論駁的論証の構造とその文脈 Wedin (2000) "Some Logical Problems in Gamma"

  • Michael Wedin (2000) "Some Logical Problems in Metaphysics Gamma" Oxford Studies in Ancient Philosophy 19:113-62.

他の論文と内容上の重複が明らかに多くてかなり不安になる.例えば Wedin (2004) の内容の大筋は既にここに出ているように見える.場合によっては後のものは引かない方がいいかもしれない.


Γ4 は (a) 矛盾が可能だと言い (φασί) (b) そのように想定する人々への言及から始まる.問題は主に (a) であり PNC 自体の擁護がアリストテレスの唯一の目的だと考えられるかもしれない.しかし Γ の実際の主目的は,PNC の否定を信じうるという提案を拒否することにある.Γ3 は PNC を前提にその強固さを示しているからである (不可疑性証明).以下では Γ3-4 の論理的諸問題を扱う.あらゆる誤謬推理の嫌疑を晴らせるわけではないにせよ,いくらかは晴らせるはずである.

1. 論証の究極原理としての PNC

〔省略.不可疑性性証明についてのいくつかの疑念,特に究極性テーゼに対するウカシェヴィチの批判,および解決.Wedin (2004) §8 と同様の議論.〕

2. 不可疑性証明は何を証明しているのか

〔省略.不可疑性証明が諸実例についてしか論じえていないように見えること,および「Γ4 で補完されるのだ」という Code の提案.Wedin (2004) §6 と同様の問題提起.〕

3. Γ4 の論駁的論証は Γ3 の不可疑性証明を完成させているのか

アリストテレスは Γ3 で「PNC は何かを信じているあらゆる人が信じている」(以下「Code の補助命題」) と論じているように見えるが,それを支持する材料は Γ3 にない.そこで Code (1987) は Γ4 に支持材料があると論じる.

すなわち,次のように考えることができる:

  • (13) ∀x∀p (x bel p → p は有意味) (i.e., what is believed is significant)

そして論駁的論証は次のように論じる:

  • (14) ∀p(p が有意味 → p は PNC に従う)

Code によれば,(14) は (13) とともに全員が PNC を信じていなければならないという主張を受け入れる理由を与える.だが,仮にアリストテレスがこう考えていたとしても,これは正しい理由付けではない.(13) と (14) だけでは次の主張に十分ではないからだ:

  • (15) ∀x∀p(x bel p → x bel (p が PNC に従う))

かつアリストテレスがこう考えていたかも明らかではない.この点を確かめるには Γ4 を見る必要がある.

4. Γ4 の構成

Γ4 はまず Γ3 の強固さの論証の構造の確認,したがって PNC の論証不可能性の確認から始まる.しかし直後で,「論駁的な仕方で」論証することはできると言う.論敵は何か有意味なことを述べており,それゆえ論敵自身の問答法的没落の責任を課されるのだ.

それから実際の議論に移る.Łukasiewicz, Ross, Kirwan で分け方が異なる.Wedin 自身の分け方は Ross に近いが,その含意は異なる.Wedin の考えでは,Γ4 の論証で PNC を結論とするものは一つしかない (1006a28-1007b18).続く6つ以上の論証はどれも PNC を結論としない.それらの「悲鳴」論証 ('shriek' argument) は PNC の否定から帰結するコミットメントを印象づけるためのものである.

5. 論駁的論証の戦略

以下の点で Łukasiewicz の理解に従う.第一に,論駁的論証は間接的論証ではない (対偶を用いていない).第二に,論駁的論証と本来の論証の間に形式的な違いはない (どちらも p, p\rightarrow q \vdash q の形).第三に,両者は語用論的に異なる.つまり,論駁的論証は q を拒否する人をねらうものであり,そうした人にとって p を受け入れることは致命的である.実際アリストテレスp を論敵自身が主張することを要求している.

ウカシェヴィチは何を言っているのか分からないと言う.ウカシェヴィチの不平の種は,彼が論点先取を形式的誤謬と捉えている点にある.本当は形式的誤謬ではなく,誰が何を信じているかが重要なのだ (cf. Sanford 1988).例えば:「このクラブのメンバーは全員テキサス大学に所属している.トファルドフスキはこのクラブのメンバーである.ゆえに,トファルドフスキはテキサス大学に所属している」という推論は,発話者が大前提を信じている理由が帰納によるなら論点先取であり,クラブの会則に基づいているならそうではない.

