論証理論の構成と必然性の位置づけ Delcomminette (2018) Aristote et la nécessité, ch.7.

  • Sylvain Delcomminette (2018) Aristote et la nécessité, Vrin.
    • 2ème partie. Science et nécessité.
      • Chapitre VII. La nécessité dans la théorie de la science. 155-211.

学知の順序

  • 107 以下では APo. における必然性の問題を検討し,それがアリストテレスが本質と定義に決定的に重きを置く理由となる次第を追う.
    • "Πᾶσα διδασκαλία καὶ πᾶσα μάθησις διανοητικὴ ἐκ προϋπαρχούσης γίνεται γνώσεως" (I 1, 71a1-2): 知識 (connaissance) には前後の順序 (ordre) がある.
  • 108 γνωριμώτερον には τῇ φύσει / πρὸς ἡμᾶς の別がある.
    • 後者は新たな認識を私たちが獲得する (= ἐπαγωγή の) 順序である.
    • 前者は時間的ではなく純粋に論理的・認識論的である.
      • 前者と後者の対立は学習者の初期状態である (McKirahan).最終的にはこれが一致する (Z3).

学知の対象の必然性

  • 109 APo.アリストテレスはまず学知の捉え方 (conception) を措定する (I 2, 71b9-16).後半は捉え方を支持する議論として読める.
    • この捉え方はエンドクソンであり,その正誤を言うことに APo. の関心はなく,可能性が示せればよい (分析的アプローチ).
  • 110 何かを知るとは,その原因を知ることであり,またそれが別様でありえないことを知ることである.後者のテーゼは多くの箇所で繰り返される (cf. EN VI 3, 1139b19-23).またそうした対象は ἀίδιον である (1139b23-24).
    • このことは生成消滅する事物の学知を妨げない.永遠であるのは主述の結びつきであり,純粋に言語外的な事物ではない.
      • 一定の頻度で起こる (πολλάκις) ことについてであれば永遠に妥当する命題を形成できる.例: 月食 (I 8, 75b33036).
  • 111 対象の必然性は ἐπιστήμη を δόξα から分かつ (I 33).
    • 同じ対象について ἐπιστήμη と δόξα をもつことはある意味ではでき,ある意味ではできない (89a23-37);〈ἐπιστήμη : δόξα :: 真なる δόξα : 偽なる δόξα〉の類比が成り立つ.
      • 同じ内容について真なる思いなしと偽なる思いなしとを同時に持つことはできない.一方の人が「正方形の対角線は通約可能」と考え他方の人が「対角線は通約不可能」と考えるとき,同じ対角線という概念についてではあるが,一方は「通約可能である限りの対角線」を思いなし,他方は「通約不可能である限りの対角線」を思いなしている.この意味で対角線の τί ἦν εἶναι が異なる.
      • 同様に,思いなしと学知は同じもの (例: 人間) を対象とするが,その際,同じ仕方で考えられてはいない.
        • 「動物」は人間の本質に属し,それゆえ人間は必然的に動物である.この必然性を把握していれば「人間は動物である」は学知的命題になるが,単に付帯的述定として理解する場合は思いなしになる.
  • 112 したがって,「対象」を (把握と独立にあるのではない) それらの能力の志向的対象として理解した場合には,思いなしの対象と学知の対象は異なる.それゆえ同じものについて思いなしと学知を同時にもつことはできない (I 33, 89b3-6).
    • それゆえある意味で,学知の対象たりうる対象についてのあらゆる思いなしは偽である.ゆえに学知の領域は思いなしの闖入を免れていなければならない.
    • したがって,学知の「対象」は言語外的な「もの」ではなく,命題が表す事態である.「人間」や「動物」が問題になるのは,それが項として命題的構造に組み込まれる限りにおいてである.
  • 113 APo. で探求されるのは論証的学知であり,論証とは推論の学知的形式である――すなわち結論の原因を明らかにし,結論が必然的であるものとして認識できるような推論である.

