総称文 Cappelen and Dever (2019) Bad Language, Ch.8

  • Herman Cappelen and Joch Dever (2019) Bad Language, OUP.
    • Chap.8. Generics and Defective Reasoning. 126-143.

8.1 導入: 総称文とは?

2016年のギャラップ調査によれば:

  • 回答者の43%が,アメリカ社会における移民の処遇について,非常に,またはやや満足している.
  • 回答者の45%が,アメリカ社会におけるアラブ人の処遇について,非常に,またはやや満足している.
  • 回答者の51%が,アメリカ社会における黒人の処遇について,非常に,またはやや満足している.
  • 回答者の54%が,アメリカ社会におけるヒスパニックの処遇について,非常に,またはやや満足している.
  • 回答者の63%が,アメリカ社会における女性の処遇について,非常に,またはやや満足している.
  • 回答者の75%が,アメリカ社会におけるアジア人の処遇について,非常に,またはやや満足している.

こうした投票結果は政治的アジェンダの設定に重要な役割を果たす.またこうした結果が示している個々人の態度は,環境への個々人の対応を決定する上で重要な役割を果たす.

だが,この投票結果は,本当のところどういう意味なのだろうか (actually mean).本章の目的は,こうした総称的主張 (generic claims) が特殊な意味を持つとする諸見解を検討することだ.総称文には認知的な悪さ (cognitive badness) があると言われてきた.つまり,総称文によってまずい推論,特にステレオタイプ的推論をしやすくなる.「移民はアメリカ社会において良い処遇を受けている」という主張を考えよう.これが:

  • 全ての移民は良い処遇を受けているという意味なら,自明に偽である.
  • ある移民は良い処遇を受けているという意味なら,自明に真である.

だが,世論調査は自明な主張を問うものだとは思えない.

「移民はアメリカ社会において良い処遇を受けている」という主張のややこしい点は,どれくらい多くの移民が良い処遇を受けているのかを特定しきっていない点にある.「全ての移民」「ある移民」でもなく,単なる「移民」(immigrants) なのだ.これは裸の複数形 (bare plural) の構文である.同様の例としては:

  1. 素数にはちょうど二つの約数がある.
  2. カラスどもが私の木のリンゴを食べている.
  3. 恐竜は絶滅している.
  4. 地震は環太平洋地域には多い.
  5. 哲学者は認識論や形而上学の問いに関心がある.

裸の複数形の意味は複雑である.1. は全称的な主張,2. は存在的主張,3. は個々の恐竜ではなく種に関する主張である.

本章で扱うのは,裸の複数形で総称的な主張が行われる場合である.5. がこれに当たる: 5. は一般化であり,かつ全称的主張と存在的主張の中間にある.

8.2 総称文のふるまいをさらに掘り下げる

総称文の一般化の本性については議論がある.だが,以下のことは言える:

  1. 総称的主張は,全称的主張と違い,例外を許容する.
    • 正確に言ってどう許容されるのかは問題である: 「飛ばない鳥がいるにも関わらず「鳥は飛ぶ」が真であるかどうか」という問いは,「飛ばない鳥の存在が会話の中で目立ってきた場合に,「鳥は飛ぶ」と主張するのが適切か」とは区別できる.
  2. しかし,総称的主張は,ある意味では全称的主張より強い.最高裁判事が全員素数社会保障番号を持っていたとしても,「最高裁判事社会保障番号素数である」は真だとは思われない.この総称的主張は,素であることを本質的特徴として扱っている.つまり,ある種の総称的主張には,様相的要素が入っている.
  3. 多くの総称文は「ほとんどの」(most) という主張に取れるが,そうでないものもある.アヒルは卵を産む.しかし卵を産むのはメスだけであり,メスは半数しかいない.「特性を示す」特徴を帰属する総称的主張は,「偶然的」特徴を帰属するものより受け入れ基準が低い.例えば「カナダ人は右利きだ」は偽である.
  4. 特に「目につく」または「危険な」属性は,他の総称的主張より低い基準で受け入れられているように思われる.例:「シカダニはライム病を媒介する」(実際には原因となるボレリア菌を持つものは1%程度).

総称文には重要な曖昧さ (vagueness) および不特定性 (underspecification) がある.その理由は色々な理解の仕方がある:

  • これらは不特定な意味の量化子で量化された主張である.「鳥が飛ぶ」は「一般に,鳥は飛ぶ」などであり,「一般に」は不特定的である.
    • これらの意味 (閾値) は文脈によるか,量化される対象ないしは属性によるか,あるいは意味に不備があってそもそも正確な意味を取り出しようがないか,などが考えうる.
  • 総称文は個体ではなく種への指示を伴う.