論駁的論証は PNC を拒否する論敵に対してなされる.論敵がなにか有意味な (significant) こと 'σ' を主張するとき,PNC は確立され,それゆえある意味で論敵は論駁される:

  • (16) ¬PNC [論敵の見解]
  • (16a) 'σ' は有意味である ['σ' は論敵の主張]
  • (16b) 'σ' は有意味である → PNC
  • ∴ (16c) PNC

論点先取の Sanford 的な理解によれば,この論証が論点先取であるためには,論証の支持者は,専ら (16c) を信じているという理由で (16a) か (16b) を信じていなければならない.(16b) を問題にする余地がある: これが真なのは「'σ' は有意味」が偽か PNC が真であるときだが,支持者は後者を信じているからだ.ゆえに,この議論は支持者にのみ相対的に論点先取である1.だがこの議論は正しいものではありえない.「揺れる」前提 ('swing' premiss) は (16a) だけだからだ.

アリストテレスの議論はもっと単純である.論敵は (16) か (16a) のどちらかを撤回する必要がある. アリストテレスは (16a) に固執するが,これは論点先取とは言えない.論敵は最初から (16a) を認めている; これが成り立つ限りで論証がある (1006a12-13).

そういうわけで,論証は基本的には modus ponens の構造を取っている.¬PNC の帰謬法的否定ではなく,PNC の直接的証明である.ただし ¬PNC を主張する人に対しては論駁的効果を持つ.この人は有意味な 'σ' を主張することで,PNC が出る前提に責任を負うからだ.

しかしそうすると他の問題がある: PNC は他の何も前提しないのではなかったのか.§1 では PNC が modus ponens を含む演繹推論の基底にある推論パターンの妥当性を保証する基本前提 (presupposition) だとされた (究極性の主張).そうだとすると,論駁的論証が modus ponens の一事例である以上,PNC の論駁的論証は PNC を前提するのではないか.それゆえ循環論法であり論点先取であるように見える.

応答の一つは,PNC を用いている (use) わけではない,というものだ.ただし微妙すぎるかもしれない.もう一つの線は,PNC の論敵は演繹推論一般の反対者ではないというものだ.実際論敵は自分が間違っていると「証明する」ことを要求している.

論敵を (16a) にコミットする際,アリストテレスは論敵が言うこと全てを有意味だと言っているわけではなく,何か有意味なことを言わねばならないと要求している.また,(16b) が意味するのは,何かが有意味なら,それはPNCに従うということだ:

  • (16b') 'σ' は有意味である → ¬◇(Φ[σ]∧¬Φ[σ]) (ただし Φ[ ] は σ を含む任意の命題的文脈).

二点指摘しておく.第一に,ここで PNC は σ に相対的にしか確立されていない.ただし 'σ' は任意なので,それについて成り立つ事柄は,それに似た全てのものについて成り立つ.第二に,'σ' は文か,句か,語か.Φ[ ] が σ それ自体なら σ は言明であり,そうでなければ句か語である.意味表示の理論からして後者の方が尤もらしい.また (16b') は Φ[ ] が本質主義的文脈であることを示唆する.しかしそうすると論駁的論証は本質的述定についてしか PNC を確立していないことになる.実際ほとんどの解釈者は論駁的論証が制限されたヴァージョンしか示していないと考えているが,拡張のやりようはある (§7).だが,まずはアリストテレスの戦略そのものを詳述する.

6. PNC の論駁的論証

次の一節を Kirwan は論駁的論証とは独立の一節 (K1; 1006a28-31) と見なす:

(17) πρῶτον μὲν οὖν δῆλον ὡς τοῦτό γ᾽ αὐτὸ ἀληθές, ὅτι σημαίνει τὸ ὄνομα τὸ εἶναι ἢ μὴ εἶναι τοδί, ὥστ᾽ οὐκ ἂν πᾶν οὕτως καὶ οὐχ οὕτως ἔχοι.2

だが Ross, Wedin は論駁的論証の一部と考える (R1, W1; 1006a28-1007b18).直接的論証によって何が証明されるかを記しているからだ.実際,「名前が「何かであること」を意味表示するか,または「何かでありはしないこと」を意味表示するなら,PNC が成り立つ」というのは,以降の議論の要約である.選言の前半は 1006a31-b34 (W1.I),後半は 1006b34-1007a20 (W1.II) で扱われる.1007a20-b18 (W1.III) は PNC が拒否された場合の特殊な帰結を考察する.以下では W1.I だけを「論駁的論証」と呼んで考察する.論駁的論証は三段階からなる: (1) 名辞が一つのものを意味表示すると論じ (a31-b3; cf. 'τοδί'),(2) それを元に,「人間」と「非人間」は同じものを意味表示しないと論じる (b13-28).(3) そして最後にここから PNC が証明される (b28-34).

(a) 第一段階: 名辞は一つのものを意味表示する

ἔτι εἰ τὸ ἄνθρωπος σημαίνει ἕν, ἔστω τοῦτο τὸ ζῷον δίπουν. λέγω δὲ τὸ ἓν σημαίνειν τοῦτο· εἰ τοῦτ᾽ ἔστιν ἄνθρωπος, ἂν ᾖ τι ἄνθρωπος, τοῦτ᾽ ἔσται τὸ ἀνθρώπῳ εἶναι. (1006a31-34)

アリストテレスは何を意味しているのか.候補の一つは以下である.