事実の推論と〈何ゆえに〉の推論

  • 114 あらゆる推論は形式的な意味で結論の原因を表す: AaB, BaC\vdash AaC において AC に帰属する原因は B である.
    • だが,(前提が真な場合でさえ) 内容上原因であるとは限らない (事実 (ὅτι) の推論).
  • 115 APo. I 13 では事実の推論と〈何ゆえに〉の推論が区別される (cf. 諸注解および Patzig 1981).
  • 116 〈何ゆえに〉の推論における原因はもはや純粋に形式的ではない.原因は II 11 で分類される.
    • Met. Δ2 や Phys. II 3 との関連を見るのは避けがたい.
      • だが質料因理解で問題が生じる (Ross): ここでは前提が結論の「質料」とされるが,質料因は通常何かを必然化する (nécessite) ものではなく,むしろ目的によって必然とされる (nécessité) ものである.
      • Mignucci 1972 の解釈はこの点をクリアしている: アリストテレスは前提を質料因とするとき,前提である限りでの前提ではなく,結論を可能的に含む限りでの前提を考えている."τὸ τίνων ὄντων ἀνάγκη τοῦτ᾽ εἶναι" は接続点である限りの中項が保証する推論的必然性を指し,これは論証の必要条件であって十分条件ではない.この意味で,中項である限りの中項は「質料因」である1
  • 117 他の三原因が中項によって「論証」されるのは別の意味においてである.質料因は (逆説的に) 純粋に形式的に捉えられた限りの中項を参照するが,他の三原因は他の意義から捉えられた中項を参照する.
    • 作用因・目的因の「論証」の例は問題含みである.まず単称的な偶然的出来事が例に挙がっている: A=戦争,B=最初に仕掛ける,C=アテナイ人 (作用因),A=健康である,B=食物がつかえないこと,C=食後に散歩する (, D= e.g. ソクラテス (といった補いが必要)) (目的因).
      • 目的因の論証の第一段階 (94b8-11): CaA, AaD\vdash CaD .A が目的因.
      • 第二段階 (b11-23) は CaA が扱われる.だが実際の形式は AaB, BaC\vdash AaC であり,AaC は作用因を表している.
        • だが λόγοι の μεταλαμβάνειν が必要だと言われる: 作用因の言明は目的因の言明の逆にほかならない.
        • 問題は第二段階の B が目的因も作用因も表しておらず,むしろ形相因を示していること.
      • なぜこんな不明確な説明をしたのか.
        • 目的論にとって決定的に重要である二つのテーゼを示そうとしたのだと思われる (cf. §209-218):
          1. 目的をもつ出来事の場合に目的因と作用因が逆になること,
          2. 両方が形相因ないし定義に依拠すること.
  • 118 時間的に始動因は結果に先立ち,目的因は結果に後続する.この非同時性は問題を生み出す (II 12, 95a24-b1).
    • 時間は連続的なので (Phys. IV 11, 219a10-14),原因と結果が同時的でなければ,一方だけが現実化している時間がつねに存在する.ゆえに,結論の必然性は,既に全部生じた出来事を考えることによってのみ保証される.
    • したがって,非同時的な場合には,完全に過去のことを述べ,目的因が中項の場合だけが学知的論証の名に値する.
      • まさにこの仕方で,アリストテレスは自然学に目的論的推論を組み入れる.そしてその中で作用因や質料因も (付随的に) 一定の地位を再度与えられる.そしてそれらの推論は項の本質 (したがって形相因) に依拠する (§213-218).
        • ゆえに APo. でも形相因に中心的役割が与えられている.また事実の推論と〈何ゆえに〉の推論の違いも形相因から理解できる (II 16, 98b21-24).
    • ゆえに II 11 で作用因や目的因の例が学知から明確に出てきていないのは偶然ではない: 厳密には形相因が学知の真正な原因である (ときにはそれを目的因として扱いうるとしても (§217)).
      • この形相因の優位から,若干の解釈者はアリストテレス哲学を (プラトンのそれに近い)「汎論理主義 panlogisme」と呼んだ.
        • だが,APo. の論証の構造は生成の学知 (une science du devenir) の構成を認めるものになっており,その点でアリストテレスプラトンの枠組みから決定的に脱している.

