Γ3-6 の地図 (+α) Crubellier (2008) "La tactique de Gamma 3-6"

  • Michel Crubellier (2008) "La tactique argumentative de Métaphysique Gamma 3-6" in M. Hecquet-Devienne, A. Stevens (eds.) Aristote Métaphysique Gamma, Peeters, 379-402.

Γ3-6 の (Burnyeat 的な意味での) mapping (380). Crubellier は MN についても類似の作業を行っているらしい.Γ については,雑誌論文はもちろん Cassin-Narcy や Kirwan も関心を絞った論じ方をしているので,これはありがたい作業.


Γ 後半部の歴史的・哲学的重要性は,理性の諸原理 (des principes de la raison),すなわち思考にとっての規範的効力と普遍妥当性をもつ諸命題を言明している点にある.

アリストテレスが「最初に」理性の諸原理を言明したという大仰な決まり文句を避けるのは難しい.実際,より以前の著作 (e.g. パルメニデス) にも PNC の等価物は見られるし,アリストテレス自身 Γ で先行者の議論に言及している.しかしアリストテレスは,原理を原理として提示している; つまりその普遍妥当性を主張し,それを第一哲学の要素とし,その「無仮定的」地位に自覚的である.

したがって,議論の意義・価値を理解し,ソクラテス以前のテーゼと議論を再構築することが,この箇所の註解の目的となる.ここではその準備段階として,「地図作成的な」読みを行う.すなわち,全体から部分に向かい,特に議論の移行と順序に注意する.

I. 3章 (と6章の結論)1

3章は一つの問いに面している:「数学的諸学におけるいわゆる諸公理について〔の探究〕と本質存在について〔の探究〕が一つの学知に属するのか,それとも異なる学知に属するのか,ということが語られなければならない」(a19-21).これは B の第2アポリアのヴァージョンである.B1, B2 でも PNC が例に挙げられる.この問い以降 Γ3-6 がどう構成されるのかを問う前に,付随的なことがらを二点述べておく.

  1. ここで (しばしば別々に扱われがちな) Γ1-2 と 3-8 がどうつながっているのかを問題にできる.Γ2 と Γ3 のつなぎ目の言葉づかいはごく普通である (ὅτι μὲν οὖν ... δῆλον ... λεκτέον δὲ πότερον).ただ,Γ1-2では第4-5アポリアが言及されていた,と言うことはできる.ここから,Γ の一般的な目的は,B のいくつかのアポリアを論じることだ,と推論しうる.とはいえ,Γ1-2 全体の様々な諸契機が第4-5アポリアにどう結びつくのかは明瞭でないし,Γ1-2 の統一性と内的秩序の問題は手ごわいから,ここでは脇に置く.
  2. 第2アポリアの意味を明確化しておく.まず,PNC がある知識を言明しているという含意がある.すなわち,PNC は純粋に論理的・形式的なものではなく,何か (〈あるもの〉) について語っている.加えて,そうした原理を知る学知と実体の学知は同じ学知である: 単に同じ専門家が扱うというだけでなく,同時に両者の知識であるような知識がある.

Γ3 はこの問いに留保なしに「一つだ」と答える.B2 の二つの異論 (996b33-997a2, 997a2-11) への応答は見られない.しかし,第一の異論が単なる問答法的な作り事だとしても,第二のものはそうではなく,二つの重要な困難を提起している: (1) もし論証の原理が科学的知識なら,それ自身論証可能でなければならない.(2) 本質的属性からなる領域が存在しなければならず,それは原理自体と外延が等しくなければならない.それは全ての論証可能なもの,要するにあるものどもを含まねばならない.しかるに,あるもの全部を含む類は存在しない.―― Γ3 の主張はこれらのテーゼと正反対である (1005a27-29).この豹変を可能にしているのは,Γ1-2 で「あるもの」の学知という考えが論じられていることである.

この議論に,哲学の競争相手についての二つの主張が続く.

