意味と本質の隔たり Dancy (1975) Sense and Contradiction, Ch.VI

  • R. M. Dancy (1975) Sense and Contradiction: a Study in Aristotle, D. Reidel.
    • Chapter VI. On Sense and Essence. 116-141.

終章.


本書の主題の一つは主項と述定の区別であった.例えばクレイニアスと「人間」「青白い」は違う.だがさらに,「人間」と「青白い」にも違いがある: 前者はクレイニアスについて偽ではありえない.後者の区別が Γ4 のソフィスト的混乱を扱うのに必要である.これを I-II 節で論じる.一方,この区別が単なる言語についての事実ではなく「形而上学的」事実であるというアリストテレスの考えは誤っていたということを III 節で論じる.

I. 主項と述定,本質と付帯性

論敵の「超本質主義」は無矛盾律の「保留」(suspension) に導く (ディオニュソドロス).いわく,矛盾する言明は別々のものについて述べているのである.また超本質主義を発展させて矛盾が同じものについてであると認めると無矛盾律の拒否が導かれる.いずれにせよ客観的実在に関する超付帯性主義へと導きうる.すなわち,ディオニュソドロスの立場では「何ものもそれ自体でありはしない」(i.e., 思考者・観察者に相対的である).一貫したプロタゴラス主義者なら全てが主観的だと論じることになる.だがうっかり客観的なものを認めるなら,いかなる特徴も本質的でないと言わねばならなくなる.そして論敵は実際にこの過失 (slip) を犯している.

これらの人びとを整理するには (1) 述定と主項を区別しなければならない.またとりわけ,(2) 述定が主項と独立に様々でありうる (vary independently) ことを可能にする区別が必要である.(1) と (2) は別のことだが関連している.

この区別をアリストテレスイデア論から受け継いでいる.ソクラテスは (初期対話篇によれば) まず様々なものとそれらについて真である述語とを区別した.(a) Euthp. では前者 (敬虔なあれこれ) でなく後者 (敬虔さ) が探究されている (5-6).他方 (b) Hipp. Maj. では「美しい娘」が女神に比べれば醜いとされる (289).この (a) と (b) は別の論点である: (a) の仕方では「美しい」と共外延的でない任意の定義が排除され,(b) の仕方では本質的に美しくないものが排除される.これらの論点の混合はイデア論にも受け継がれている (Phd. 74a-5, R. V, 476-80).一方でプラトンは述語とそれが当てはまる諸対象を分け,後者にイデアを措定する (R. X, 596a6-7).他方でしかし,「指」などにイデアを措定する必要はないとも論じる (523b1-2; cf. Parm. 130c).また,「シミアスは背が高いが,シミアスであるがゆえに高いわけではない (パイドンよりは背が低いから)」ということのゆえに,彼と高さは区別されねばならない (Phd. 102b-c).

イデアについて』の断片から,述定と主項の区別がイデア論に由来することがわかる.アリストテレスはより一般的な理論をプラトン主義者に帰している: 考慮 (b) は Parm. で挫折し Sph., Phlb. では抑圧されており,したがって「多の上の一」や「思考からの議論」1のような任意の述語に当てはまる一般的議論しか残っていない.そうした議論はイデアの存在を示してはおらず,様々なものとそれに述定されるものとの区別を示すに過ぎない.その場合,本質的述定はどうなるのか,が問題である.

SE 5, 166b28-36 における詭弁の批判は主項と述定の鋭い区別を規定する.詭弁はこうだ: (a) ソクラテスは人である,(b) コリスコスはソクラテスと異なる,ゆえに (c) コリスコスは人と異なる,(d) コリスコスは人である,ゆえに(e) コリスコスは自分自身と異なる.アリストテレスの診断では,(a) の「人」はソクラテスの「付帯性」に過ぎないために「コリスコスは _ と異なる」に当てはまらない (ゆえに (c) は出ない).同様の理由で (c) (d) から (e) も出ない (cf. 179a35-b1).というわけでこれもイデア論者と同じくらい一般的な議論である.