前提の必然性

  • 119 およそ学知とは必然的なものの学知なので,論証の結論は必然的である.このことは二つの前提 (中項) の必然性を前提する (I 4, 73a21-24; I 6, 75a13).
    • 前提は二つとも必然的でなければならない.もちろん論理的には一方だけでも必然的な結論は出うる (APr. II 2-4; APo. I 6, 75a1-11).二つとも必然的でなければならないのはむしろ認識論的理由による.
  • 120 学知の前提が必然的でなければならないのは,学知が事実の説明に存するからである (I 6, 74a26-32).一方が必然的でなければ,結論の真理性が前提を原因とすると言えなくなる.
    • 必然性の認識 ⇔ 原因の認識.
    • 全認識が先行する認識に依拠する (I 1, 71a1-2): 論証の前提はそれ自体知られていなければならない.
  • 121 ではアリストテレスはなぜ一方のみが必然的な前提の推論理論を組んだのか.
    • そうした「混合」推論は,狭義の論証ではないにせよ,学知を私たちの経験における個別者の領域に拡大する (Kosman 1990).Kosman はこれを帰納とも結びつけるが,そうではない.ただし学知の適用場面で登場するのは疑いない.
  • 122 APo. ではしばしば命題の定式化に様相演算子が用いられない.
    • だが論証を様相演算子を使って定式化し直すことはつねに可能である.ゆえに権利上は様相推論理論が学知に当てはまりうる.
      • Barbara や肯定的普遍的直接的論証の優位が論理的ではなく認識論的に言われる点 (I 14, 24-26) からも,APo.APr. に先立って書かれたと結論する必要はない.形式的考察の結論を極力切り詰めて命題の本性に集中しているだけである.