  • (1005a31-b2) 自然学者は原理の妥当性について論じる権威があると思っているが,それは自分たちだけが自然全体すなわち「あるもの」を考察すると考えていたからだ.
  • (1005b2-5) 公理にいかなる仕方で同意すべきかを論じる問答家は「分析論への無知ゆえに」そのように振る舞っている.

一つ目の議論は 1005b11-18 で補強される.次いで PNC が定式化される (1005b18-22).ここまで Γ は具体例なしに複数形で「諸原理」と言う.単数形が最初に登場するのは b11-12 である.なぜここでこの原理が登場し,存在論的効力をもつ「公理」として「あるもの」を規定するのか,は考えどころかもしれない.アリストテレスは A-B の態度を保持しつつ,可能性を判定すべき計画として,いわば外界についての「追い求められている学知」(science recherchée) に携わっているように見える2.この控えめな認識論的態度からアリストテレスを追い出すのが今の議論である.「誤りえない」諸原理を知ることが哲学に属すると言うだけでは十分でなく,そうした原理が少なくとも一つ実在すると言わねばならないし,そのためには,「誤りえない」原理の実例を挙げなければならない.これが Γ3 の最終部でなされている.

一方,複数から単数への移行により,そうした存在論的意義をもつ原理が PNC だけなのかという問題も生じる.7-8 章では排中律が必然的に真だとされ,その議論は 4-6 章と並行的である.しかし,後で見るように,B の第二アポリアは Γ6 末尾で明示的に閉じられている.また,Γ7 冒頭の移行句 ἀλλὰ μήν は二つの原理の関係を何ら示唆しない.さらに Γ3-6 の議論はあたかも PNC が唯一の存在論的原理であるかのように進む.――とはいえ,LEM も「あるもの」の学知の原理だと考えるのは自然だろう.

1005b22-34 は PNC が βεβαιότατον だと示す議論だと思われる.この議論は「客観的・自然学−存在論的」原理 (PNC-O) から「主観的・認識的」原理 (PNC-E) に移行する議論である.これはウカシェヴィチに倣った区別だが,「論理的」原理と「心理的」原理の区別は受け継いでいない.論証はこうだ:「主体が P と ¬P を同時に信じるなら,二つの反対の属性をもつことになってしまう.ゆえに,PNC が正しければ,PNC を拒否することはできない」.しかし,これが示しているのは,PNC-O が PNC-E を含意するということにすぎない.なお悪いことに,この場合 PNC-E が偽なら PNC-O も偽となるが,実際 PNC-E は偽だと思われる.というのも,次のような人がいるからだ.

  1. 同じ述語が同じ対象に属しかつ属さないと肯定する人.
  2. PNC を拒否するわけではないが,拒否が思考可能だとは考える人.
  3. 論証を要求する人.

どれも βεβαιότατον だということを脅かす.これらへの応答は,1006a6-1011b12 までの一連の長い議論によってなされるのである.これがうまく行けば,1-3 の人の存在にも拘らず,PNC-E が示されるだろう.

しかし PNC-O が示されるわけではない.それゆえアリストテレスは,直後でこう述べるのだ:

ἐπεὶ δ᾽ ἀδύνατον τὴν ἀντίφασιν ἅμα ἀληθεύεσθαι κατὰ τοῦ αὐτοῦ, φανερὸν ὅτι οὐδὲ τἀναντία ἅμα ὑπάρχειν ἐνδέχεται τῷ αὐτῷ: τῶν μὲν γὰρ ἐναντίων θάτερον στέρησίς ἐστιν οὐχ ἧττον, οὐσίας δὲ στέρησις: ἡ δὲ στέρησις ἀπόφασίς ἐστιν ἀπό τινος ὡρισμένου γένους: εἰ οὖν ἀδύνατον ἅμα καταφάναι καὶ ἀποφάναι ἀληθῶς, ἀδύνατον καὶ τἀναντία ὑπάρχειν ἅμα, ἀλλ᾽ ἢ πῇ ἄμφω ἢ θάτερον μὲν πῇ θάτερον δὲ ἁπλῶς. (1011b15-21)

ここで PNC-E から PNC-O を出し,両者の同値性を示しているように見える.細部は明らかでないが,決定的な契機は反対性と欠如とりわけ否定の同一視だと思われる.反対者が同時に同じ対象に属するとする言明は,二つの矛盾言明の連言を含意する: (同時に同じ関係のもとで etc.) x が白くかつ黒いなら,「x は白い」「x は白くない」の両方を得る.

