コミュニタリアニズム,シティズンシップ理論 キムリッカ『現代政治理論』6-7章
- W. キムリッカ (2005)『現代政治理論』千葉眞・岡崎晴輝ほか訳,日本経済評論社.
- 6-7章 (301-473頁).
第6章 コミュニタリアニズム
6.1 序論
- 18-19世紀の主要なイデオロギーが共同体を基礎理念としたのに対して,WWII後のリベラルな政治学は共同体を派生物として扱う傾向にあった.だが,ここ20年間のコミュニタリアニズムの台頭とともに,共同体の問題が再浮上している.
6.2 共同体と正義の限界
- 真の共同体に正義原理は必要でないという論者もいる: 正義への関心はむしろ道徳的状況の悪化を反映する (サンデル).
- 反論: 正義を矯正的な徳と考えるのは誤りである (5章).
6.3 正義と共有された意味
- 共同体の外側に正義の原理は存在せず,普遍的正義論の探求は見当違いだ,という論者もいる (ウォルツァー).
6.4 個人の権利と共通善
- 多くのコミュニタリアンによるリベラル批判の眼目は,むしろ「個人主義」批判にある.
- コミュニタリアンはリベラルの自己決定観を批判する: (1) 自己決定の能力を誤解している.(2) 自己決定能力の行使の社会的前提条件を無視している.
- リベラルの一部は自己決定の価値を自明視するが,実際には,有害な選択を思いとどまらせるべき状況は存在する.
- ミルは一定の年齢と精神的能力で線引きし,その基準に達しない者に対するパターナリズムを認める.
- だがリベラルは,責任能力のある成人に対するパターナリズム (例: マルクス主義的完成主義) を認めない.
- (単に善いと思っている人生を送るだけではなく,本当に) 善く生きるためには,現在の自分の目的から「距離を置く」(文化が提供する様々な情報に照らして吟味する) ことができなければならない.そのためには様々な自由が必要である.
- また,自分が是認していない価値に従って外から指導されることで,人生が善くなることはない.
- ロールズはこうした自己決定観から (生き方の本質的価値を評価しないという)「国家の中立性」を支持する.より正確に言えば「国家の反完成主義」である.
- もちろんリベラルな国家の場合でも,利害関心や厚生に関する何らかの仮定は必要である.ロールズはほぼ全ての生き方に必要なものとして「基本財」をリストアップする.
6.5 コミュニタリアニズムと共通善
- これに対して,コミュニタリアンは国家の完成主義を主張する: 善き生の実体的構想として「共通善」を考え,これに基づいて個人の選好に重要性を付与する.
- コミュニタリアンは,自己決定というリベラルの理念に反対し〔§6〕,自己決定と中立性の結びつきにも反対する〔§8〕.
6.6 負荷なき自己
- リベラルの自己観によれば,いかなる目的も自己による修正の可能性を免れない.自己は社会的役割に優先する (自己の「カント主義的」見解).一方コミュニタリアンによれば,自己は既存の社会慣習に「埋め込まれている」(embedded).
- コミュニタリアンによれば,リベラルの自己観は,(1) 空虚であり,(2) 自己認識 (self-perception) を歪曲し,(3) 個人が共同の慣習に埋め込まれていることを無視している.
- 「全ての社会的役割を自由に疑いうるというのは自滅的である.真の自由は「状況化されて」いなければならない」(テイラー).
- 自由そのものに内在的価値があるという立場は確かにおかしい.
- 選択の自由を働かせるほど人生はますます価値あるものになる,というのは間違っている.
- また現に私たちの行為は自由そのものを動機としてはいない.
- だがリベラル〔の多く〕は,自由そのものに内在的価値があると考えているわけではない.自由はむしろ価値ある計画の追求の前提条件として追求される.
- そして,そうした人生の計画の追求において,共同体の価値を個人の評価や拒絶とみなすこと自体は,べつだん空虚ではない.
- 自由そのものに内在的価値があるという立場は確かにおかしい.
- 「自己が目的に優先するなら,負荷なき自己にとっての目的を見通せなければならない.だが実際には私たちは,自己を負荷なきものとして認識していない」(サンデル).
- だが,リベラルの主張の中心にあるのは,「なんら負荷のかかっていない自己を認識できなければならない」ということではない.
- むしろ,「現在の私の動機とは異なる動機の負荷を私の自己がかけられていることを思い描ける必要がある」ということでしかない.これを否定するのが次の第三の論拠である.
- 「共同体の善は共同体の構成員のアイデンティティを定義する.善き生の問題とはそうした自己の発見の問題である」(サンデル).
- だが,私たちが社会慣習を常に気に入るとは限らない.
