フレーゲにおける意義と文脈原理 Dummett (1981) FPL, Ch.1


  • フレーゲのもともとの課題は,証明プロセスにおいて完全な厳密さを獲得する手段を数学に与えることだった.これはもちろん証明を追求・発見する思考過程ではなく,発見された証明の提示様式 (presentation) に関わる.目的は,全ての数学的証明を提示でき,不正確な論証がなされないことを保証するような枠組みを与えることである.
    • これを達成するには,全ての数学理論を枠付売る記号言語を案出する必要がある.今日的な言い方では形式言語 (formalized language) となるだろう.つまり,当の記号言語の式かどうかを認識する実効的方法がある.
    • またこの言語に関しては,証明の形式規則,つまりどの式列が妥当な証明を構成するかを特定する規則を約定する必要がある.
      • そしてその約定は,問題となる数学理論の直観的に妥当な論証がすべて形式的証明に置き換えうる程度に寛大 (generous) になされる必要がある.
  • このようにしてフレーゲは,19世紀にさかんに検討された数学の公理化から,実際の形式化へと移ることを提案した.公理論的方法が理論の概念や前提の析出を目指したのに対し,フレーゲは証明過程そのものを同じくらい厳密な分析にかけようとしたのだ.
  • 証明を分析するためには,まず証明をつくる文の構造を分析する必要がある.
    • 証明の妥当性は文の意味に依存し,文の意味は語 (ないし個々の記号) の意味と,それらが文を形成する方式とによって確定される.
    • 語の線形的な並びは,語が文の意味の確定に果たす役割の違いや,文を形成する規則の複雑さを覆い隠してしまう.それゆえ分析が必要になる.
    • 分析は,どの文が well-formed かだけでなく,意味が確定される仕方も説明する必要がある.今日的な言い方では,統語論的分析であるだけでなく意味論的分析でなければならない.つまり意味の理論の基礎 (foundation of a theory of meaning) を提供する必要がある.
  • フレーゲは意味の二要素を区別する: 意義 (sense; Sinn) と色合い (tone; Beleuchtung od. Färbung).
    • フレーゲの説明によれば,真偽の確定に関連する事柄のみが文の意義に属し,そうでないものは色合いに属する.表現も同様.
  • 問題は色合い概念である.
    • 言語が確定した真理条件をもつ文の構成を認めること,およびそうした文が主張的に (assertorically),つまり「話し手は真理条件が満たされているような事柄だけを発話しようとする」という規約に支配されているものと理解される仕方で発話されうること,は言語の本質に属するように思われる.
    • 命令文が事態の記述を含まなければならないという要件でさえ,この言語実践の要件なのである.
    • したがって,以下の点が不明確である:
      • 真でないという以外の仕方で,主張はどう不正確でありうるのか.
      • 色合いは意義以外にある単一の特徴なのか.つまり,'but'/'and' を分けるものは 'cur'/'dog' を分けるものと同じなのか.
  • クワインフレーゲに「意味 (significance) の単位は語ではなく文だ」という主張を帰属した (FLPV 39).だが,これはナンセンスか,または自明であり,いずれにせよフレーゲが押し出した主張ではない.
    • ナンセンス: 字母が意味を持たないのと同じ意味で,語も意味を持たないわけではない; 未知の文は既知の語から理解できる.
    • 自明: 文をなさない語の連なりによって何かを言うことはできない; 文とは言語ゲームの指し手に他ならない.
  • もちろん,この自明事が成り立つ理由を示しうる議論を提示しえたのは,フレーゲが最初である.
    • アリストテレスからロックやそれ以降に至る伝統では,個別の語に「観念」(ideas) を表現する力が割り当てられ,語の結合には複合的「観念」を表現する力が割り当てられた.結果,文とたんなる句との区別を説明しそこねていた.
    • しかしだからといって,フレーゲの注意深い定式化を,大雑把なスローガンで置き換えてよいわけではない.
  • フレーゲの説は,スローガンにしてよいなら,むしろこういうことだ: 説明の順序からすれば文の意義が第一だが,再認 (recognition) の順序からすれば語の意義が第一である.
    • 再認: 文 (や任意の複合表現) の意義は,それを構成する語の意義から決定される,とフレーゲは強く主張した.すなわち,語の意義についての知識と語の結合様式の観察から,文の意義の知識が得られる.
    • 説明: 言語行為は文によってしか遂行できないので,語がある意義を持つということは,それを含む文の意義を部分的に特定するある一般的規則に支配されていることにのみ存する.
      • したがって,文の意義という一般的概念は,語の意義という概念を参照せずに説明できる必要がある.
  • 語の意義が果たす「寄与」という考えに実質を与えるには,まず寄与の種類に応じて語や表現を分類し,各カテゴリーについてそれらを支配する意味論的規則の形式の一般的説明を与える必要がある.
  • 要するに: 語の意義は,文の形成に使われる仕方を参照せずには把握できない.しかし一方で,当の語は,それを含む特定の文の理解とは独立に理解できる.
  • 大まかな類比: 符丁が数字+文字列からなり,数字が文字の置き換え方を決定するとする (例: 'can' は '1dbo', '5hfs', '26can' と書ける).このとき,各符丁の数字と文字列は一定した意味を持つ.しかし,数字や文字列の意味は,日常語を符丁で表すという一般的観念を参照せずには説明できない.
  • こうした文脈では,文と語のどちらが「意味の単位」なのかを問うのは無意味である.
  • 一方で,特定の語の説明がもろもろの文における出現に明示的に言及して (explicit allusion) 説明される必要があるわけではない.フレーゲは「固有名」(proper names) の場合そうした必要がないと考えた.固有名の場合,それが何を表しているのか (stands for) を示すことで,その意義を示せる.
    • とはいえこれも,語とそれが示す対象の関係という観点から,固有名の文の真理条件への寄与を説明できるという想定のもとでのみ可能なのである.
  • 以上の説は,『算術の基礎』の「語が意味を持つのは文の文脈においてのみである」というテーゼの一部をなしている.
    • したがって,固有名の意義が固有名と対象との関係から説明されるというとき,その関係を引き合いに出すこと自体が,語の諸出現への暗黙的な言及 (covert allusion) を含んでいる.
      • 類比: カードゲームのルールを説明して「エースは他のどのカードより上.10はエースより下だが,残りのどのカードよりも上」というとき,たしかにこの割り当ては遊び方への言及を含んでいないが,しかし後に遊び方に結びつかない限り空虚である.
      • 同様に,語の意義が語が出現する文の真理値の確定への明示的言及なしに説明されるのがうまくいくのは,その説明が後に文の真理条件の約定に用いられる限りのことである.
      • かくして言語において文は特異な役割を持つ.そのこと自体は大した発見ではない.フレーゲが成し遂げたのは,その役割を説明する理論を作ったことだ.
  • 『算術の基礎』以降の著作はなぜかこの特異性をぼかしてしまっている点で退行的である.