世論調査に総称的主張が登場するのは,まさにこうした不特定性ゆえである.社会はあまりに巨大かつ複雑なので,何が起きているのかについて私たちは典型的には十分な情報を得ていない.私たちができるのは,せいぜい曖昧な一般的印象を語り,それに基づいて政策選好を形成することにすぎない場合がしばしばである.そしてこれは私たちの認識的欠点についての一般的事実の一実例にすぎない.交差点は一般に危険だと知っておき用心するほうが,個々の交差点がどの程度危険なのかを決定しそれに基づいて計画を立てるより効率的なのだ.

8.3 興味深い実験いくつか

総称的主張は推論に重要かつ興味深い影響を及ぼす.大まかに言えば,人々は総称文を比較的弱い証拠に基づいて受け入れ,そこからより強い結論を推論する傾向にある.Cimpian, Brandone, and Gelman (2010) は以下のような実験を行った: モルセス (morseth) という架空の動物について,10%, 30%, 50%, 70%, 90% の個体が銀色の毛を持っていると (おのおの別の) 被験者たちに伝えられる.その上で「モルセスは銀色の毛を持つ」という総称的主張に同意するか否かが問われる.実験から明らかになったのは,平均して 69% のモルセスが銀色の毛を持つことが総称文を真にする条件だということだ (詳しく言えばもう少し込み入っている).

一方で,「モルセスは銀色の毛を持つ」という総称的主張からパーセンテージを推測してもらうと,被験者は平均して 96% が銀色の毛を持っていると予期した.つまり,総称文を成立させる (establish) のに必要な割合よりはるかに高い割合が予期された (predicted).この結果は,総称文が認知的な誤りのもとであることを示唆する.総称文を通じた推論によって信念の中で誤って割合を押し上げてしまうことがありうるからだ.

もちろん,70% といった根拠が頭の中にあれば,誤謬推論は犯さないだろう.しかし,あるサンプルから得られたただの一般的印象を総称文として蓄積し,後にそのサンプルが正当化するのより大きな割合を取り出してしまうことはありうる.社会のなかで総称文がやり取りされる場合はなお悪い.

推論における総称文の重要性と,上記の錯誤の存在から,社会的バイアスの持続に総称文が大きく寄与しているのではと疑われてきた.顕著な例は「アラブ人はテロリストだ」のような総称文である.

反対に,正当化できないほどに肯定的な信念を導く場合もあろう.親切で気前のよい人々をある程度目にし,総称文で一般化し,そこから非常に高い割合がそうだと予期するに至る,というように.そうすると,実際には数多くいる不親切で利己的な人々に搾取されることもありうる.

だが,Cimpian, Brandone, and Gelman の別の実験 (モルセスの銀色の毛から有害な粒子が出るという設定) は,危険な属性の場合に総称文の許容の閾値が減り,総称文から期待される値は変わらないことも示している.つまり,目立つ・危険な属性は,特に認知的錯誤を生みがちである.したがって,正当化できないほどに否定的な信念に導かれる傾向のほうが強いと言える.

関連する錯誤として,Haslanger 2010a は様相的な認知的錯誤を挙げる.先に見た通り,総称文は様相的要素を含む (場合もある).個体が増える反事実的条件下で総称文が妥当するかを考えればよい (「アヒルは卵を産む」vs.「アヒルはメスだ」).

ここからハスランガーは,私たちは単なる統計的情報をもとに総称文を受け入れ,総称文から反事実的メカニズムの存在を結論することがある,と示唆する.例えば女性は男性より数学試験の点数が有意に低いが,背後に反事実的状況を支持するメカニズムがあるわけではないと考えるべき理由もある.

Rhodes, Leslie, and Tworek 2012 の実験は,ハスランガーの懸念を裏付けているように見える.この実験は,幼児に Zapies という架空の人々についての本を読ませ,それから「ザーピーは花を食べる」といった総称的主張か,または「このザーピーは花を食べる」といった特称的主張を行った.そして,新たなザーピーが当の特徴を持つかを聞くことで,特徴を本質化する結論 (essentializing conclusions) を持つかをテストした.結果は,総称文を用いたほうが高度な本質化を行いやすい,というものだった.

しかしここから,総称文と,特徴を本質化する結論との間に特別なつながりがあると結論することはできない.法則性に関する他の主張もしばしば,疑わしい様相的結論に導く.実際,Hoicka, Saul, and Sterken (no date) の追加の実験は,「多くのザーピーは花を食べる」「ほとんどのザーピーは花を食べる」が総称文と同じくらい特徴を本質化する結論を生み出すことを明らかにしている.

