本質と思考可能性との関係, 本質の理論的眼目,このもの性の拒否,本質的必然性の位置付け Wiggins (2001) SSR, 4.4-4.8

  • David Wiggins (2001) Sameness and Substance Renewed, Cambridge University Press.
    • Chap.4. Individuative essentialism. §4-8 (pp.118-127).

4. 思考可能性・理論・本質

  • 以上の穏健な本質主義から特定の個物について何かが言えるかを見る前に,本質概念そのものに対する疑念について注意する必要がある.
    • まず,(外延性が支配する) 集合論の領域における次の主張を検討する:「集合 α に含まれる要素 x は,α に必然的に含まれる」.
    • これは「属性と異なり,クラスはメンバーだけから同定される」(Quine, Suppes) という,外延性の支持者による説明にひそむ考えを表現するものである.この基準によれば,α が要素 x を欠きうるとき,α はクラスではない.
    • この考えを動機づけるのは,特定の属性であることと現実の外延の間には構成的なつながりがないのに対し,集合の同一性とメンバーシップの間にはそうしたつながりがある,という考えである.ここでは,「α は x を欠くことができない」という de re 様相的な考えが必要である.属性を排除する仕方で外延性が支配する領域を画定するためには,一旦その外に出て,より豊かな表現的資源をもつ言語のもとで語る必要があるのだ.
    • 2節の (Δ) (本質主義と思考可能性の関係) に基づいて言うと: 集合 {エッフェル塔, 水晶宮} が本質的に集合であり,本質的にこのメンバーの集合なのは,そうでないものとして当の集合を捉えること (envisaging) がありえないからだ.
      • もちろん異なる記述は可能だが,そういう話ではない.問題は当の集合エッフェル塔を欠いていると捉えうるかである.同様に,集合を捉える人が最初に不明瞭にしか同定できていないとしても,反例にはならない.

5. 思考可能性のつづき

  • (Δ) (E) (Z) と上記の個別化の見方を手短に要約すると:
    • x が φ を持ちうる iff. x が φ を持つと考えることが真に可能である.
    • x が φ を持つと考えることが真に可能であるならば,次のような種概念 f がある: (i) f はアリストテレス的な「x は何であるか」の問いに適切に答えており,物を f の実例として取り出す人は,x の持続的同一性の条件に与する.(ii) f と φ は x によって同時に充足可能である.すなわち,x が属性 φ を持つことは,x が f のその実例であることを排除しない.(これを「アンカー制約」(anchor constraint) と呼ぶ.)
      • この規定は,x が φ を持ちうるかどうかを,明晰で異論の余地のない事柄にするものではない.だが,それはそもそも必ずしも簡単な問題ではないし,それを簡単にするのは哲学の仕事ではない.
  • 以上の解明の眼目は de re な可能性の分析・還元にはない (様相概念と思考者を登場させている).むしろ de re な可能性の必要条件を厳格に定めている点にある: 個体を主語に取る de re な必然性がありうる仕方を例証し,それを個別化の実践と整合するものとして捉える.
  • 例: カエサルは現実とは別の経歴を辿りえた.また異なる両親から生まれえたかもしれない.では,いかなる制約があるのか.個別化の「この何々」(this such) 的な捉え方と前節の範例に鑑みれば,カエサルがそれでないと考えるのが最も難しいのは「人間」だと思われる.前節の集合概念と似た役割を果たすように思われるからである.
    • ただし,「動物」でもいいのでは,という疑いはありうる.

6. 個体化的本質主義とその帰結

  • 全ての自然物 x が,実在するあいだ中,ある種概念を充足し,その種概念は x を取り出す思考者が (反事実的状況を含め) 不変的なものとして扱う必要があると仮定しよう (cf. D (ii)).かつ,メンバーの同一性と持続のアポステリオリな基準を導く自然種であるとも仮定しよう.
    • そのときこの種概念は,(1) その担い手を実在の他の部分から分節する最小限の説明規定を表すという,アリストテレスライプニッツが最下種に与えた役割をもつのみならず,(2) ここからアポステリオリな諸帰結も導かれる:
    • 「人間」のような種述語の意味がある一般的組成への指示によって固定されているとしよう.そして G がある抽象的性質 (e.g., 特定の遺伝子プールに関わる) を指す述語であり,かつこの一般的組成にとって定義的であるか,この組成を規定するものだとしよう.このとき,人間であるものは必然的に,「人間であるなら G」(if-human-then-G) である.(この条件文が自然法則に依存することは必然性に対する反論にならない.「人間」の直示的解明自体が同じものに依存するからだ.) 加えて,人間であるものが必然的に人間であるなら,端的に「人間であるものは必然的にG」だと言える.
  • 以上の議論が正しければ,本質には哲学的機能があり,「本質は何も説明しない」という批難は当たらない: (1) 本質的属性となる述語には,あるものがそれを充足することが,当のものが実在の残りの部分から分節されること自体の必要条件をなすものがある.(2) また上記の G のような述語は,当の自然種に関する基礎理論が与えるアポステリオリな科学的説明に対応しており,その理論を原理的にさえ把握できない場合,当の種を示すことは不可能になる.

7. 「このもの性」という語が美しくないのと同様に,その観念も出来損ないであること

  • カエサルと必然的に同一である」のような,指示によって特定される,論理的に特殊化された本質的属性を除けば,de re な本質は原理的に共有可能であると考えねばならない.同一性による以外の仕方で規定される本質が諸個体に特有であるという規定 (「このもの性」という考え) は混乱の産物である.「この f」という表現によって,現実の存在者に係留するのに必要な特殊性は全て得られる.「これ」と「このような」は相互に還元不可能であり,述定と指示は二つの異なる機能である (cf. Strawson, Russell).指示によらずに定義されるこのもの性を認める理由はない.

8. 本質主義的な「ねばならない」と「ありうる」

  • (De re な)「ねばならない」(must) と「ありうる」(can) にはいろんな意味があるが,本質的必然性はそうした de re な諸必然性の限界事例である.その担い手の存在そのものが当の特徴に条件付けられているからである.本質的属性がその担い手に固定されるのは,当の属性が当の担い手のの個別化に内在的だからである.こうした de re な「ねばならない」は形而上学的・概念的必然性の範疇にある.ただし分析的・論理的必然性だとは言えない.