- 実際サンデルは目的の再吟味を認めるときもある.その場合,リベラルの考えとは区別できない.
- 「全ての社会的役割を自由に疑いうるというのは自滅的である.真の自由は「状況化されて」いなければならない」(テイラー).
6.7 政治的リベラリズムーーコミュニタリアニズムにたいするリベラルの妥協案1
- 一部のリベラリズムは弱いヴァージョンのコミュニタリアニズムを受け入れる: 埋め込まれた自己という見解は,伝統主義的集団の自己理解には当てはまる.
- 非リベラルな伝統主義的集団の処遇はリベラルにとって問題である.
- こうした集団が他の集団への脅威にならない場合,リベラルの原理による再編成の強制は不寛容だとも思われる.
- つまり,自律と寛容という二つのリベラルな価値が競合することになる.
- こうした「コミュニタリアン的」少数集団を受け入れるため,「政治的リベラリズム」(↔包括的リベラリズム) が提唱されてきた.
- 宗教的寛容にはリベラルな寛容と非リベラルな寛容がある.リベラルな寛容は個人の自律に根ざす.非リベラルな寛容の例としては (個人の信教の自由を認めない) オスマン帝国のミッレト制など.
- リベラルな寛容は自律を尊重しない集団を受け入れにくいという問題がある.
- そこで近年のロールズは,自律の価値に訴えない仕方でリベラリズムを再定式化している.ロールズによれば,基本的自由はコミュニタリアンな論拠からも擁護可能である (重なり合う合意).
- だが,ロールズの戦略は解決になっていない.リベラルとコミュニタリアンの間では,リベラルな寛容の可否について結論が異なる.
- ロールズ自身は,伝統主義的集団も個人の信教の自由の原理を受け入れるだろうと論じる.
- 宗教的寛容にはリベラルな寛容と非リベラルな寛容がある.リベラルな寛容は個人の自律に根ざす.非リベラルな寛容の例としては (個人の信教の自由を認めない) オスマン帝国のミッレト制など.
- 政治的リベラリズムへの移行による妥協は失敗している.ここで提起されるコミュニタリアンの集団との共存の問題は,多文化主義のトピックとなる (8章).
6.8 社会的テーゼ
- コミュニタリアン〔の多く〕は,自己決定の配慮を認めつつ,その社会的条件をリベラルが無視していることを批判する.
- テイラー: 自己決定の能力は特定の社会的環境を備えた社会でしか発揮できない (社会的テーゼ social thesis).
- もっとも,このテーゼはロールズも認めるだろう.
- だがテイラーは社会的テーゼから「中立国家」の理念を拒否する: 中立国家は自己決定に必要な社会的環境を適切に保護できない.
- 以下ではテイラーの議論を三つに分けて考える: (A) 有意味な選択肢を提供する文化構造を維持する必要性,(B) 有意味な選択肢を評価する共通のフォーラムの必要性,(C) 連帯と政治的正統性の前提条件.
- (A) 文化市場を放置すると,かえって多元主義を支える文化構造の土台を掘り崩しかねない.完成主義の理想は国家の支援を必要とする (ラズ).
- だが,国家の支援に際して,文化のなかにある選択肢の序列化は外部の市民社会に任せることもできるはずだ.
- したがって論点は,完成主義と中立性の間の選択ではなく,国家の完成主義と社会の完成主義の間の選択である.
- (B) 善についての個人の判断は,実際には経験の共有は共同の討議を必要とする.そしてその適切な場は国家である.
- (C) 中立国家は共通善の共有意識を弱体化するため,正統性を維持できない.
- テイラー: リベラルな国家は善の構想の公的な採用をあらかじめ排除することで,結局は民主主義秩序の正統性自体を弱体化させている.
- ロールズやドゥオーキンによれば,リベラルな正義は境界線で区切られた共同体内部で機能する (コスモポリタニズムの否定).
- 政治的正統性の解明には正義原理の共有以外のものが必要である.これに関するアプローチは三つに大きく分けられる:
- コミュニタリアン的アプローチによれば,社会統合は善き生の構想の共有によって基礎づけられる.
- コミュニタリアンは,共通善の政治の基礎となるような共通の目的が,歴史的慣習のなかに見出されると考えている.
- だが,西洋におけるそうした歴史的慣習は,一部の社会集団 (有産白人男性) によって,自身の利益のために定義されたものでしかない.
6.9 リベラル・ナショナリズムーーコミュニタリアニズムにたいするリベラルの妥協案2
- 正義についての信念は国家を越えて共有されており,善き生についての信念は国家の内部でさえ共有されていない.したがって,中間的なアプローチが必要である.