加えて,全ての総称的主張が本質化するつながりを持つわけではない.例えば:

    1. サーカスには綱渡り芸人がいる (Circuses have tightrope walkers).
    1. 大統領選挙には愉快なスキャンダルが出てくる (Presidential campaigns have entertaining scandals).
    1. イタリア料理店はピザを出す (Italian restaurants serve pizza).

すると,様相的証拠があるときだけ,私たちは総称的主張から様相的結論を読み取るのかもしれない.

8.4 総称文: 意味と認識論的特徴の相互作用

いずれにせよ,総称文が問題含みの推論パターンに関与しており,社会的に望ましくない結果へと導きうる,というところまでは言える.では,総称文の意味と,認識論的特徴とはどうつながっているのだろうか.総称文の意味について支配的な見解というものはなく,選択肢はどれも込み入っているので,以下ではそのいくつかの粗描に留める.

  1. 総称文の意味は,それらが認可する (license) 推論から直接与えられるかもしれない.
    • Cf.「かつ」「または」は各々の導入則・除去則を認可する.推論主義説によれば,「かつ」や「または」の意味を知っているとは,それらの規則を知っていることに他ならない.
    • すると一方で,推論規則のまずい組み合わせによって,不備のある (defective) 意味を与えることもできる.
      • 例: Prior (1960) の tonk.導入則: X を知っているなら,X tonk Y を結論できる.除去則: X tonk Y を知っているなら,Y を結論できる.
    • 総称文は 'tonk' ほど悪くはないにせよ,やはり導入則と除去則が合っていないのかもしれない.総称文は次のような規則に支配されているのかもしれない:
      • 導入則: 鳥の 70% が F なら,鳥は F である.除去則: 鳥が F なら,鳥の 90% は F である.
      • そうだとすると,これは私たちの過ちではなく,言語の問題である.私たちがすべきなのは,総称文の使用を避けるか,あるいは総称文を用いた推論において非常に注意深くなることだということになる.
  2. 総称文の意味は総称量化子 (generic quantifier) を用いて与えうるかもしれない.総称文に関するデータに鑑みれば,総称量化子は曖昧・不特定・文脈感受的 (の組み合わせ) であるはずだ.私たちは曖昧な,あるいは文脈感受的な言語で推論するのが上手ではない.そして私たちは総称文においても同様の問題を抱えているのかもしれない.この場合,言語が複雑すぎて,私たちの手に負えない,ということになる.つまり悪いのは言語と私たちの両方である.
  3. だが,もっぱら私たちが悪いのかもしれない.総称文についての比較的素直な意味の理論があり,私たちが割合を水増しすることに関して (意味論的な) 言い訳が立たないとすればどうだろうか.
    • 第一の仮説として: 「Ks が F である」「K1s は K2s より G である」という形式の総称文は,通常 Ks それ自体についての重要な事実によって成り立つという含意がある (Haslanger 2010a).
    • この場合,「トラには縞模様がある」は,縞模様があることがトラの本性に含まれるためにトラに縞模様があるのだということを推意する.一方で,「女性は従属的だ」のような場合,推意は問題含みなものになる.
    • では,なぜそのような推意が生まれるのだろうか.単に規則性を意味するために「トラには縞模様がある」と言うと,どのグライス的格率に違反するのだろうか.
      • 質の格率違反.トラに縞模様があると言うには,全てのトラを調べるか (しかしこれはありそうにない),あるいは縞模様を生み出すメカニズムを知っているかする必要がある.だから,自分がトラに縞模様があると知っているものだと見せることで,トラの本性についても知っているものと見せることになる.
        • だが,話し手の知識はランダムサンプリングに基づくものかもしれない.
      • 関連性の格率違反.多くの状況下で単なる統計的情報は関連性がない.例えば,未確認のトラを聞き手が見つける手助けをしようとする場合を考えよ.だが,縞模様があることがトラの本性に含まれているという情報は関連性があるかもしれない.
        • だが,仮定より,総称文は例外を許容する.そうだとすると,自然本性への言及が有益であると考える理由にはならない.
    • また,推意に基づくどちらの議論も,総称文が特に悪い理由は教えてくれない.
  4. 総称文に伴うのは言語的・コミュニケーション的不備ではなく,単に認識論的不備にすぎない,という説もある.「モルセスには銀色の毛がある」と言うには高い閾値を超えねばならないのだが,私たちはこの結論に,根本的に不十分な証拠から達してしまうのかもしれない.この説が尤もらしくなるには,私たちがこうした統計的推論の錯誤を犯しているといえる必要がある.

8.5 要約

〔省略.〕