  • (18) 'M' は一つのもの T を意味する,i.e. ∀x(x is M → x is T).

だが τὸ ἀνθρώπῳ εἶναι はより強い主張を示唆する:

  • (18a) 'M' は一つのもの T を意味する,i.e. ∀x(x is M → T は〈x であるとは何であるか〉である).

(18a) の場合,意味表示に様相的な負荷がかかる.「二足の動物」は人間 (man) の本質であるのみならず,人間である個々のもの (anything that is a man) の本質でもある.ゆえに「x is M」自体が本質的紐帯を示す必要がある.一方で (18) の場合 M と T の関係にしか様相的負荷がかからないので,述定一般に適合する.なので (18) の方がいいと思われるかもしれないが,しかし残念ながらテクストにはそう書いてない.むしろ x が本質的に T であることが要求されている.

第一段階は Code の補助命題を確立するだろうか.第一段階の戦略は,一つのものを意味表示するのがどういう場合かを示し,併せて全ての語が一つのものを意味表示すると論じることであった.一方で Code の補助命題は,'σ' が PNC に適合し,かつそのことを σ を含む信念をもつ誰もが信じていることを必要とした.そうしたことは第一段階では論じられていない.

(a) 第二段階:「人間」と「非人間」は同じものを表示できない

第二段階では第一段階の帰結と思しきものが導かれる:

οὐ δὴ ἐνδέχεται τὸ ἀνθρώπῳ εἶναι σημαίνειν ὅπερ μὴ εἶναι ἀνθρώπῳ, εἰ τὸ ἄνθρωπος σημαίνει μὴ μόνον καθ᾽ ἑνὸς ἀλλὰ καὶ ἕν. (1006b13-15)

二つ奇妙な点がある.第一に,表現 "τὸ ἀνθρώπῳ εἶναι" および "μὴ εἶναι ἀνθρώπῳ" について語られているが,これらは普通の指示表現とは言えない.しかし単に τὸ ἀνθρώπῳ εἶναι が μὴ εἶναι ἀνθρώπῳ と本質的に異なるというだけの話だと考えれば,それほど奇妙ではない.第二に,この主張は次のように定式化できるが:

  • (19) 'N' が一つのものを意味表示する → ¬◇(「N にとってのあること」と「N にとってのあらぬこと」が同じものを意味表示する)

これが全体の議論にどう効いているのか分からない.というのも,(19) の実例を挙げた後,アリストテレスは「「人間」と「非人間」は同じものを意味表示するか」ということを全然別の論点として考えているように見えるからだ.

τὸ δ᾽ ἀπορούμενον οὐ τοῦτό ἐστιν, εἰ ἐνδέχεται ἅμα τὸ αὐτὸ εἶναι καὶ μὴ εἶναι ἄνθρωπον τὸ ὄνομα, ἀλλὰ τὸ πρᾶγμα. (1006b20-22)

彼の議論はこうである.結論は次の (20) である:

  • (20) (g) 'N' と 'not-N' が同じものを意味表示する → (h) 「N にとってのあること」と「N にとってのあらぬこと」が同じものを意味表示する.

これを次のように論証する.

  • (21) (g) 'N' と 'not-N' が同じものを意味表示する → (i)「N にとってのあること」と「N にとってのあらぬこと」が同じ定義を持つ.
  • (22) 「N にとってのあること」と「N にとってのあらぬこと」が同じ定義を持つ → (j) N にとってのあることと N にとってのあらぬことは同じものである.
  • (23) N にとってのあることと N にとってのあらぬことは同じものである → (h)「N にとってのあること」と「N にとってのあらぬこと」が同じものを意味表示する.

そして (h) の否定 (1006b28) から (g) の否定が出る.(h) が否定されたのは (19) をおいて他にない.(19) が第一段階から出てくる限りで,(h) は偽だと (弱い意味で3) 既に示されている.――という風に考えない限り,(19) の意味はよく分からない.

この時点でも Code の補助命題は確立されていない.ここの議論も表現のもっぱら意味表示に関わり,意味表示についての信念には関わらないからだ.