ただし実際にここで出発点となっているのは Γ3 の PNC-E ではなく「真理」概念を噛ませたヴァージョンであり,ウカシェヴィチのいわゆる「論理的原理」である.後述の理由から,私は両者を PNC-E の客観的/主観的ヴァージョンと呼ぶことにする.

「信じる」と「真なる仕方で肯定する」の違いは我々の文脈にとって決定的である.一方,我々が PNC-E の主観的ヴァージョンを客観的ヴァージョンに置き換える権利を得たのだとすれば,この違いは,我々が Γ3 の出発点にそのまま帰ってきたのではないことを示している.

なぜ客観的ヴァージョンに移らなければならないのか.それは,実際のところ,信念は難攻不落だからだ.自分が信じていると思っていることを実は新自衛ないのだと認めさせることはできない.アリストテレスが訴えうるのは,人はそれを真ではありえないと知っている以上,それを (少なくとも反省的な仕方では) 信じることはできない,という考えだけである.この移行が可能なのは,PNC-E が主体の観点から見た行為を表す不定詞 (信じる,真なる仕方で肯定する) によって表現されているからなのだ.

この置換の条件と含意は III 節で考察する.もう一つ注意すべきは,真理に関する考察は Γ4 でも別の付随的な役割を果たすということだ.アリストテレスはしばしば「原懐疑主義者」(proto-sceptiques) とでも呼べるような論敵を相手取っており,彼らを「何一つ真ではない」と考えているものと見なしている.だから争点は,「我々は何かを真と措定すべきである」ないしは「あるものが他のものより一層真であると措定すべきである」と相手に示すことだ.

ここまでの成果を以下の表に要約する.

箇所 内容
1005a16-21 [3章]
第二アポリアの想起
「全ての論証の諸原理」が以下の知恵に関係することの論証:
1005a21-b8 (1) 諸原理はある限りのあるものを対象とする
1005b8-18 (2) 諸原理は全ての中で最も確実でなければならない
1005b18-22 PNC の定式化
適切であることの論証による確証:
1005b22-34 PNC は (2) を満たす.なぜなら βεβαιότατον だから.
または:「PNC-O は (主観的) PNC-E を含意する」
1005b35-1006a6 [4章]
反論
次のように考える人がいる: (1) PNC は違反可能だ,(2) 自分は PNC に違反している,(3) PNC には論証が必要だ
1006a6-1011b5 これらの異論の除去を狙う長い議論 (1011b13-15 の結論を見よ)
1011b15-22 [6章]
(客観的) PNC-E は PNC-O を含意する

II. 原理を否定する者に対する議論全体の構造

それゆえアリストテレスは,PNC 否定論者に応答しなければならない.特に問題なのは,PNC を拒否している,ないしは疑っていると言い立てることが可能であったという事実だけで,アリストテレスの立場への異論になるということだ.合理的読者の審判に訴えるだけでも,否,(Γ4 がなすように) 議論を否定論者に認めさせるだけでも十分ではない.したがって,理論的な議論の契機 (Γ4) は,各事例を診断し適切な取り扱いを示唆する治療的契機 (Γ5-6) を伴う.後者で問題となるのは,いかにして否定論者がパラドクシカルな態度に至ったかの説明である.この議論の二元性は Γ7 の並行的構造からも確認できる (11b23-12a17/12a17-24).

