『後書』II.8-10 の三段階説 Charles (2000) AME, Chap.2.

  • David Charles (2000) Arisotle on Meaning and Essence, Oxford University Press.
    • Posterior Analytics B.8-10: the Three-Stage View. pp.23-56.

2.1 導入

APo. II.10, 93b29-94a141:

[A] 定義 (ὁρισμός) は「何であるか」の説明規定であると語られるので,定義の或るものは「名辞,または他の名辞的な言葉 (λόγος ὀνοματώδης) が何を表示するか」の何らかの説明規定であるだろう.例えば,「三角形は何を意味表示するか」の.[B] 「ある」こと (ὅτι ἔστι) を把握しているとき,「何ゆえであるか」をわれわれは探究する.他方,「ある」ことを我々が知らないものどもをこの仕方で捉えるのは難しい.この難しさの原因は既に述べられた.すなわち,あるかあらぬかも,付帯的にでなければ,我々が知らないからである.[C] 説明規定は二通りの仕方で「一つ」であり,一方では,ちょうど『イーリアス』のように,繋ぎ合わせによって,他方では一つのものに関して一つのことを付帯的でない仕方で明らかにすることで,一つなのである.

[D] 上述の定義は定義 (ὅρος) の定義の一つであるが,別の定義は,「何ゆえにあるか」を明らかにする説明規定である.したがって,前者は意味表示する一方で示しはしないが,後者は「何であるか」の論証と同様でありつつ,論証とは位置の点で異なるだろう,ということは明らかである.[E] というのも,「何ゆえ雷が鳴るのか」を述べるのと,「雷鳴とは何か」を述べるのとは,異なるからだ.というのも,前者の仕方で,「なぜなら,火が雲の中で消えるからだ」と言うが,「雷鳴とは何か」「雲の中で消える火の音」だから.したがって,同一の説明規定が別々の仕方で語られるのであり,特定の仕方では連続する論証だが,特定の仕方では定義なのだ.[F] さらに,「雲の中の音」という雷の定義がある.これは「何であるか」の論証の結論である.[G] 無中項のものどもの定義は,「何であるか」の論証不可能な措定である.

[H] したがって,定義の一つは「何であるか」の論証不可能な説明規定であり,一つは「何であるか」の推論であって,語形変化によって論証と異なるものであり,第三に「何であるか」の論証の結論である.

2.2 三段階説の最初の証拠: II.10 の [A] [B]

[A] [B] は探究を三段階に分けているように見える:

  1. 名辞・名辞的な言葉が何を表示するかを知る.
  2. 表示されるものが存在することを知る.
  3. 表示されている対象・種の本質を知る.

1 が達成され 2 が達成されない例: 対象・種がないかもしれない場合 (e.g. 山羊鹿),種があるかどうか (まだ) 分からない場合.また 2 において非付帯的な知識を持っていないと 3 に移行できない2.この三段階説からは,2, 3 の知識 (および,2 より,本質があるかどうか) が 1 の知識の本質的な部分でないことが直ちに帰結する.

2.3 II.10 の第一文

第一文の推論には,次の前提がある:「何であるか」の説明規定の一種は,「何を表示するか」の説明規定である.この前提は,伝統的には次のように理解されてきた:「三角形とは何か?」は「「三角形」とは何か?」として理解され,これが「「三角形」は何を表示するか?」と等価である (cf. I.1 71a13-15, II.7 92b32-4).

この伝統的解釈は正しい.だが,APo. II を通じて定義は〈あるもの〉に限定されている,という問題がある (II.7 92b26-8; cf. II.3 90a36, b16-17).ゆえに解釈は二通りありうる: II.10 では広義の「定義」を追加で認めているというリベラルな解釈 (伝統的解釈),または,これを認めていないという制限的解釈.後者によれば,第一文の推論の前提は,むしろ「何であるかの説明規定は,何を表示するかの説明規定と一致する場合がある」ということになる.――そして,制限的解釈はさらに二通りに分かれる: 何を表示するかの説明規定の知識は存在することの知識を (1) 含まないか,(2) 含むか.後者なら現代の本質主義に接近するが,前者のみが三段階説に整合的.

以下,次のように論じることでリベラルな解釈を擁護する.(A) アリストテレスは三段階説を採用しており,(B) 第一段階の説明規定は他の種類の定義とは内容上異なっており,(D) 何を意味表示するかの説明規定は何らかの意味で定義的である.―― B.10 の最初の一節は (A) (D) を支持する:

  1. 制限的解釈の場合,「何を表示するか」の範囲に制限がかかることになるが,これは B.7 からの文脈にそぐわない.
  2. リベラルな解釈の場合,「何を表示するか」が「何であるか」の事例となることは容易にわかる.他方,「種が何であるか」の事例となるかどうかは判然としない (B.7 では否定的).
  3. 「であると語られる」という言葉づかいは制約緩和の意図を示唆する.