- 西洋諸国の実践を検討してみれば,国民性 (nationhood) の観念に訴えるアプローチが考えられる.
6.10 ナショナリズムとコスモポリタニズム
- リベラル・ナショナリズムはグローバルな正義に無関心に見える,という批判がありうる.
- グローバルな正義を擁護する人々は,国家間の資源の再分配,かつ/または国家間の移動の自由を認めるよう論じる.一方で,リベラル・ナショナリズムは不平等な富の蓄積や国境の閉鎖を当然視しているように見える.
- とはいえ,人間の道徳的共感の範囲の先天的傾向からすれば,道徳的関心が国民国家まで拡大しているのは重要な歴史的成果である.
- グローバルな正義への動きは,むしろリベラル・ナショナリズムに基礎づけられるべきである.
6.11 コミュニタリアニズムの政治
- 現代のコミュニタリアニズムの最も典型的な特徴は,現代社会における目的の多様化が社会統合に影響するのではないかという不安の感情である.
- このバランスを取り戻す方法については,「過去志向の」コミュニタリアンと「未来志向の」コミュニタリアンが存在する (フィリップス).
- 両者ははっきりとは区別できない.それゆえ,ほとんどのコミュニタリアンの著書には保守的反動の要素も進歩的改革の要素も存在する.
第7章 シティズンシップ理論
- リベラル-コミュニタリアン論争の次の段階として,1990年までに,シティズンシップの概念への関心が爆発的に高まってきた.
- シティズンシップの理念は,個人の権利・権原というリベラルの理念と,共同体へのメンバーシップ・愛着というコミュニタリアンの理念を媒介する.
- 市民の徳性やアイデンティティが民主主義における重要な独立の要因であることは,今や広く受け入れられている.
- つまり,基本権,意思決定手続き,社会制度といった社会の「基本構造」(ロールズ) だけでなく,その枠内で行為する市民の資質や気質に注目する必要がある.
- Cf. イタリアの地方政府のパフォーマンスに関するロバート・パトナムの研究.
- つまり,基本権,意思決定手続き,社会制度といった社会の「基本構造」(ロールズ) だけでなく,その枠内で行為する市民の資質や気質に注目する必要がある.
- シティズンシップ理論は正義論に取って代わるとさえ示唆する論者もいる.それは言い過ぎであるが (市民的徳性に関する不一致の解決は正義の原理に訴える必要があるから),少なくとも必要な補足である.
- 以下では,必要な徳性と見なされるものを明らかにし (§1),「市民的共和主義」の古典的形態とリベラルな形態を比較し (§2-3),リベラルな国家に可能なシティズンシップの促進の方法を論じる (§4).
7.1 民主的市民の徳と実践
- 戦後のシティズンシップ観で最も影響があったのは,T. H. マーシャル「シティズンシップと社会階級」(1949) である.
- マーシャルはシティズンシップを権利の所有という観点から定義した: 18世紀以降の市民的権利,19世紀以降の政治的権利,20世紀以降の社会的権利.
- こうした権利の拡大に伴い市民という身分の範囲も拡大した.
- こうした「受動的」「私的」シティズンシップ構想は,過去10年間に批判されてきた: そうしたシティズンシップの受容は,責任や徳性の能動的発揮によって補完/置換されねばならない.
- ギャルストンは責任あるシティズンシップが四種類の市民的徳性を要すると説明する:
- 一般的徳性 (勇気,遵法精神,忠誠心),
- 社会的徳性 (独立心,開かれた精神),
- 経済的徳性 (労働倫理,自己満足を延期する能力,経済的・科学技術的変化に対応する能力),
- 政治的徳性 (他者の権利を理解し尊重する能力,割に合うことだけを要求すること,公職者のふるまいを評価する能力,公共的な討論へ積極的に参加すること).
- こうした徳性の多くはあらゆる政治秩序で要求されるが,今日の論争はリベラルな体制に特有の徳性に焦点を合わせてきた.それは公共的討論に参加する徳である (公共的理性 public reasonableness).
- 近年のシティズンシップ論における公共的理性の前景化の一因は,一つには近代社会の民族的・宗教的多様性に対する認識である.
- もう一つは「投票中心的」(vote-centric) 民主主義理論から「対話中心的」(talk-centric) 民主主義理論への転換である.
- 前者の場合,選好は政治過程に先立って独立に形成される.こうした集計的モデルには,帰結の正統性が薄弱だという欠点がある.
- そこで1990年前後に (ドライゼク),投票に先立つ討議や意見形成過程への関心が生じた (討議的転回).
- 討議は前提や信念を洗練し,社会の統合を強め,場合によっては広範な合意を形成できる,と期待される.