III. 理論的な議論 (4章)

二つ目の困難は Γ4 の理論的議論の最初で自ずと顕になる.アリストテレスはまず「PNC は論証を要する」という弱い立場を取り上げ,これを論証理論の無知として簡単に斥ける.だがそのとき同時に,強い立場に対する戦略の定義と正当化に移る.

事実,このことをも論証することが相応しいと,或る人々は無教養のゆえに考えているのである.というのも,或るものどもの論証は探求すべきであり,或るものどもの論証はそうすべきでない,ということを認識していないのは,無教養であるから.というのも,全ての事柄に論証があるということは全く不可能である一方 (というのも,無限に進みうるのであり,その結果,そのようにしても論証がありはしないから),或るものどもについて論証を探究すべきでないとすれば,何がそうした〔確実な〕原理であることが相応しいと考えているかを,彼らは言うことができないのである.このことについても (καὶ περὶ τούτου),論争している人が何かを語っているときにのみ,不可能であることを (ὅτι ἀδύνατον) 論駁的な仕方で論証することができる.

下線部は興味深い.弱い立場に譲歩しつつ強い立場との議論を始めているように見えるからだ.

出し抜けの καὶ περὶ τούτου は特徴的である.Hecquet-Devienne は τούτου を « discours » (des négateurs du PNC) と訳すが,その場合の参照先 τῷ λόγῳ τούτῳ (a2) は非常に遠い.もう一つの候補は PNC 自体であって,これは τοῦτο (a4, 5) の指示対象であり a5-11 の主題である.このとき ὅτι ἀδύνατον は PNC の内容の要約となる.

いずれにせよ,この移行が興味深いのは,それによって続く二つの論駁の結合がもたらす問題の表面化が回避されているからだ.ここにアリストテレスの一種の困惑を見て取ることができる: 弱い立場への応答は,強い立場への応答を少なくとも真理や論証の強制力の水準で行うことを禁じてしまっている.それゆえ「論駁的論証」という定式があるわけだが,これは問題解決に十分ではない: 全論証の基盤となる原理の論証がありえないなら,手続き上 PNC や LEM を前提する 論駁エレンコスや帰謬法に訴えることもなおさらできないからだ.アリストテレス自身この困難に気付いている (1006a16-18, 20-21, 8b1-2).

これと対称的に,アリストテレスは「なぜなら,論証する人は原理のうちにある事柄を要請していると思われうる一方,他の人がそうしたことの責任を負うときには,論駁があり,論証はないであろうから」(1006a17-18),「論証する人に責任があるのではなく,留まる人に責任があるのだ」(a25-26) と言う際,論敵が論点先取を犯していると批判しているわけではない.むしろ,論点先取の批判に論敵をさらす一歩を,答え手に踏み出させることが問題になっているのだ.ここの語彙は論証が問答法のような状況に関連付けられていることを示唆するが,実際はそうではない.ここで相手にされているのは仮想的な (virtuel) 対話者だからだ.現実の問答法では,(1) 答え手に選択の自由があり,(2) 答え手が措定したことだけを論駁できる.Γ の状況が仮想的なのは,単に対話が虚構だからではなく,むしろ論駁が PNC の否定者に適用されるものだからだ.この場合 (2) のような条件にとどまることはできないし,すべきでない.したがって,反論者が譲歩しないではいられない (ne peut pas ne pas concéder) 前提を探す必要がある.

「論駁的論証」が論駁の古典的状況と異なるのは,前者の場合には答え手が自分自身のテーゼを措定する必要がないことだ.答え手は単に何かを述べ,かつ何かを述べていると認識していればよい.何かを述べるとは,それについて述べるところのある現実があるということだ.

この譲歩の後,アリストテレスは主論証を行う (1006a28-1007a20).これは Γ4 の約 200 行中 60 行を占める.この議論が依拠する意味表示概念は二つの本質的な論点を含む:

  1. 何かを意味表示するとは,一つのことを意味表示することだ.
  2. 語がかくかくを意味表示すると言うとは,その語の特定の主語への適用が真である場合があると言うことである.

