SEP「真矛盾主義」 Priest, Berto, and Weber (2018) "Dialetheism"

  • Graham Priest, Francesco Berto, and Zach Weber (2018) "Dialetheism" The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Fall 2018 Edition), Edward N. Zalta (ed.).

真矛盾 (dialetheia) とは,文 A\lnot A がともに真であるような A のことだ.こうした文は真理値過多 (glut) (↔ 真理値ギャップ) である/を持つ.(真理値の担い手を本稿では文とするが,命題・言明 etc. なんでもよい.)

真矛盾主義 (Dialetheism) とは,真矛盾が存在するという見解である.ゆえに真矛盾主義は無矛盾律 (Law of Non-Contradiction, LNC) に対立・矛盾する.LNC の定式化には議論がある.強い (様相的) 定式は: 任意の A について,A と lnot A の両方が真であることは不可能である.Met. Γ 以来 LNC は (暗黙の) 前提となってきた.それゆえ真矛盾主義は,何を疑いうるかに関する規則を疑うものと言える.

矛盾許容論理の始まり以来,真矛盾主義は哲学的論理学の一見解として発展してきた.本稿では,(1) 真矛盾主義と関連する諸概念とのつながりを説明し,(2) 真矛盾主義の歴史をたどり,(3) 現代の真矛盾主義の同期を説明し,(4) いくつかの異論を検討し,(5) 合理性概念とのつながりを論じる.最後に,(6) 真矛盾主義・実在論反実在論の関係に関するさらなる研究のテーマとしてありうるものを指摘する.

1. 基本諸概念

Dialetheism は Priest と Routley の造語で,ウィトゲンシュタイン『数学の基礎』の一節から着想を得たものである.

哲学では矛盾 (inconsistent) と不整合 (incoherent) を区別しない傾向にあるが,真矛盾主義は両者を区別する.まず真矛盾主義は,全ての文が真であるとする (どう見ても不整合な) 瑣末主義と区別されるべきである.

いかにして不整合に陥らずに矛盾を認めるかは真矛盾主義の主要な主題である.標準的解決の一つは矛盾許容論理を採用する (爆発律を認めない) ことだ.一方で,矛盾許容論理を採用するからといって,真矛盾主義を採らねばならないわけではない.矛盾の許容には最低四段階ある (Beall and Restall 2006):

  1. 穏健な (gentle-strength) 矛盾許容性: 単なる爆発律の拒否.
  2. 強力な (full-strength) 矛盾許容性: 矛盾許容的だが些末でない重要な理論があるとする.
  3. 超強力な (industrial-strength) 矛盾許容性: 何らかの矛盾許容的な理論が真でありうる.
  4. 真矛盾的な矛盾許容性: ある矛盾許容的な理論が真である.

大抵の矛盾許容論理の研究者は穏健なレベルで動いている.上三者は真矛盾主義と独立である (とはいえ 1 から 4 への「滑り坂」があるかもしれない: Priest 2000).真矛盾主義の間でも「真」の意味について争いがある.

LNC と真矛盾主義が衝突するという主張には限定が必要である.例えば矛盾許容論理 LPに基づく真矛盾主義は LNC を認める.Priest の真矛盾主義は図式 \lnot(A\land\lnotA) の全実例を真として認めるが,同時にそれと矛盾する文も認める.

2. 哲学史における真矛盾主義

2.1 西洋哲学における真矛盾主義

アリストテレスヘラクレイトスプロタゴラスなどを真矛盾主義の支持者として批判している.Γ7 では LNC の双対である LEM にも言及される.

LNC はアリストテレス以来正統的だが,ペトルス・ダミアニやクザーヌスは真矛盾主義的な議論をしている.

KrV は純粋概念の不法な使用によってアンチノミーが生じると論じ,一種の帰謬法と見えるものを構成する.ヘーゲルはこれに対して,カントは矛盾の必然性を擁護したと論じる.真矛盾主義的な解釈によれば,カントのアンチノミーは帰謬法ではなく,世界の真矛盾的本性を導くものなのだ.