必然的・自体的・普遍的

  • 123 「必然性」の意味を説明するために,まず τὸ κατὰ παντός, καθ᾽ αὑτό, καθόλου が区別される (I 4):
    • κατὰ παντός は (a) 全要素に (b) つねに当てはまること.項ではなく項の結びつきについて言われる (73a28-32).
      • (b) を必然性の時間的解釈 (cf. GC II 11, 337b35-338a2) につなげることはできない: κατὰ παντός と καθ᾽ αὑτό の区別を理解できなくなる.「必然的」と「つねに」は外延は一致しても内包的に異なる (I 6, 75a34).
  • 124 καθ᾽ αὑτό は四種類あり最初の二種類だけが学知に直接関係する (ただし cf. Detel 129-131).
    • 自体的1 (A が自体的1に B に帰属する iff. A が B の本質に属する): 例: 線-三角形,点-線.
      • この例における「本質」は広義のそれ.Cf. II 13 の分割法.
    • 自体的2 (A が自体的1に B に帰属する iff. B が A の本質に属する) の例は τὸ ἴδιον を含むように見える.
      • だがここでも II 13 との関係で読むのがよい.
        • 自体的2な述定の例は全て種差であり,このことは,種差が実質的に自体的2に属することを示唆する.
        • またここで自体的に属するものは ἀντικείμενα と呼ばれる (73b19, 74b9).それゆえ種差はまずもって二項対立的ではないかと思われる (cf. II 13, 96a27-b1).
      • この解釈は,自体的2な述定が AaB ではなく高々 AiB であることを説明する: 中間がなければ一方か他方に必ず属する.
    • したがって,二つの自体性は,類と諸種差からなるものの本質を参照している.
      • 「種差が類に属する」と言えるのは,異なる類には異なる種差が属するから (Cat. 3; Top. VI 6. この点でプラトンから離反する).
    • どちらでもないものは付帯性.例:「動物は教養的である」.
      • 「教養的」は「人間」にしか自体的2に属さない.
  • 125 以上の自体性は必然性と結びつく (I 4, 73b16-24).
    • 自体性2については Cf. Cat. 10. 矛盾以外の対立項も類と相対的に排他的でありうる.
    • 二つの問題点が指摘されてきた: (i) 自体性2の定義は中間項の不在という要件を述べていない,(ii) 主張されている必然性は自体性2と本質の関係とかかわりがない.
      • だが前節の解釈を踏まえれば: 分割によって得られる種差は,(a) 各々類を含意し,(b) かつ類の排他的選択肢を提示する.
      • もとより非二分法的な分割の問題は残る.アリストテレスによるこの問題の解法は後に見る (§380-382).
    • 条件 (b) のもとで,アリストテレスは自体性2の必然性の基礎を RCP に置いている.
      • そして,アリストテレスは明記しないが,自体性1も同様である: 動物が人間に自体的1に属するのは,人間であること自体を否定することなしに動物であることを否定できないからである (「人間」を述語のリストに置き換えるならば直ちに矛盾が現れる).
  • 126 こうした自体性の定義は Kant の分析判断に正確に対応する.Kant はこれを PNC で基礎づける (Prolegomena §2b).
    • ここで問題とされているのは名目的定義ではない.また経験を通して知られることは Kant がここで言う分析性と衝突しない (Kripke は誤読している.Cf. Palmquist 1987).
    • Kant 同様アリストテレスにあっても RCP の論理的必然性が自体性の必然性を基礎づけている.PNC と本質の結びつきは偶然ではない (§278): PNC は〈ある限りのあるもの〉すなわちウーシアーの自体的属性である.
  • 127 自体的ならば必然的なだけでなく,必然的ならば自体的である (I 6, 74b5-12).
    • では,論証に登場する (I 7, 75b1-2) 必然的な「自体的付帯性」はどうなるのか.
      • Δ30 の例: 三角形-2R.
      • 自体性2に含めるのは可能だが §124 の解釈とは両立しない.
      • Detel は「自体的/付帯的」の広狭両義を区別する.実際,前提の自体性は狭義,結論の自体性 (cf. I 22) は広義と取れる.
  • 128 普遍 = κατὰ παντός + καθ᾽ αὑτό (I 4, 73a26-32).これも結びつきの特徴づけだが,これを述定に組み込むような書き方もなされている.DI の分析に基づくなら,4つの水準を区別できる:
    1. πρᾶγμα の次元.人間は普遍,カリアスは個別者.
    2. (a) を普遍的に取るかどうか (「全ての人間が動物である」/「ある人間が動物である」): κατὰ παντός.
    3. (b) に必然性を加えたもの.これが狭義の学知的普遍.
    4. 結びつきの特徴である (c) を述定に組み入れたもの.
        * いずれもあくまでつながりの普遍性.普遍的なものの学知がイデア論を含意しないのはこれゆえである.
      
  • 129 καθ᾽ αὑτό = ᾗ αὐτό (cf. APo. I 5).ᾗ αὐτό であることは κατ᾽ εἶδος (= κατ᾽ οὐσίαν. I 33) であることを含意する (contra Ferejohn (単なる外延的規定説)).
  • 130 したがって,必然性を純粋に外延的な普遍性に還元する Łukasiewicz や Patzig, Hintikka の試みは,単なる κατὰ παντός と必然性とを区別するアリストテレスの思考とは両立しない.