「人間が一つのものを意味表示するとき,これを「二足の動物」としよう.私が「一つのものを意味表示する」と言うのは,次のことである――これ (τοῦτο) が人間であり,何かが人間であるとすれば,それは人間にとっての〈あること〉であるだろう」(1006a32-34).これは次のように解釈できる:

  • τοῦτο は表現「二足の動物」を指す.
  • 後半は次のように補うべきである:「何かが人間であるとき,〔〈何か〉にとって〕人間であることとは,二足の動物〔であること〕であろう」.

この解釈は 1006b28-30 で確証される:「何かが「人間である」ということが真なることであるとすれば3,二足の動物であることは必然である (というのも,「人間」がこれを意味表示していたものだったから)」.

こうした分析を通じて,真理概念が議論に導入される: x について,それがいんげんであると言うことが真であるなら,必然的に,それは二足の動物だと言わねばならない.したがって,それが二足の動物でないと言うことは不可能である.ゆえに,同じ対象 x が人間でありかつ人間でないと言うことは,真ではありえない.

読者がこれに困惑するのは自然である.どうやって単なる談話についての命題から真実について・諸事実の実在についての命題に移行したのか? ――説明は単純である.意味の定義から出発して,1006a31-b34 は次のような含意に至っている:

  • もし「人間」が何かを意味表示するなら,同時に真なる仕方で「人間」と「非人間」を同一の対象に適用することは (必要な限定を加えれば) 不可能である.

真理性が実在に関する肯定を含意するなら,上の主張は次のことを含意する:

  • もし「人間」が何かを意味表示するなら,そのとき「人間」と「非人間」が同じ対象に同時に帰属することは (必要な限定を加えれば) 不可能である.

しかし,ここまで得られた実在についての知識 (savoir) には二つの限界がある:

  1. この知識は純粋に消極的である: 物がどうあるかではなく,どのようにはありえないかを述べる.この意味で本当の認識ではない.
  2. この知識は条件文の後件である: 前件が満たされなければ肯定されない.それゆえ論敵の譲歩 (1006a18-24) が重要になる.「論証する人に責任があるのではなく,留まる人に責任がある」という主張の眼目は,単に論敵を虚偽に追いやること,ないしは自らが論点先取の非難を免れることではなく,何かを言っていると主張することの含意を明らかにすることなのだ.その含意とは,意味表示に適合した何ものかがあること (ここまでは当たり前),すなわち無矛盾な何ものかがあること (ここがアリストテレスの創意) なのだ.

続く 1006b34-1007a20 は意味が否定的である語の場合について補足する.二つの困難が提示される: (1) そうした意味は未規定である,(2) とりわけ,「非人間」は「人間」と任意の述語 (例:「白い」) によって結びつきうる.「白い」は「人間」と同じものを意味表示しない.したがって「非人間」を意味表示している.そうだとすると,「人間は白い」が「人間は非人間である」を意味表示すると言うべきなのだろうか?

続いて連続する6つの論証がある:

箇所 論証 内容
1007a20-b18 [2] PNC を否定すると,本質的/付帯的述定の区別も消去してしまう.
1007b18-1008a2 [3] PNC を否定すると,全ては一つになるだろう.
1008a2-7 [4.1] 同じものが人間かつ非人間なら,「人間でも非人間でも」なくなるだろう.
1008a7-30 [4.2] 一連の諸区別による論敵のテーゼの効力削減の試み
1008a30-34 [4.3] PNC を否定する言説は果てしない自己否定に陥る.
1008a34-b2 [5] LEM を肯定するなら,PNC も肯定しなければならない (アリストテレス自身によって論点先取とされる議論).
1008b2-31 [6] (より) 真なることを語っているという論敵の主張に基づく議論
[1008b19-31: 対応する語用論についての脱線]
1008b31-1009a5 [7] 全てが同時に A かつ非 A だとしても,度合いの差があるだろう.