2.2 東アジア哲学における真矛盾主義

非西洋哲学においてはより明白な真矛盾主義的思考と思われる事例を見て取れる (四句分別,老子,莊子).

2.3 歴史解釈について

哲学文献の解釈はセンシティヴな問題である.言い表せない真理を示す隠喩表現の可能性もあるし,両義的である可能性もある.後者の場合はパラメータ化 (parametrisation) によって両義性を解除できる.しかし,かりにパラメータ化がつねに可能だとしても,そうした解釈が正しいかどうかは議論が必要である.

2.4 現代の真矛盾主義

現代の真矛盾主義は20世紀後半に出てきた.Asenjo (1954) "A Calculus of Antinomies" は glut ('antinomy') を想定する.Asenjo は後にピッツバーグで Belnap, Anderson, Dunn, Meyer と接触した.1970年代なかばに Routley-Meyer が「弁証法的」立場を発展させ,Priest (1979) "The Logic of Paradox" は真矛盾主義の現代最も有名な擁護論を提示した.

3. 真矛盾主義の動機

3.1 自己参照のパラドクス

真矛盾主義の最重要の議論は自己参照の論理的パラドクスに訴える.パラドクスには二種類ある: 真理,表示,定義可能性などに訴える意味論的パラドクス (e.g., 嘘つきのパラドクス) と,メンバーシップ,濃度などに訴える集合論的パラドクス (e.g., ラッセルのパラドクス).

3.2 単純なケーススタディ: 嘘つき

標準的ヴァージョンにおいて,嘘つきのパラドクスは次の文についての推論に現れる:

  • (1): (1) は偽である.

二値原理を受け入れると,(1) は真矛盾となる.必ずしも直接の自己参照は必要ではない:

  • (2a): (2b) は真である.
  • (2b): (2a) は偽である.

この手の議論の妥当性は単なる見かけに過ぎない,と論じられてきた.しかし実際には解決が難しい.

ラディカルな解決の一つは真理値ギャップを認めるものだが,その場合でも以下の文 (strengthened Liars) が LNC を破る.

  • (3): (3) は真ではない.
  • (4): (4) は偽であるか,真でも偽でもない.

Priest (1987) によれば,この現象の本質は,文を真なるものとその「真正の補完物」(bona fide complement) の二つの部分集合とに分けた上で,前者の文を校舎に振り分けるようなねじれた構成を作ることにある.二値的枠組みのもとでの嘘つき文は特殊例にすぎない.

意味論的パラドクスの解法について一般に合意はない.典型的な解法の一つはタルスキ的 T-文 に制限をかけて対象言語とメタ言語を区別することだ.タルスキは自然言語における意味論的パラドクスの原因を意味論的閉包 (T-図式を満たすこと) だと考える.タルスキの結論は意味論的に完全な言語に無矛盾な形式化はないというものだ.一方で真矛盾主義者は,むしろ,適切な形式化は矛盾していると考える.このように,Strengthen liers に対応できる点や言語の階層なしで済ませられる点は真矛盾主義の強みである.

Beall (2009) の理論は透明な真理述語を許す: (透明な文脈下で) salva veritate に A と Tr("A") を置き換えられる.無制約の T-図式はそこから従う.任意の真矛盾の文 A につき Tr("A")∧Tr("¬A") であり Tr("A")∧¬Tr("A").Beall の理論は (適切な) 矛盾許容論理に基づいている.

3.3 自己参照のその他のパラドクス

また真矛盾主義は無制約な包括原理から生じるパラドクスを処置できる.特にラッセル集合が許容される.Priest は,集合論的パラドクスと意味論的パラドクスが同一の種類のものだから,統一的な解法が必要である,と論じる.

カリーのパラドクスの扱いについては論争がある: カリー文「もしこの文が正しければ,⊥」(ただし ⊥ =「全てが真である」) については,真矛盾主義は単に「真かつ偽」と言うことはできない.解法の一つは縮約規則を認めないことである.しかし,それだけでは十分でない場合があり,様々な部分構造論理が模索される.カリーのパラドクスはこのように真矛盾主義の「統一的解法」にプレッシャーを与えている.