定義と本質

  • 131 APo. II 1 では (a) 事実,(b) 何ゆえに,(c) あるかどうか,(d) 何であるかが区別される.(a) から (b), (c) から (d) に進む.
    • II 2 ではこれらが全て中項についての問いだと論じられる.
      • 命題: (a), 項: (c) …… 中項があるかどうか.
      • 命題: (b), 項: (d) …… 中項が何であるか.
  • 132 類比からして (c) は単に存在 (existence) の問いではない.むしろ何らかの τί ἐστι をもつかどうか (量や質ではなく τί ἐστι のレベルでの述定の主語となりうるかどうか) の問いである.
    • このように理解して初めて,あるかどうかを知らずに τί ἐστι を知り得ない (II 8, 93a20) という主張を理解できる.]
    • 単純に存在が問われているなら,むしろ τί ἐστι が先立つことになるだろう.だが実際に前提されるのは意味表示である.
    • 以上の解釈は「あるかどうか」が ἁπλῶς (↔ ἐπι μέρους) な対象に関わることと矛盾しない.端的に〈ある〉とはウーシアーであること (§25, cf. 90a9-10),つまり ὑποκείμενον であることである (a12).これは実体カテゴリーへの制限を意味しない (例: 三角形 (a13)).
    • 以上の解釈は Phys. の用例とも整合する (II 4, 195b35f.; 5, 196b15; III 4, 202b35-36, 203b15; IV 1 208b7 et passim.).
  • 133 問い (a) (b) は容易に中項への探求に帰着する.だが (c) (d) と論証の関係はより複雑である.II 3-10 ではこの関係が探求される.
    • 3-7 でアポリアが列挙され 8-10 で解決される.
    • 最重要のアポリアは 4 章に見られる: 定義の論証は論点先取的である.
      • AC の〈何であるか〉であることを,中項 B を通じて論証するとき,AB の〈何であるか〉であり,BC の〈何であるか〉であるような AaB, BaC を前提にもつことになるが,このとき2つ目の前提において C の〈何であるか〉が B として既に前提されてしまっている.
      • ゆえに,以下のいずれかである:
        • 一つのものはただ一つの定義をもつか (その場合,論証は論点先取的),
        • 一つのものは多くの定義をもちうるか (その場合,論証とはある定義から別の定義を作ることである).
    • 8 章では後者が選ばれる.ただしその場合,推論は狭義の論証ではなく λογικὸς συλλογισμὸς τοῦ τί ἐστιν である (93b9-15).
      • しばしば DA I 1 の怒りの定義が参照される: 質料的定義と形相的定義を組み合わせると λογικὸς συλλογισμὸς τοῦ τί ἐστιν が出来上がる.
  • 134 ゆえに定義は論証できない.だが論証によって示されうる.
    • 論証 AaB, BaC\vdash AaC において BA の原因である限りで A の定義である (月食-地球の介在,雷鳴-火の消滅).
      • A の εἰ ἔστι を探求するとは AaC の ὅτι を探求することである.ゆえに τί ἐστι と διὰ τί はともに B である.
    • 注意数点.
      • 論証が示すのは,いま雷鳴があるといったことではなく,雷鳴が雲の中でありうるということである.
      • B が小項 C の定義である場合も考えうる (例: 三角形-2R).
        • ただしそうした場合は論証が τί ἐστι の問いに対応しない.アリストテレスの議論は述語の定義にしか成り立たない (だから〈A はあるか〉が〈AC に帰属するか〉に帰着する).
          • これには問題がある:「他のものに述定されない」というウーシアーの定義と衝突する.だがウーシアーはこの上なく定義を容れるものである (Ross, 611-2).
          • この点の解明は Met. に俟つ (§334-338): ウーシアー = 形相は質料の述語として理解できる.
  • 135 この議論の目的は「何であるか」への応答手段を示すことにはないし,定義が論証においていかなる位置を占めるべきかを示すことにもない.
    • 前提 (prémisses) は本質の言明としての定義を前提しているが (supposent),前提が完全な定義であることは必然でない.むしろ典型的には単一の自体的述語を帰属するだけである.
      • この点で分割法が役立つ (II 14; 生物学著作 (Balme, Lennox)).
    • 定義は論証不可能であり,ゆえに原理である.したがって,定義と論証の関係を把握するには,原理論に赴くのがよい.