(c) 第三段階: PNC の証明

ἀνάγκη τοίνυν, (a) εἴ τί ἐστιν ἀληθὲς εἰπεῖν ὅτι ἄνθρωπος, ζῷον εἶναι δίπουν (τοῦτο γὰρ ἦν ὃ ἐσήμαινε τὸ ἄνθρωπος)· (b) εἰ δ᾽ ἀνάγκη τοῦτο, οὐκ ἐνδέχεται μὴ εἶναι τότε τὸ αὐτὸ ζῷον δίπουν (τοῦτο γὰρ σημαίνει τὸ ἀνάγκη εἶναι, τὸ ἀδύνατον εἶναι μὴ εἶναι ἄνθρωπον)· οὐκ ἄρα (c) ἐνδέχεται ἅμα ἀληθὲς εἶναι εἰπεῖν τὸ αὐτὸ ἄνθρωπον εἶναι καὶ μὴ εἶναι ἄνθρωπον. (1006b28-34)

議論は実例によるものの実質的には一般的である.(a) は必然性のスコープにより二通りに解釈できる:

  • (24a) 'M' が T を意味表示する → □∀x(Mx→Tx)
  • (24a') 'M' が T を意味表示する → ∀x(Mx→□Tx)

〔中略: Wedin (1999) と同じ議論.〕いずれで取るにせよ第一段階で働いていた意味表示概念が用いられる.(18) より (18a) の方がいい理由がここで分かる.様相的負荷のかかった意味表示概念が (24a)/(24a') に必要だからだ.

7. どのようにして PNC の範囲を拡張するか

〔省略: Wedin (1999) と大筋で同じ議論.驚くべきことに Wedin (1999) は全く引用されていない (Wedin (1982) には言及がある).〕

8. 不可疑性証明再訪: 補完の戦略

〔省略: Wedin (2004) §6 とほぼ同じ議論.ここから論駁的論証が不可疑性証明を補完する必要はないという結論が出る.〕

9. 不可疑性証明の標的を向け変える

〔これも Wedin (2004) §6 冒頭と似た議論だがやや詳しい.また結論も少し違う: Wedin (2004) では Cooper-Charles 解釈は斥けられる.〕Cooper と Charles は Γ4 冒頭の ὑπολαμβάνειν οὕτως が ἐνδέχεσθαί に支配されていない読み方を提案する.この場合 Γ3 を実例解釈で取る余地がある.Cooper は「強固な原理はその否定を信じ得ないのではなく,それが排除する諸実例を信じ得ないだけだ」と論じる4.ありうる選択肢で以上の議論とも平仄が合うが 1006a4-5 との整合性が気がかりである5

10. 論駁的論証に関する最終的な考え

ウカシェヴィチは第二段階の議論に対して懸念を表明する: (g) の拒否は modus tollens により,それゆえ論点先取に見える.――だがここで論じられているのは PNC の存在論的ヴァージョンであり,その限りで論点先取ではない.

また K1 の位置づけに関する問題に戻ると,テクストを厳密に読むなら帰結は ¬◇∀x(Fx∧¬Fx) であるように見える.論駁的論証が事例に基づいて進んでいることに鑑みれば,この点もうまく処理できる.

11.Γ4 の残りの諸証明: 帰謬法か,それとも「悲鳴」論証か

残りの論証は全て PNC を結論とする帰謬法と見なされ,それゆえ論点先取の非難を受けてきた.だが実際は PNC が結論となっていない (一つを除いて言及さえしていない).これらはむしろ ¬PNC の帰結 q のおかしさ (!q) から ¬PNC のおかしさ (!¬PNC) を示す議論であり (! は悲鳴のサイン (shriek sign)),真理値を云々するものではない.説得的効果を除けばなんら論点先取ではない.むしろアリストテレスの議論は帰謬法を用いないよう意を配っている.


  1. 無敵論法すぎる.

  2. 原注27: ‘πᾶν’ は独立の論証であることを示唆する (強い PNC 否定への疑義であると理解できる).だが論駁的論証の一部と見なすべき別のテクスト上の根拠が存在する (134n40: 1006b11-13 がそれ.「何かを意味表示する」と言っているのは K1 だけである.).〔だが,これは尤もらしくない.直後の ἔτι が独立性の強い証拠になるからだ.議論の要約と議論そのものを ἔτι で繋いでいるとするのは意味不明である.さらに ‘δῆλον ὡς τοῦτό γ᾽ αὐτὸ ἀληθές’ という導入も別個の議論であることを強く示唆する (τοῦτο が論駁的論証そのものならこの時点では δῆλον とは言えない.γάρ 節などが後に続いているわけでもない).これらの点に Wedin は言及していない (p.135 では ἔτι を訳し飛ばしている).また注40の証拠もそれほど強いものではない.そういうわけで,この点については Wedin より Kirwan が正しいように思える.ただし見た目の並行性は否定できない.〕

  3. “But it is an aattenuated sense at best, especially in the light of the fact that in expressly rejecting (h) Aristotle appears to regard (g) as the prime target at this point in the argument” (138). 正直あまり意味が分からない.

  4. これは個人的に完全に賛成.自分の論文では 153-4 の引用を孫引きする必要があるだろう (公刊著作の文章ではない).

  5. だが Cooper 解釈を取るなら問題はなさそうに思われる.