- また討議的民主主義は特に少数派に対して利益をもたらす.
- そして討議モデルでは,市民的徳性はより高度に要求される.
- ギャルストンは責任あるシティズンシップが四種類の市民的徳性を要すると説明する:
- 一方で,市民的徳性が衰退しつつあるという懸念も増している.
7.2 市民的共和主義
- そこで,「いかにして市民的徳性を促進するか」が,市民的共和主義 (civic republicanism) の中心的問いとなってきた.
- これには二つの陣営が存在する.
- 第一に,シティズンシップは実は負担ではなく内在的価値を持つというもの (アリストテレス的解釈).
- 第二に,シティズンシップは負担だが受け入れるべき道具的理由が存在するというもの (道具的解釈).
- これには二つの陣営が存在する.
- アリストテレス的ヴァージョンは現代人の「善き生活」観とは食い違う.近代人の自由は私生活の自由である (コンスタン).
- 近代において私的生活は古代に比べてはるかに豊かになっている.政治的生活の優位性の従来の弁証はこの点を考慮できていない.
7.3 道具的な徳
- ロールズは自らの道具的な共和主義をアリストテレス的共和主義 (「公民的人文主義 civic humanism」) と対置する.
- シティズンシップの要求の大きさは,政治制度の公正性・健全性によって異なる.うまく行っている場合は能動的参加はほとんど必要ない.
- 一方で,リベラルは善き生を追求するアリーナとして市民社会を捉えているので,政治的徳性とは別に,市民社会が機能するための一定の社会的徳性が要求される.
- 市民性 (civility) ないし品位 (decency) がそこに含まれる.すなわち,他者に対して差別を行わず対等者として処遇すること.
- これは社会の公的生活における平等という規範を支える道徳的義務であり,単なる「良い作法」という美的な構想ではない.
- 市民性 (civility) ないし品位 (decency) がそこに含まれる.すなわち,他者に対して差別を行わず対等者として処遇すること.
7.4 市民的徳性の苗床
- では,道具的な徳はどう涵養すべきなのか.
- 一案は徳性発揮 (政治参加) の法的義務を課すこと.
- ただし,参加の教育的機能を信頼しすぎてはいけない (獲得した能力が善用されるとは限らない).
- そこで,市場・市民的結社・家族などの市民的徳性の苗床 (seedbeds of civic virtue) の発見が試みられてきた.
- 一案は徳性発揮 (政治参加) の法的義務を課すこと.
- 案1: ニューライトは市場を市民的徳性の学校として賞賛する.
- だが,市場は自発性は教えても,正義や社会的責任の感覚を教えない (住宅金融や不良債権のスキャンダルを見よ).
- 案2: 「市民社会論」の理論家は,市民社会の自発的組織が,相互的義務という徳を教えると主張する (ウォルツァー).
- だが,これも確固たる証拠はない.近隣団体は NIMBY の原則を,教会は不寛容を教える可能性がある.
- 自発的結社には特定の目的があり,市民的徳性を教えることが存在理由であるわけではない.
- 案3: 「母性的シティズンシップ」(maternal citizenship) は,家庭や育児を責任や徳性の学校と見なす.
- しかしこれも,民主主義的価値の促進にどうつながるのか明瞭ではない.
- 案4: 最近の理論家は,共通の教育制度において市民的徳性が教えられるべきだと主張する.
- だが,そもそもなぜ人々はコストをかけて徳の発揮を選択するのか,という問題は残る.
7.5 世界市民的シティズンシップ
- 能動的シティズンシップや討議的民主主義をリベラル・ナショナリズムと結びつけることに対しては,コスモポリタニズムからの批判がある.
- 問題は,国民国家がより世界市民的な民主主義の構想の建築資材となるか,それとも障壁となるかである.
- したがって,世界市民的民主主義の発展は国民国家の成果のうえに成立すべきだろう.
7.6 市民的共和主義の政治
- 実際のところ,論者たちはシティズンシップ理論を公共政策の問題に適用することを躊躇する傾向にある.
- これはシティズンシップ理論の構築を喫緊の課題とする態度とは齟齬する.
- そもそも,シティズンシップ促進の喫緊性も明らかとは言えない.徳の衰退というのは歴史上ありふれた文化ペシミズムにすぎないかもしれない.
- したがって,現代のシティズンシップ論の隆盛は額面通りには受け取れない.
- シティズンシップという言葉は,多くの場合,従来の理論のカムフラージュとして使用されているにすぎない.
- 左派も右派も,徳に訴えかけることで,旧来の論点をより尤もらしく,かつ高貴に見せかけているのである.