これらの順序はばらばらに見える.だが,以下の点は目につく:

  • 論証 2, 3 は共に帰謬的である.2 は PNC の存在論的意義を示す点で特に興味深い: PNC より,実在の諸水準の区別が必要であり,PNC を実際に満たさないものしか本当に実在的ではない.この水準とはまさに οὐσία である.これに似た考えは Γ6 末尾にも見られ (1011b20-22),PNC は自然的実在の分析の指針となっている.
  • 続く箇所には統一性の問題がある.'ἔτι' (a7) に鑑みて a2-7 を一纏まりとすると,内容が乏しい.これを合理的に理解すると「¬PNC → ¬LEM」となるが,これは 5 の対偶であり,5 の弱さはアリストテレス自身が認めている.――したがって,4.1 は 4.2 に続くと見たほうが良い.4.2 では「x は A かつ非 A」「x は A でなく非 A でない」のような定式が全ての述語に適用されるのか,一部の述語についてかが問われる.例外があるなら,そこにおいて,論敵に対抗しうる何らかの真理を摑むことができる.特に否定的言明の場合 (1008a14-18): 何らかの一義的に真な否定的言明がある (e.g., 人間は船ではない).最後には (a18-20),これらの連言の各連言肢は別々に肯定されうるという可能性が考慮されているように見える.もしそうした整備を受け入れないなら,論敵は何も言っていないことになり (a20-30),果てしない自己否定に陥る (4.3).
  • 5 は無視する.6-7 はどちらも度合いを区別することによるパラドクス脱出の提案である.6 では真理の度合いないし能力 (compétence) の度合いが,7 では述定適用の度合いが問題にされる.どちらも蓋然性に関する説を粗描している.4, 6, 7 はアリストテレスのプログラムのもう一つの側面を表している.それは,我々の思考や経験に「真なるもの」(du vrai) があるということを論敵に認めさせるという側面である.この点 Γ5 の議論に似る.

IV. 治療的な議論 (5-6章)

ここは学説誌が大きな役割を果たす.論敵の動機説明が問題なのだから当然である.だが,冒頭は驚きかもしれない:「プロタゴラスの議論も同一の判断 (ἀπὸ τῆς αὐτῆς δόξης) から出ている」.どういう「判断」が問題になっているのか.Γ4 では一度プロタゴラス (1007b22-23) とアナクサゴラス (b25-26) に言及するのみで,基本的にはもっぱら問答法上の可能者として論敵の立場を定義している.だが,章の冒頭では「……と主張する或る人々がいる」という事実から始めており,ここでヘラクレイトスの教説 (Γ3, 1005b24-25) を想定していた可能性はある.そしてヘラクレイトスの教説は,Tht. ではプロタゴラス相対主義と同一視されていた (cf. Cassin & Narcy).

これに似た表現は再び出てくる:「同一の思考から両方の議論が出ていることは明らかである」(1009a15-16).だが導入している区別は同じではない.前者の区別は認識論的動機をもつ立場の区別だが,後者はむしろ自然学的・存在論的動機をもつ.後者は知識についての二つの態度ないし倫理を対立させている: 一方は誠実で困惑している人間,他方は楽しみのために論じる反論理的な人間 (antilogiques) である.両方の区別が重なり合うかは明らかでないが,少なくとも自然学者 (の大部分) は誠実な側に入るだろう.

二つのグループは別々の扱いを要する:「或る人々には説得が必要であり,或る人々には強制が必要」(1009a17-18) である.つまり前者はその信念や無知に応じて面倒を見られるべきであり,後者は述べていることの水準で訂正されねばならない (18-20).前者は 1009a22-1011a2 で,後者は Γ6 で応答される.

真摯に困惑している人々の態度については,さらに二つの説明がなされる (1009a23 は a38 に対応する):

  1. この人々は Γ3 の自然学者と同じ状況にある (おそらく同一人物).応答は存在論的である (1010a15-b1): 不変なものを指す語を想定しないと,変化は記述・思考不能である.
  2. 認識論的水準では,この人々は感覚的経験しかないと考えている (1009a38-1010a15).応答はまず (1010b1-30) 分析があまりに抽象的ないし安易であるということ,そして詳細を正確に考慮すれば曖昧さ (les équivoques) が解消することを示す.さらに,実践上はだれも印象の不確かさを信じておらず,また一般に現れは現れるものを前提する,と付言する.