原理の必然性

  • 136 先行する認識の必要性 (I 1) からして,非論証的学知が必要である (I 3): 論証に関する懐疑論を避けたければ,非論証的な学知が必要である.
    • 必然性にこの条件が付くことで議論の説得力が損なわれることはない (contra Barnes); 分析的アプローチのもとで学知の実現は前提されている (§78-80).
    • 非論証的学知の本性については II 19 で詳述される (§151-152).
  • 137 アリストテレスの原理論 (I 1, 71a11-17; I 2, 72a14-24; I 10) は特に術語上必ずしも整合しない.以下では細部には立ち入らず整合的解釈の提示を試みるに留める.
    • まず 共通原理 = 公理 と固有原理 = 措定 が区別される.
      • 前者には PNC や PEM が入る.これらは前提として出てくるわけではなく (I 11),むしろ全ての思考・言語使用が前提する限りで諸学知に共通 (Γ).
        • PNC は推論の形式的妥当性の基礎となり (§93),かつ命題の「自体的」必然性の基礎となる (§125).
      • 他方,「等しいものから等しいものを引くと等しい」(I 10, 11) という例は数学的諸学に限られる.したがって「共通」は「普遍的」ということではないように思われる.
  • 138 固有原理は定義と基礎措定に分かれる.
    • 基礎措定は矛盾言明 = τὸ εἶναί τι ἢ τὸ μὴ εἶναί τι の一方と言われる.
      • これを存在言明とする一般的解釈にはいくつか問題がある:
        1. 非存在の言明が論証の原理たりえないこと,
        2. 存在言明も前提命題としては使えないこと (cf. I 10, 76b36 contra Detel),
        3. "ὅτι ἔστι" に排中律と三角形を含める議論において (I 1, 71a11-17),"ὅτι ἔστι" を両義的と考えざるをえなくなること.
      • 基礎措定を AaB ないし AeB 形式の述定的命題とみなすなら,問題はなくなる.
        • Cf. I 19, 81b10-15; I 23, 84b28-31.
        • 問題は「単位がある」(I 2, 10)「大きさがある」(I 10)「点や線がある」(I 10) と一見整合しないこと.
          • だが,「端的にある」は「ある τί ἐστι をもつ」と言い換えられる.
  • 139 定義は τί ἐστι を言い「あるかありはしないか」を言わない (72a20-24).
    • これは II 巻の議論からすると奇妙.以下の解決策が考えられる:
      • その1: τί ἐστι が定義項の非定義項への述定ではなく定義項だけを指している.
      • その2 (その1 と両立可能): 名目的定義 (意味表示) だけを指している.
    • 「それについて自体的属性を探求するところのものについては,何であるかとあることの両方を前提しなければならないが,自体的属性については意味表示だけを前提すればよい」という主張 (I 10, 76b3-11) も,そこから理解できる.
      • 厳密には「基礎に置かれる類」(genre sujet) だけが τί ἐστι をもつのであり,自体的属性は,それがこの基礎に置かれるものに述定される限りで「ある」.
      • 「ある」とは,(a) 主語 (sujet) にとっては主語であること,したがって τί ἐστι をもつことであり,(b) 述語にとっては,主語に述定されることである.
        • 学知の枠組みでは (a) は前提されるが (b) は論証されねばならない.
        • しかしいずれの場合も,「ある」は (τί ἐστι の・本質的) 述定に帰着する.
  • 140 以上の解釈がただしければ,固有原理はどれも (本質的ないし名目的) 定義である (cf. II 17, 99a22-23; Met. Z9, 1034a31-32).
    • だからといって,学知の基礎に置かれるものの完全な定義が,当の学知の論証の前提として登場する必要はない; その定義に依拠している自体的命題が用いられていればよい.
    • また基礎に置かれるものが「ある」という基礎措定が,それが或る基礎に置かれるもの (ウーシアー) であるということを意味しているとしても,ウーシアーを対象とする学知しかありえないというわけではない.対象をウーシアーとして (本質的規定を受ける基礎に置かれるものとして) 扱っていればよい (cf. M3).
  • 141 したがって,学知の対象の必然性は,共通原理 (esp. PNC) と固有原理 (最初の定義) の結合に存する.結論の必然性と原理の必然性の区別 (Δ5, 1015b9-11) もこれに基づく.

  1. Malink の最近の論文も似たような話をしていた気がする.要確認.