Γ4 における σημαίνειν の主体のカテゴリーの任意性 Whitaker (1996) Appx. I

  • C. W. A. Whitaker (1996) Aristotle's De Interpretatione: Contradiction and Dialectic. Oxford University Press.
    • Appendix I. The Principle of Contradiction in Metaphysics Γ. 183-203.

これは De Int. 側からの Γ3-4 読解.Charles (2000) とは対照的.


1. 第一原理 (Meta. Γ3)

Γ3 では PNC が最も基礎的であることを支持する論証,Γ4 では PNC 自体を支持する論証が行なわれる.

Γ3 ではヘラクレイトスが矛盾する思考がありうると主張したと述べられている.これに対してアリストテレスは,同じものがありかつありはしないと考えることはできないと論じる.(ヘラクレイトスが無矛盾律を拒否したという別解釈があるが,これは尤もらしくない.アリストテレスは無矛盾律を信じえないことは論証していない1.)

矛盾の思考しえなさは思考を属性と見なす見方に基づいて論証される.この見方は De An. の受動知性論とも平仄が合う.そして矛盾する信念が反対である点は De An. 23b7-32 で論じられていた.

そしてこうした違反不可能性から原理の基礎性が示される.PNC を信じない人は信じないことの根拠を欠いているのだ.

Γ4 は PNC 自体の妥当性を示して Γ3 の議論を支持する.

2. 論駁的論証 (Meta. Γ4)

PNC は基礎的なので論証できない.そこでアリストテレスは否定的論証ないし論駁を行う.ウカシェヴィチはこれを批判するが,否定的論証は肯定的論証と重要な点で異なる.論証はより先でより信頼できる原理から始まるが,論駁は別の始点をもつ.今回の場合,論敵の発話がそれである.論駁は PNC の理由や理解を提供しない.むしろ,論敵がその立場を取れない理由を与え,論敵が誤っている理由の理解を与えるのだ.この仕方で PNC は確立される.こう見れば始点が論敵である点の重要性も明らかである.

アリストテレスによれば論敵の立場は不整合である.論敵は矛盾を信じることができ,矛盾する世界で合理的活動が可能だと考えている (1005b25f.).実際はそうではない.

アリストテレスは論敵をジレンマに追い込む.黙っていれば合理的討論の棄権とされ,何か有意味なことを言えば論駁が始まる.これ以下だと合理性の放棄,これ以上だと同意する必要のない前提の押し付けになる.言明を発話するとは想定されない (論点先取になるから (1006a20f.)).この始点から複数の論証がなされる.論敵は一つの有意味な語を発話する.De Int. 16a19ff. から知られるように,これは有意味な談話の最小単位である.

論敵は「自分ともう一方とに」有意味なことを発話しないといけない.それゆえ彼は彼の発話が有意味なことに気づいている.語が何も意味していなければ,他人と議論するどころか,自分自身との対話すなわち思考さえできない (cf. De Int. 16b20f.).アリストテレスはそこで,「今や何か確定された事柄がある」(1006a24f.) と述べる.全ての意味表示は確定的であるという重要な説がここで導入される.このことは数行後に思考と談話の可能性から導かれる (a34-b11).こうして論敵の立場がこの説を含意することになる.

3. 意味表示の確定性

"πρῶτον μὲν οὖν δῆλον ὡς τοῦτό γ᾽ αὐτὸ ἀληθές, ὅτι σημαίνει τὸ ὄνομα τὸ εἶναι ἢ μὴ εἶναι τοδί, ὥστ᾽ οὐκ ἂν πᾶν οὕτως καὶ οὐχ οὕτως ἔχοι" (a28-31). まず問題はこの 'ὄνομα' が名辞か語一般かだが,前者だとする (スコープを狭める) 必要はない.動詞も意味表示する (話し手と聞き手の注意に名辞と同様の効果をもたらす).意味表示しない語 (冠詞など) だけから合理的談話を構成することはできない.

'τὸ εἶναι ἢ μὴ εἶναι τοδί'.「この特定のもの」(τοδί) は語が表す対象を示す.語は〈これ〉の記号である (16a16)2.任意のカテゴリーのものが〈これ〉でありえ (EN 1151a35; Met. A 981a8),動詞の指示対象も ὄντα でありうる (Δ7).意味表示は主張とは異なるので ὅτι ἔστιν ではなく τὸ εἷναι と言われている.

一方ここでは語が「何かでありはしないこと」も意味表示すると述べられている.どういうことか.「人間」が人間以外の無数のものでないことを意味表示するということではなさそうだ.むしろ,'οὐκ ἄνθρωπος', 'οὐχ ὑγιαίνει' のような表現 (16a29-32, b11-15) が念頭に置かれている.これらの非限定名辞・動詞も単純言明に登場する (19b5-12).「非人間」もある仕方では一つのものを意味表示する (19b9).ゆえに「意味表示とは一つのものの意味表示である」の真正の例外ではない.

そこから 'οὐκ ἂν πᾶν οὕτως καὶ οὐχ οὕτως ἔχοι' が帰結する.意味表示の対象は限定的な仕方でそれそのものである.こうして指示対象がこれこれでありかつないということが排除される.

ここから「人間」を例に議論が進められる.'ἔτι εἰ τὸ ἄνθρωπος σημαίνει ἕν, ἔστω τοῦτο τὸ ζῷον δίπουν' (a31). ここで実体に話が限られるとする解釈者もいるが,そうではない.