Γ6 冒頭は異論を導入する:「各々の事柄について正しく判断する人は誰なのか」.この異論は無限後退の危険をはらむ.これは無から生じたわけではなく.おそらく上記 2 か,あるいは 2 への応答から出てきている: 個別の事例・観点等々を区別すると,PNC を救う代わりに実在を無限に細分化するという犠牲を払うことになり,現象の普遍的解明が不可能になるのではないか,という恐れが出てきうる.

アリストテレスによれば,この異論は真摯な反論者からも反論理的な人々からも出てくる.だが後者の場合に特に力をもつ.アリストテレスの反論 (1011a3-14) はこれら二つのグループの間を移行する.反論理的な人々に対する応答は三つの主論点を含む:

  • 自由に反論する権利を我が物にする限り,強制力のある理由を主張することはできない (1011a15-16).
  • 状況・感覚様式・主語等々を細かく区別していけば,矛盾は消滅する (1011a17-b1. 誠実な論敵に対する 1010b1-30 の議論が並行的).
  • 関係者にはその相関者がある.ゆえに,全てのものが判断する人間の相関者なら,その人間は全てのものの相関者となり,無限に多重化するだろう.

V. 排中律の議論: 若干の示唆

Γ7-8 は本稿の範囲を超えるし,それほど解釈者の注意を引いていない――かなり短く,Γ3-6 と平行的であり,かつおそらく「論駁的論証」ほど面白くないと思われてきたからだ.だが,Γ7-8 もいっそうの研究に値すると示すために,幾らか議論したい.

「理論的契機→治療的契機」という構造は Γ4-6 と共通する.この構造が Γ3 末尾で原理の問題が提起された仕方から来ていることは既に見た.アリストテレス自身並行性を明示している (1012a21-24, 1012b5-8).そこで言及される意味・定義・真理は,全て Γ4 の論駁的論証の構成要素でもある.しかしより詳しく見れば,そこで問題になっているのは任意の語 (e.g.「人間」) ではなく真・偽の定義である.そうした定義は別の「メタ言説的」(i.e. 言説と思考の規範についての省察の) 水準にある.付随的問題として,そうした真・偽の定義が意味表示の定義とどう関連するのかは4,通常の定義と比べて,何ら明らかではない.

また排中律に関してアリストテレスは自然学的動機を述べていない (1012a17-21).それゆえ,理論的な議論が PNC の議論と平行的でないとしても,それほど驚くに当たらないだろう:

箇所 論証 内容
1011b24-29 [1] LEM の妥当性は真・偽の定義より明らかだ.
1011b29-1012a1 [2] LEM の否定は反対者からの変化の一般的教説と矛盾する.
1012a2-5 [3] διάνοια は思考可能なもの全てを肯定するか否定することができる.
1012a5-12 [4] 現実の別の諸形式を認めねばならなくなるだろう.
1012a12-15 [5] 真・偽の間に無数の中間的な度合いを認めねばならなくなるだろう.
1012a15-17 [6] 否定は繋辞を対象とする.

如上の興味深い諸主題に,以下を付け加えたい: もし LEM が「あるもの」全体に適用される原理なら,未来の偶然的な事実 (e.g. 明日の海戦) は「あるもの」の領域の一部をなさない.


  1. 番号が割り振られていないが,後にII節が登場するので,これがI節扱いだろう.

  2. どういう解釈なのかぱっと見ではよく分からない.Aubenque を読む必要がある.

  3. εἴ τί ἐστιν ἀληθὲς εἰπεῖν ὅτι ἄνθρωπος の τί を ὅτι の中に入れている.

  4. « la question de savoir de quelle façon la définition du vrai et du faux se relie à celle de la signification. » やや celle の取り方に自信がない.