3.4 真矛盾主義のその他の動機

他にも具体的対象と経験的世界に影響を与える矛盾がありうる.

  1. 移行状態.部屋を出ていく途中の特定の時点 t において,私は部屋の中にいるか外にいるか.(a) 中,(b) 外,(c) 両方,(d) どちらでもない.(a) と (b) のどちらかを選ぶのは完全に任意なので,対称性から除外される.(c) (d) はともに真矛盾的状況である.
  2. ゼノンのパラドクス.運動を単なる異なる時間に異なる場所を占めることだとみなすのが通常の解決 (Russell (1903)).しかしこれは運動のもつ内在的状態という性質を無視していると論じうるかもしれない.代替案としてヘーゲル的な真矛盾主義的解決がありうる.
  3. 曖昧な述語の境界事例.砂山パラドクスは supervaluation/under-determinacy による解決が一般的だが,sub-valuational な解決も可能である.
  4. 複数基準述語.例えば P を「左派的」という述語だとすると,対象 m (例: 政党) に P を適用しうるかどうかにつき,ある基準によれば (e.g., 社会福祉に関心がある,最小賃金を上げる) 適用でき,別の基準によれば (e.g., ナショナリズムを推進する,移民を排斥する) そうでない,ということがありうる.これは曖昧さ (vagueness) の例としては分析しがたい (Priest 1987).
  5. 或る種の法的状況.法体系は矛盾しえ,それゆえ真矛盾の例でありうる.

4. 真矛盾主義への異論

哲学史上有名なのは Γ4 の議論だが,ここでは現代の異論を紹介する.

4.1 爆発からの議論

真矛盾主義+爆発律からは瑣末主義が帰結する.瑣末主義は不合理なので,真矛盾主義が斥けられる.――ただしこれは矛盾許容主義者には効力がない.

なおアリストテレスの議論は真矛盾主義と瑣末主義の間をしばしばスライドしているが,アリストテレスの論理体系は爆発的でない (APr. 64a15).爆発律は基本的にはフレーゲ以降に確立した規則である.

4.2 除外からの議論

真矛盾主義者はより多くの真理を受け入れる (let in) が,それによって十分な虚偽を除外する (keep out) ことに失敗する,といった議論がある.

その一つは McTaggart (1922) に見られる: 有意味な文は何かを除外する.一方,LNC を認めなければ,A が ¬A を排除できず,a fortiori にそれ以外も排除できない.それゆえ,有意味な言語は LNC を前提する.――だが,真矛盾は否定を除外しないにしても,その他多くのことを除外する.また大前提が偽である:「全てが真である」は有意味である.

除外をより洗練された形で (情報理論や可能世界から) 定義するやり方もある.――しかしこの場合も,フェルマーの最終定理は何も除外しない (必然的に真なので).

また真矛盾主義者は不同意を表現できないという ad hominem なヴァージョンもある.真矛盾主義の言う "¬A" は A の成立を除外しない.ゆえにひとが "A" と言い,それに対して真矛盾主義者が "¬A" と答えても,これが不同意にならない.――これにはいくつかの応答が可能である:

  1. 論理的操作としての否定と言語行為としての否認 (denial) は同じではない.排除は拒否 (rejection) すなわち積極的に A の信念を拒むことというプリミティヴな概念によって表せる.拒否は否定に還元できない sui generis な行為である.そして拒否の言語的な片割れが否認であり,真矛盾主義者は否認によって A が真であることを排除できる.
  2. また排除を 'A → ⊥' として表現するという道もある.ただし問題もある: 一つは前述のカリーのパラドクスであり,もう一つはこれが強すぎるということだ.「アリスは夕食にスパゲティを食べた」は偽だとしても不条理ではないだろう.