アリストテレスが述べているのは,この語が人間の〈ある〉(本質) を取り出しているということだ.Furth は「一つを意味表示する」が 'heavily theory-laden' だと批判し,Anscombe はそれが 'a per se existent' の意味表示という意味だとする.つまり個体とその本質的述定にしか当てはまらない.しかしながら,ここで「人間」はある主体たる人間を意味表示しているわけではない.むしろ単に普遍を意味表示しているのである (17a38-40).

実体論と結びつけようとする人は,「白い人間」が単一物を意味表示しない (De Int. 20b15ff.) ことを引き合いに出すかもしれない.だが「白い」は何かを意味表示し (1007a3),単一のものを意味表示する (De Int. 18a7).「山羊鹿」さえ何かを意味表示する (16a17).存在論的地位はこの際無関係である.

実体のみに関わると考えると以下の困難がある.第一に,論駁に必要な範囲が確保されない (「白い」と発話したときに対処できない).第二に,実体論という進んだ段階の理論を PNC の基礎づけに持ち出すべきではない (ἀπαιδευσία の嫌疑).第三に,論敵が実体論に同意しそうにない.第四に,意味表示が実体の意味表示に他ならないとすると,Po.De Int. の理論と齟齬をきたす.

次いでアリストテレスは多義性に関する挿入的議論を行う.有限個の意味表示は確定的である.無限個の場合は何も意味表示しておらず,その場合そうした語を割符とする思考は不可能である (1006b5-11, cf. De Int. 1).論敵は矛盾の思考が可能だと言う必要があるので,語が確定的に対象を取り出すことも認めなければならない.

「人間」が人間という一つのものを意味表示するなら,それが人間でないことを意味表示することはできない (1006b11-14).これは要の論証 (1006b28-34) の重要な前提となる.その間にアリストテレスは「一つを意味表示する」を明確化するため「一つについて意味表示する」と区別する (1006b14-22).

4. 論駁の完了

「人間」と「非人間」が同じものを意味表示するなら,人間であることと非人間であることは同じことになる (1006b22).――なおここで τὸ μὴ ἀνθρώπῳ εἶναι を「非人間の本質」とすべきではない (そんな本質はない).「非人間」はここで一つのものを意味表示している.さもなければ同名異義的となるだろうし (羊と牛が異なる意味で非人間となる),無限個の意味表示が生じてしまう (SE 165a11f.).だから「人間」「非人間」が同じものを意味表示するなら,そもそも矛盾が生じなくなる.

最後の議論がここから出てくる (1006b28-34).ここまでで,語は確定的なものを取り出すこと,これに対応する「非-」のつく語は別のものを意味表示すること,が示された.ここからはそれらから構成される言明に移る."ἀνάγκη τοίνυν, εἴ τί ἐστιν ἀληθὲς εἰπεῖν ὅτι ἄνθρωπος, ζῷον εἶναι δίπουν (τοῦτο γὰρ ἦν ὃ ἐσήμαινε τὸ ἄνθρωπος)" (b28-30)3. このことは定義の確定性から言える.これを言明に適用して結論が出る: "οὐκ ἄρα ἐνδέχεται ἅμα ἀληθὲς εἶναι εἰπεῖν τὸ αὐτὸ ἄνθρωπον εἶναι καὶ μὴ εἶναι ἄνθρωπον" (b33f.). そして同じ議論が非人間 (ひいては何かでないこと全般) にも当てはまる.

この議論はうまく行っているだろうか.疑問の一つは,論敵には PNC を認めつつ同時に PNC を拒否するという道があるのではないか,というものだ.だが,それは不可能である.PNC を真正な仕方で認めたなら,それを否定することはもはやできない.たしかに承認しかつ否定すると言うことはできるが,それは ἔξω λόγος (APo. 76b24f.) でしかありえず,論駁の対象とはならない4

おそらくアリストテレスの議論はうまく行っており,PNC を確立できている.

以降の論では同じ主体について肯定されるだけで同じものを意味表示するわけではないことがさらに論じられる (1007a4-20).ここまでが本来の意味での論駁である.

Γ4 の残りはその他の決定的ではない反対論証を色々と行う.例えばプロタゴラス主義からは全てがこれこれがありかつないことが帰結する (1007b18-1008a7).

そのうち PNC の否定が実体の破棄につながるという議論 (1007a20-b18) は論駁的論証と混同されてきた; ここで明示的に導入されている実体と付帯性の区別が,議論全体に潜んでいるのではという憂慮を,解釈者たちは示してきた.だが,心配は無用である.後の議論は ad hominem なものではない.そして後の議論で実体が導入されたからといって,前の議論で前提されているということにはならない.一番興味深く成功しているのは最初の論駁的論証である.

ところで,De Int. の RCP の例外は PNC の例外をなすだろうか.なさない.二つの規則は重要な点で異なる.すなわち,RCP は言明対を支配する規則であり,言明対の真理値に関わる.一方の片割れに真,他方に偽を割り当てられない場合に RCP は破られる.そして 7, 8, 9章の RCP の例外はいずれもPNC違反をなすわけではない.Γ の PNC は同じものがありかつあらぬとき (ある単位が同じ述語と結合しかつ分離するとき) に破られるからだ.

論駁において我々は,語の意味表示が句によって表現されうることを見た.語から句への置換が重要なテクニックとなる.これを次の補遺で検討する.


  1. i.e. 実例解釈.

  2. Cf. chap.1.

  3. 原注30: この必然性は不当に密輸入されたものではない.事物はその名前が意味表示するものでなければならないということに過ぎない.物は真なる言明が言う通りにあらねばならないと述べる De Int. 9, 18a39f. と並行的である.

  4. 原注31: アリストテレス的な意味で PNC が真でなければならないのは,その意味論に基づく.これはPNC が真かつ偽である論理体系がありうるかどうかという話とは独立である.