論駁的論証の背後にある意味表示の理論 Charles (2000) AME, Appx. 1

  • David Charles (2000) Arisotle on Meaning and Essence, Oxford University Press.
    • Appendix 1. Aristotle on the Principle of Non-Contradiction. 373-378.

これは必読だった.明らかに σημαίνειν 概念そのものが議論の肝なのだから,こうした前提と帰結の立ち入った検討が必要だと思う.


Γ3-4 の議論は名辞とその意味表示の理論に基づいている.本書 2-6 章の議論と結びつけて議論する.

Γ4, 1006a31-4 の議論は次のようなものに見える:

  • (1) 「人間」は一つのもの (例: 二足の動物) を意味表示する.(前提)
  • (2) 何かが人間なら,二足であることは〈人間であるとは何であるか〉である.(1 および一つのものの意味表示に関する理論より)

2章と4章から (1) は理解できる.「二足の動物」は「人間」が意味表示するものについての第一段階の完全な説明でありうる (APo. II.8, 93a24).すると,この説明は何らかの非付帯的な特徴を特定していることになる (このことは名前と説明規定が同じ意味を持つために必要).そうした説明規定は「一つのものに一つのものを非付帯的に述定する」(APo. II.10, 93b36-7).「人間」が真正な (実例をもつ) 種なら,完全な説明は「二足であることが動物に属する」として表せる.この種の説明規定は,現実に真正の種があることを要求する.

アリストテレスは,語が一つのものを意味表示するということを,語と相関するただ一つの第一段階的な説明規定が存在するということから特徴づける:

  • 「人間」は「二足の動物」と同じものを意味表示し,他のものを意味表示しない.

これは「人間」の意味表示の説明規定が当の種の示差的な本性の一部を特定していることを要求する (cf.「白い」は一つのものを意味表示できない.「山羊鹿」も同様).

「人間」が意味表示するものは (i) 「人間」と同じ意味表示を有し,(ii) その種の非付帯的な特徴を特定する.意味表示の同一性は,人間 (意味表示される種) が特定の非付帯的特徴をもつことに依存する.このようにしてアリストテレスは (1) から 現実世界に関する主張 (2) へと移行できるのである.というのも,ここで意味表示の同一性に関する彼の基準は種の本性に関する主張に依拠しているからだ.

なお注意すべきは,名前および相関する説明規定が同じ意味表示を持つとしても,そこから「人間」が人間の本質を意味表示することは帰結しないということだ.アリストテレスが述べているのは以下である:

  • (3) 「人間」は一つのものを意味表示しており,それは「二足の動物」が意味表示するのと同じものである.
  • (4) 「A」と「B」が同じものを意味表示する iff. 二足の動物であることが人間であることの一部をなす1

だがこれらから「人間」が〈人間であるとは何であるか〉を意味表示するということにはならない.むしろ「人間」が種の示差的特徴ではなく種そのものを意味表示すると考えてよい.実際,示差的特徴を意味表示するとするには以下の前提が必要だが:

  • (5) 非付帯的特徴をもつ種を意味表示するとは,その非付帯的特徴を意味表示することだ.

しかしどこにもこんな論争的なことは言われていない.

先述の議論からは2つの問題に光が当たる:

  • 語の意味表示に関する第一段階の説明は,その種の実在を知ることなしに把握できる.だから「何かが人間なら」(1006a33) という一句は不思議ではない.
  • 「人間」の意味表示の説明は人間の非付帯的特徴を特定するが,本質を特定するわけではない.「二足の動物」はまさにそうした例である (H3, 1043b2-4).「何であるか」という句が本質以外の特徴に拡張されているのも不思議ではない.実際 1006b13ff. では似た語句によって,人間でありはしないとは何であるかという (本質を持たない) 事柄が特定されている.

要約すると,アリストテレスの議論は以下の前提に基づいている:

  • (A) 「人間」は一つのものを意味表示する.
  • (B) 「人間」が一つのものを意味表示するためには,「人間」が,その後の意味表示するものの,ある種の説明規定と相関しうる必要がある.
  • (C) 「人間」が意味表示するものの説明規定は,その種の実在ないし本質を知ることなしに把握できる.

(A) (B) は「人間」がある本性をもつものを意味表示することを必要とし,(C) は意味論的浅さを必要とする.

Γ4 の問答法的文脈では (C) が重要である.というのも,以下の (D) を拒否する論敵にも有効であるべきだからだ.

  • (D)「人間」は人間の本質を意味表示する.

そしてむしろ (E) を保持する人間に対して有効でなければならない.

  • (E) 「人間」は本質をもつものを意味表示する.

(D) が前提になるとすると効き目は弱いだろう.(E) は浅い.アリストテレスは λογικός な水準で論駁を行っているのであり,意味論的に深い前提を回避しなければならない.

それでも前提 (A) (B) は以降の議論で効いている.1006b28ff. では以下のように論じられる:

  • (6)「人間」は「二足の動物」を意味表示する (前提).
  • (7) 何かが人間なら,人間は必然的に二足の動物である (∵ (6)).
  • (8) 人間が二足の動物でないことはありえない (∵ 必然性の定義).
  • (9) 人間が人間でないことはありえない (∵ (7), (8)).
  • (10) 同じもの (viz. 種) が同時に人間でありかつありはしないことはありえない (∵ (9)).

(6) から (7) への移行は前提 (A) (B) が支持する.「人間」が何を意味表示するかの適切な説明は,非付帯的特徴のみを特定するものである.真正の種があるなら,それは非付帯的に二足である.種は基礎的本質を持つだろうが,本質が意味表示の説明で言及される必要はない.

(A) (B) へのコミットメントは他の箇所でも見られる:「人間」が一つの真正な種を意味表示することを疑う人々 (1007a20-2, 34-5) は「実体と本質を破棄している」(a20-1).なぜそんな極端な立場に陥るかというと,(A) (B) を受け入れた上で「人間」のような語が一つのものを意味表示することを拒否すると,それらが真正の種を意味表示することに完全に失敗せざるを得ないからだ.論敵の理解では「人間」は「白い」と同様の仕方で意味表示する.その場合,一つのものを意味表示する実際の事例はなくなってしまう.全ての述定がそのように付帯的なら,第一の基礎に置かれるものもなくなる (1007a33ff.).すると主語を持つはずの文は各々に付帯的に言われる部分に分解される (1007a35-b1).しかしこれは不可能である (1007b3-5, 15-16).―― (B) がつねに議論の基調をなしている.

さらに,「人間」が付帯的な仕方で種を意味表示するのだとすると,この語はその時の意味表示を保持したまま他のものに適用されなくなってしまう.しかし「似せること」(cf. 4章) による相関とともに,種の同一性により名前の意味表示が固定されるのであれば,意味表示の保持がなければならない.名前がいろいろの異なる種に「似せられる」のだとすると,名前は一定にならないからだ.こうした点で,「一つのものを意味表示する」ことに関する議論と,意味表示の確定の仕方に関する彼の議論は平仄が合っている.


  1. 意味が分からない.右辺の「二足の動物」および「人間」が「A」と「B」の間違いなのではないか.