排除問題は背景的前提から説得力を得ている.特に命題内容が可能な全状況の切り出しとして与えられるということを前提しているように見える.だが真矛盾主義はこれを認めてもよい.A が成り立つ世界と ¬A が成り立つ世界が重なっているといえばよいだけだからだ.

4.3 否定からの議論

次のような議論もある:「¬A が真 iff. A は真でない」というのが否定の真理条件.ゆえに,A と ¬A がともに真なら,A は真かつ真でない.しかしこれは不可能.

だが,否定の真理条件には代案がありうる: ¬A が真 iff. A は偽,¬A が偽 iff. A は真.

また「A は真かつ真でない」を認めないのは論点先取.

これとは別に,クワイン的な論理的語彙観に基づく否定からの議論がある: 演算子 ・ が真矛盾主義的に振る舞うとしても,古典的な否定の諸性質を備えた否定を定義することは依然可能である.である以上,全ての非古典的な否定を「でない」と翻訳するのはミスリーディングである.

だがこの議論は論理的理論と理論の対象とを混同している.もちろんいろんな理論があり,各々の理論的対象を特徴づける限りでそれらに対抗関係 (rivalry) はない.対抗関係が生じるのは,口語における否定の意味と機能をどれがよく捉えているのかを問題にするときである.古典的な説明がよいと予め前提するのは論点先取である.

各々の立場が否定の特定の説明を前提できないとすると,4.2 の排除問題に別のより単純な真矛盾主義的応答が可能になる: 真矛盾主義者は ¬Tr("A") という主張を表現できる.できないのは,その語が無矛盾に振る舞うと保証することだけである: A と ¬Tr("A") は共に成り立ちうる.しかるに,これが無矛盾に振る舞うかどうかはまさに論点であった.特に真矛盾主義者だけが困難に面していると言えるのはなぜかを真矛盾主義者は問いうる.

この種の異論を言う最後のやり方は,true-only な文を true-and-false な文からどう選り分けるのか,と言うことだ.これに対する真矛盾主義者の答えは,非真矛盾主義者と同じやり方でだ,というものだ.

5. 真矛盾主義と合理性

語用論と合理性に関係して生じる真矛盾主義への異論に移る.

5.1 無矛盾性とその他の認識的な美徳

むしろ LNC の受容が合理性の前提条件なのではないかという異論がありうる.しかし,「信念を証拠に釣り合わせる」というヒュームの基準に従えば,矛盾に関して十分な論拠が与えられれば,それを信じるのは合理的となろう.そして嘘つき文はそうした例である.

より説得力があるのは,矛盾を正当に受け入れうるなら,見解を放棄する (abandon) ことが強いられなくなる,というものだ.――だが,全ての矛盾が同等なわけではない.嘘つき文と,ブリスベンがオーストラリアにありかつないという文は違う.

正統派の科学哲学は,理論や見解の合理的な受け入れ基準は様々であることを示している.真矛盾主義は,無矛盾性という美徳を持たない理論が,それでも他の理論に優越しうることを主張する.

5.2 真矛盾の受け入れと主張

Priest (2006) は以下の合理性原則を採用する:

  • (RP) もし A が真だというよい証拠があるなら,A を受け入れなければならない.

信念・受け入れ・主張には眼目 (point) がある: 私たちは真実を信じ主張することをねらいとする.ゆえに,A が真矛盾だという証拠があるなら,真矛盾主義者は A と ¬A の両方を信じ主張する.これは A を受け入れかつ拒否することとは異なる (Berto (2008), contra Frege and Geach).

一方で,こうした議論には異論もある.Restall (2015) によれば,gap 理論家はパラドクスについて真なる主張ができなくなるが,glut 理論家は偽なる主張を拒否できなくなる.また否認を否定の主張と切り離すと,カリーのパラドクスに関連する問題が出てくる.Ripley (2015a) は,真矛盾主義者は (1) 同意と不同意が両立不可能なことを認めた上で,(2) しかし同じものを主張し拒否すべきだと論じる.

6. さらなる研究主題

〔省略: 実在論/反実在論論争と真矛盾主義との関係.〕

7. 結論

〔省略.〕