「ある」の分析についてではなく,「人間」の必要十分条件を与えることについての問題である.

別の批判はより深刻である: 人間があるのとサンダルがあるのが別のことだとして,「存在」に多様な意味があると言えるのだろうか.実に多様な語が文脈に依存するのだ: 代名詞,指示詞,「大きい」などの偽装された比較表現,働いている/いないことを表す様々な語,「同じ」「現実の」「一つ」「良い」などの「実詞に飢えた substance-hungry」(Austin) 語.アリストテレスがこれらの語を無視しているわけではない.問題は,これらを φιλεῖν (love, kiss) や ὄνος (ass, pulley) のような語と同様に扱っていることだ (Top. I.15).後者は相対的に文脈から自由であり,多義性の元となる.だから言い換えが有用であり,また我々はその意味に無制限な範囲を認めないのである.一方で,「良い」「同じ」「一つ」が同様に列挙可能な数の意味を持つと言えるかは疑わしい.そしてアリストテレスによれば,「存在」はこれらと同じ括りに入れられるのだ.

これは大事な問題だが,ここでは扱えない.同じ疑問はアリストテレスの分析の系である「「あるもの」のクラスは存在しない」にも当てはまる.同じ結論は,数詞が異なるカテゴリーで異なる意味を持つという議論 (Met. I, 1053b25-1054a19) からも導ける: 一つの実体と一つの質と一つの量で三つの何かになることはない.ここから彼は普遍学を拒否したのであり,それゆえこれは,Γ で捨て去る (discard) のではないとしても処理する (disarm) 必要があるテーゼであった.

実際のところアリストテレスは,諸カテゴリーを連言で結んでしまっている:「もし実体も量も質もあるなら」(Phys. 185a27-8).また APo. ではカテゴリーの数について述べている (83b13-17).またそうした連言がだめだと述べてもいない.なぜなら,そこで論じられるのはある**だからだ.しかしこのある*とある**の区別は,先述の通り,アリストテレスが気付いていない区別であった.

XI

最後に,「Γでは「ある」の同名異義性が否定されているのだから,「ある」が同名異義的述語だという主張は彼の最も影響力ある見解を代表するものではない」という異論がありうる.「良い」についても同様である (EN I, 1096b26-7).

こうした発展はまた別の話である.本稿の狙いはアリストテレスによる存在の分析の基本的なパターンを図示することであった.だから,後の理論がこれらのパターンの棄却を含意しないと言えれば十分である.そして,Γ で「存在」の諸義に体系的なつながりを検知しているとき,アリストテレスは「ある」の言い換え可能性を拒否しているわけではなく,むしろ前提しているのである.


  1. 自分の理解が少しあやふやだったが,Owen が “Inherence” で否定しているのは「属性個体が一つの実体個体にしか内在しない」という解釈であって,属性個体の存在そのものではない (cf. 原注15).ただ本稿 p.269 の Met. Λ 1070a22-4 の解釈はこの理解と矛盾しているように思われる.

  2. アンフェタミンに似たそういう薬物があるらしいが,Owen が念頭に置いていたのかはわからない.