以下,この解釈が B.8-9 および B.10 の残りと整合することを示す.

2.4 II.10 の [B] 節: 三段階説の展開?

[B] 節は II.8, 93a20ff. を承ける.両箇所とも「存在することを非付帯的に知らなければ「何であるか」は規定しがたい」と主張する.II.8 では付帯的知識も存在についての完全な無知とは区別されるが.II.10 では区別は潰れる (非付帯的知識とそれ以外の区別が論点だから).

三段階説の示唆するモデルでは,非付帯的知識は次のように獲得される: 第一段階で種が (存在する場合) 特定の性質を持つことを知り,第二段階で実際に非付帯的にその性質を持つことを知る.つまり「何を表示するか」が探究の踏み台になる.II.8, 93a21ff. もこの解釈を支持する.第一段階の知識がどこから来るのかについては Phys. IV.7 の「空虚」の例が参考になる (これは第二段階の知識に達しない).また APo. II.8 の 2R も第一段階の事例となる.

2.5 [C] 節: 93b35-7: 第一段階の諸相

[C] による「一つ」の二分類は,「雲の中の音」のような自然な統一性と,『イリアス』のような (あるいは「山羊鹿」のような) 人為的統一性を区別している.この分類は,「なぜ」の探究へと導く非付帯的述定と,それ以外とを区別する役割を果たす.

2.6 [D]-[G] 節: 93b38-94a10: II.10 のリベラルな解釈のさらなる擁護

(i)「何を表示するか」の説明規定に,まず (ii)「何ゆえにあるか」の説明規定が対置される.前者は「雷」の意味に関わり,種を特定しきっていない.後者は雷の本性に関わり,種を特定している.次いで,(iii)「雲の中の音」という定義が導入される.(i) と (iii) もやはり異なる: 対象が意味か自然本性か,存在の知識を必要とするか否か,特定の種を指すか否か.また最後に (iv) 無中項の措定が付け加えられる.これも (i) とは異なる.

2.7 [H] 節: 94a11-14: アリストテレスによる II.10 の要約

[H] 節の要約は三種類にしか言及しておらず,上記 (i) を含まない.(i) は論証に関係せず,意味表示に関わり,それゆえ特定的でない点で他と根本的に異なるからだ.

2.8 暫定的結論と懐疑的反論

以上,2.3 の (A) (B) (D) を支持する議論を行った.この解釈は 5 つの前提に依拠している.以下,各々に対する想定反論を検討する.

  1. 「何を表示するか」の説明規定の把握は,存在・何であるかへの確立へと進むのに充分である (一種の踏み台になる)
    • 想定反論: 93a20-8 は第二・第三段階を問題にしており,「踏み台」は第一段階に限定されない.
    • 応答: しかし少なくとも 93a30-6 には第一・第二段階の区別が見られる.
  2. 「何を表示するか」の説明規定は全て定義である
    • 想定反論:「山羊鹿」の表示の説明規定は定義ではない (cf. II.7).
    • 応答: 本書の次章を参照.II.7 はアポリアー的であり前提が保持されているとは限らない.
  3. 「何を表示するか」の説明規定の把握が,「物についての何か」を把握することである
    • 想定反論: II.8 の議論は意味表示について何も言っておらず,II.10 の議論とは無関係.
    • 応答: すると「何を表示するか」の説明規定の役割と本性が不明瞭になる.実際,三角形の例は II.8 を明示的に承けている.
  4. 「何を表示するか」の説明規定の知識は,物の存在の知識を伴わない
    • 想定反論: 日常的水準での存在の知識は欠けておらず,(93a30-6 の主題である) 科学的水準に達しないだけとも理解できる.
    • 応答: II.8 の文脈からはそうした区別は読み取れない.
  5. 雷を「雲の中のある種の音」と考えるとき,物についての何かを一般的に把握することができる
    • 想定反論: 意味表示だけでは充分特定できない可能性もある.
    • 応答: 外延を決定する全情報が第一段階で得られる必要はない.

2.9 意味論的深度

以上論じたように,種が本質を持つことは第一段階で知ることはできない.だが,「種が存在するとき,種が本質を持つ」ことを知ることはできるか.この点は II.8-10 だけからは何とも言えない.言えるのは何らかの因果的構造があるということまでである.アリストテレスの説明にはギャップがある.

2.10 アリストテレスの説明におけるさらなるギャップ

さらに,名辞の表示がどうやって決まるのかも直接的には述べられていない.この点は 4-6 章で論じる.また,定義と論証がなぜ密接な関係をもつか,それはどんな関係で,どんな理論的基礎をもつのかも問題である.これは第II部 (7-13章) で論じる.


  1. 拙訳.

  2. [B] をこう読めるかは要検討.「「ある」ことを我々が知らないものども」がどの程度のことを意味するかによる.