言語の理論における「理想化」の意義 Cappelen and Dever (2019) Bad Language, Ch.12

  • Herman Cappelen and Joch Dever (2019) Bad Language, OUP.
    • Chap.12. Thoughts on Ideal vs Non-Ideal Theories of Language. 196-210.

では結局,理想化された条件下で言語の理論を立てることには,どんな意味があるのだろうか.

まず他分野 (自然科学・社会科学) の理想化を検討し,理想化に二種類あることを示す.次いで理想化に意味があるのがいつかについて結論を出す.最後に言語に戻って上記の問いに答える.

12.1 理想化された描像は不合理か

理想的な人体についてしか知識がない医者は役に立たない.理想的な交通量のもとでの橋しか建てられない工学者も同様.

予測の懸念 (the Predication Worry): 理論には起こることの信頼性のある予測ができてほしい.理想的条件下で起きることしかわからないなら,理論は予測の役に立たない.

12.2 予測とガリレオ的理想化

予測の懸念が常に深刻な問題になるわけではない.多くの場合,理想気体の振る舞いは,現実の気体の振る舞いをかなり正確に予測する.そしてそれより正確な予測は非常に困難である.私たちは常に完璧な (perfect) 予測を求めているわけではない.

Weisberg 2007 は理想化の諸種を論じるなかで「ガリレオ的理想化」というカテゴリーを特定する.ガリレオ的理想化とは,理論からの計算的予測を容易にするような理想化の前提のことである.科学を活用するさい,ガリレオ的理想化はリスクを伴いうる (ロケットを作る時には理想的予測と現実との違いが問題になりうる).

12.3 理解とミニマリストな理想化

理論の目的は予測に限られない.例えば進化論は予測の役には立たないが,それでも理解 (understand) の役には立つ.

理論化する目的が理解だとすると,ガリレオ的理想化をしたくはならないように思われる.計算が複雑になるからというだけで,現実の特定の側面を無視することはできない.起きていることの理解に必須かもしれないからだ.

だが一方で,理解のための理論形成に一般的な (おそらくは必須の) 理想化もある.例えば摩擦を無視することで,質量といくつかの力だけから運動が決定されることになり,そうした力に関する単純な理論が,現実の物体の動き方の理解に資する.Weisberg 2007 はこれを「ミニマリストな理想化」と呼ぶ.これは予測によって動機づけられるわけではない.予測したい場合は,これを何らかの技術 (art) と組み合わせる必要がある (例: 実験による摩擦係数の決定).

12.4 理想化で何を取り除くべきか

ミニマリストな理想化は危険を伴う: ミニマリストな理想化が理解に資するのは,データの無視する部分・側面を正しく選択する場合に限られる.

摩擦の無視は有益である.カテゴリーとして重要なのは (例えば) 重力や電磁気力だからだ.一方で,相対論的効果を無視するニュートン力学は,ガリレオ的理想化としては正当だが,ミニマリストな理想化としてはうまくない.相対論のほうがニュートン力学より興味深いからだ.ニュートン力学はたんなる中継点にすぎないが,摩擦を無視する理論はそうではない.

重要なのは,どれをミニマリストな理想化によって取り除くのが有用かは,理論構築に先立ってわかることではないということである.異なる理想化のもとで諸理論を構築し,どの理論が説明に役立つかを見る必要がある.

12.5 社会科学における理想的理論と非理想的議論

社会科学の場合,ガリレオ的理想化にどんな効果があるかを知るのはより難しい.それゆえ,政治哲学者たちは,理想化にものごとを歪める危険な影響があるのではと懸念してきた.例えばロールズ『正義論』では二つの理想化する前提が立てられている: (1) 人々は社会の規則を完全に遵守する,(2) 社会は「適切な状況下で」存在している (i.e., 人々が適当な自然的資質を持ち適度に教育されている).だが,現実社会を組織する正しいやり方は,理想的社会を組織すべきやり方とは異なる.それゆえ,理想化された理論はむしろ有害でさえあるかもしれない.例えば,理想化された社会における良い司法システムは,偏見を持つ人々からなる現実社会においては悲惨なほど不正な効果をもたらすかもしれない.

社会科学の場合,「理想的」という言葉づかいは多義的になる: ロールズにより理想化された事象は,(1) 単純化する理想化であるのと同時に,(2) 完璧な・よいものでもある.各々を純化する理想 (simplifying ideals) と指導的理想 (guiding ideals) と呼ぼう.ガリレオ的理想化において,指導的理想を単純化する理想として使うことには,特に危険である.理想化された人々が社会を構築すべきやり方は,私たちが社会を構築すべきやり方と同じだとは限らない.

本書冒頭の言語の理想化には,指導的理想に見えるもの (e.g., 協調的な話し手) もあれば,それほどでもないもの (e.g., 語が安定した意味を持つこと) もある.理想化をガリレオ的理想化として正当化したい場合,理想化が予測に (十分) 有用であることを確認する必要がある.

12.6 言語の理想的・非理想的理論

言語の場合に戻ろう.言語に関する理想化をガリレオ的理想化と見なすのは,最善のやり方ではない.ガリレオ的理想化が意味をなすのは工学者にとってであり,理論家にとってではない.しかし,言語工学 (linguistic engineering) は理想化された条件下でさえあまりに困難である.言語は制御するには大きすぎ,複雑すぎるからだ.

したがって,むしろミニマリストな理想化と捉えるべきだ.その場合,理想化は無視すべき側面を無視しているのか (cf. 摩擦),それとも理論的に重要な事柄 (cf. 相対性) を無視しているのか.

  1. 言語における非理想的現象が「摩擦」だと言うのは,それらに関する興味深い理論が存在しないと言うことである.私たちがこの見方を示唆したのは,色々の伝達効果が心理学・社会学・歴史の一般理論に回収されると述べた場合である (例: 語彙効果).この場合,冒頭の「摩擦のない」コミュニケーションの理論だけが真の理論だということになる.
  2. 非理想的現象が「相対性」だと言うのは,「低速」の場合だけを考慮しているために私たちはコミュニケーションの深層構造について誤解してきた,という場合である.この場合,本書の教訓は,表出的内容,非協調的発話状況等々を扱う形式的ツールを開発し続ける必要があるということになる.

はたしてどちらなのか,という問いへの答えを,私たちは持っていない.しかしこれはいまの言語哲学にとって重要な問いである.これに回答することの大部分は,理論構築を試み,その理論が言語理解に新たな光を当てるかどうかを見ることに存する.非理想的条件下での人々の振る舞いに確固たるパターンがあると分かる場合,それには何らかの深い説明があって,それを発見するためには自分たちの道具立てを再考する必要があるのではないか,と考えるべきだろう.そうしたパターンがない場合は,扱っているのが単なる言語的「摩擦」であり,言語の理論の有用性の限界に自分たちがいるのではないかと考えるべきだろう.本書にはどちらの方向性の示唆もあり,両者の比較考量が今後の課題となるだろう.