アリストテレスにおける個物と普遍の認識の問題 Mansion (1976) Le jugement d'existence chez Aristote, Livre I, Ch.1

  • Suzanne Mansion (1976) Le jugement d'existence chez Aristote, 2e éd., Éditions de l'Institut supérieur de philosophie.
    • Livre I. La conception aristotélicienne de la science.
      • Chapitre premier. L'idée de la science chez Platon et Aristote. 7-17.

初版 1946 年.


§1. プラトン

アリストテレスの「学知」(science) を理解する上で,プラトンの「学知」から問うてみるのは意味がある1.弟子の思想は師匠のそれと,内容上大きく違うとしても,多くの接点があるからだ.またアリストテレスの体系はイデア論の諸困難を切り抜けるために構築されているので,自律的な部分でさえプラトニズムと密接な関係がある.

プラトンに学知の理論はない.彼が学知のことをどう考えていたかを知るには抽出 (abstraction)・再構築を行う必要がある.

それを行ったときに目につく第一の特徴は,感覚との区別である.感覚は流動的であり,人・時・感覚器官によって異なる.触覚は硬さや柔らかさは捉えられるが,硬いものや柔らかいものの実在は判断できないし,その本質も把握できない.(学知の目的である) 本質の把握を行うには,諸印象について反省し,その基体について態度表明を行う,総合 (synthèse) の中心が必要である.それが魂であり,魂が下す判断を δόξα と呼ぶ.ただし δόξα と学知は同じではない (偽なる判断もある).欠けているのは λόγος, すなわち論拠 (raison),さらに言えば因果的解明 (explication causale) であり,知性認識されうる本質への遡行である.問答法を通じたそうした再上昇を通じてのみ,正しい考え (opinion droite) が学知になる.

一方で,正しい考えと学知とはあくまで別物である.学知は〈ある〉(l'être) を対象とし,この対象から真理性を得ている.ありはしないものの知識は得られない.純粋な実在は完全に認識可能であり,〈ある〉の完全な欠如は無知を生み出す.だが,両者の中間的な実在があるとすれば,それは考えの対象となる.多なるもの (choses multiples) がそうしたものである.

学知が安定した価値をもつのは対象となる〈ある〉が不変のときだけである.ただし純粋な単一者 (unité pure) である必要はない (そうしたものは考えられない).つまり学知は様々な不変のイデアを扱うことになる (多数性につき cf. Crat. 386de, Phd. 78d).

一方で,学知はただ諸イデアを扱うだけでなく,それらを比較し結びつける.特に,善のイデアは他の諸イデアを支配する.イデア間には関与 (participation) 関係があり,学知はそれらを研究しなければならない.どのイデアも完全に孤立してはいない; 少なくともどれも「同」と「異」に与っている.ただしこれらは関係的に過ぎず,またイデア間の真の仲介者たりえない (その役割は「ある」が担う).

Diès によれば,プラトンの学知観は最初から全て開陳されているわけではなく,徐々に明確化されていったものである.

§2. アリストテレス

次いでプラトンと比べたアリストテレス説の一般的特徴を述べる.アリストテレス哲学はソクラテスプラトンのそれの発展である: アリストテレスの学知も〈ある〉の認識であり,事物の原因,安定的な・不変の要素,すなわち普遍的・必然的本質の把握を目指す.また知識とより下位の認識との区別も受け継いでいる.感覚は普遍を与えず,それゆえ原因を明らかにしない.経験も同様.考え (opinion) はより洗練されているが,学知よりは劣っている.それは必然性を欠くからである.したがって,アリストテレスの場合も,考えと学知の違いは,解明的原因に達しているか否かにある.

一方でアリストテレスは,プラトンより,経験が学知に果たす役割をよく捉えている.学知の対象となる〈ある〉をイデアの階層とは見なさないからである.この見解は,感覚の流れに満ちた宇宙にあって,固定的・必然的・永遠なる知をいかにして得られるのか,という問いへの答えだった.だがアリストテレスは,これを問題の回避にすぎないと批判する: イデアが感覚対象から分離しているなら,一体どうしてイデアが感覚対象の本質となりうるのか.イデアがそれらの本質とならないなら,それらを説明できていないことになる.アリストテレスによれば,イデアにはあまりに多くの困難がある.彼はイデアが実在しないと結論する (A9, M4-5).また数学的対象にも同様の扱いをする (M2-3).

感覚的で変化する実体が,アリストテレスにとっては,真の実在であり学知の対象である.プラトンの場合と同様,学知は実在のうちなる安定的要素を研究するが,本質はあくまで感覚的個物に内在的である.本質を認識することで,私たちは〈あるもの〉どもを認識し,さらにはそれを解明する (本質がその諸特徴を説明するから).

したがってアリストテレスの場合,感覚と経験こそ,私たちを取り巻く実在と接触する手段であり,それらを媒介して普遍が私たちのうちに生じるのだ.そこでアリストテレスは,必然的事実のそばに ὡς ἐπὶ τὸ πολύ を認める (APo. I30, Met. E2).また全ての学知に同一の ἀκρίβεια を要求しない (EN I.1, 7, II.2).

以上から分かる通り,アリストテレス的学知はイデアの実在いかんの一点でのみプラトニズムと相違する.だが,不変・必然・普遍的学知と変化する・偶然的・個別的実在というアンチノミーを,果たしてアリストテレスは乗り越えられているのだろうか.

この困難は,個物と普遍的本質の関係に関する考察においていっそう明白になる (Zeller, PG II.2, 304-13).普遍とは,事物の外側にあるものではなく,事物に共通に属するものでしかない.アリストテレスは実体として個物以外を認めていない; 普遍は実体の本質を表しうるが,普遍を実体と呼ぶことはできない.

一方で,実体は第一の・最も基礎的な〈あるもの〉であり,それゆえ学知の本来の対象とされる.それゆえ,諸個物が学知の基礎にあり,学知の対象をなす,と思われるかもしれない.だが,アリストテレスはそう言わない.彼によれば,個別の質料,ひいては個物そのものが学知によって認識可能でない (APo. I.31, Met. B6, Z15, M10).学知は,魂が普遍を捉えるところにしかない.

以上の個物の実在性と普遍の理解可能性との対立は,彼の体系の困難の一つである.実際B巻では離在する類・種なしに学知がいかにしてありうるのかが問題にされる (B4, 999a34-b3; 6, 1003a10-15).真の知に関するプラトンの見解を保存したままプラトンの訂正を試みると,実在性と理解可能性はばらばらになってしまうように思われる.

従来のアリストテレス研究はこのアンチノミーを強調してきた (解決を試みるにしろ,反対に矛盾を先鋭化させるにしろ).それら先行研究の助けを借りつつ,学知に対するアリストテレス哲学の態度の理解を試みたい.

アリストテレスの学知は,普遍的必然的認識で,ものの本質に達しものの原因を解明する.これらの関係は何か,別個の側面なのか互いに関係するのか.これら四つの観点を各々検討することで,これらの問いに答えることが可能になる.最も根本的な特徴は最後の「原因の認識」というものだと思われる.プラトン以来,学知と正しい考えを区別するのは原因による解明であった.アリストテレスも原因との関係で学知を定義している (APo. I.2).それゆえ,この側面から検討を始める.


  1. 以下のプラトンに関する議論は Diès (1927) に全面的に依拠している.