他方で先述の通り Γ4 では本質と付帯性が区別されていた.しかし彼の実際の言い方は "ἀεὶ τὸ συμβεβηκὸς καθ᾽ ὑποκειμένου τινὸς σημαίνει τὴν κατηγορίαν" である.要するに〔主項/述定と本質/付帯性という〕二種類の区別を区別しきれていない.その理由は,述定の究極的主項という実体の基準を保とうと試みていることにある.

一方で APo. I.22 や Top/ I.9 では「自体的」述定と付帯性を区別している.「それ自体に」述定されると言う動機の一つはプラトニズム批判である.実際 SE 22 の第三人間論は離在ではなくイデアが「これ」であることに問題を見る (だが Met. M9, APo. I.11 はまた別の議論をする).いずれにせよ述定と主項の違いはプラトニズムを避けるためにアリストテレスが適切な定式化を捜し続けた事柄だと言える.

さて一方で付帯性については述定と主項の区別には問題がない,とアリストテレスは考えていた.白いものは白い他の何かである (APo. I.22).

ここに問題がありうる――人が白いことが「白さ」の存在に依存するなら,その依存関係がプラトニズムを呼び起こしうる.これに対してアリストテレスは,ものと本質を同一視することで答える:「人間」が表示するものは「人間」がそれについて真であるものと同じである.しかしここには,「人間」は数多くのものについて真であるという問題がある.Z13 はこの問題に取り組んでいる.

アリストテレスはむしろ本質的述定と「それについて真であるもの」を区別し,次のように言うべきだったのだ:「それについて真であるもの」は究極的主項であり,究極的主項とその本質の存在は相互依存的である.人間の本質は個々人の本質ではなく人間に依存する.青白さの存在は青白いものの存在に依存するが,逆は真ではない.実際 Z11, 1037a33-b4 は不明瞭ながらこの方向性を示している.

そう言っていれば少なくとも Γ4 の混乱は免れた.Γ4 では論敵に「一つを意味表示する」と「一つについて意味表示する」の区別を受け入れるよう要求している.アリストテレスは論敵にその述定が様々な場合に様々なものに同じ意味表示とともに適用されうることを示していた.それゆえアリストテレスは,「それが意味表示するものとは,それについて真なるものである」と言う位置にはないのだ.

II. 本質と虚偽

アリストテレスは超本質主義者ではないが本質主義者ではある.それゆえ実は論敵と同じ問題をいくつか抱えることになる.

Δ7 では真理としての「ある」/虚偽としての「あらぬ」が語られる.そこで挙げられている例は専ら複合者 (教養あるソクラテス) である.だが単純者 (ソクラテス) についても専ら真理があるとアリストテレスは言いたい.実際 Θ10 ではそう言われている.Θ10 で単純者と同定されているのは本質であり,それについては虚偽はありえない (無知のみがある).

アリストテレスが考えているのは次のようなことだ.「ソクラテスがある」とは「人間である」ということだ.ゆえに「ソクラテスが戦艦である」と考えることはできない.そうした思考はそもそもソクラテスについてのものではないのだ.誤りはもっぱら付帯的な仕方でありうる (e.g., シートにくるまれたものをソクラテスだと思ったものの実際には帽子掛けだったとき,この考えは付帯的にのみソクラテスについての誤りである).

しかしそうすると,「X とは何か?」の答えは「X」の意味だけからは分からないことになる.Γ ではこのことを無視している.だが他の箇所ではきちんと述べている.

III. 言葉と本質

アリストテレスは (1) 語が有意味なら定義を持ち,(2) 語が有意味ならそれに対応する本質がある,と考えている.もし後者が前者の書き換えにすぎないなら (本書は第二論駁をそう解釈した),同じ考えによって議論を掘り崩しうる.

しかしアリストテレスは,一般には,有意味なら本質があるとか,何であれ有意味な語の定義が本質を示すとか言おうとはしない.APo. II.10 では定義の諸種が区別されるが,論敵に要求されるのはそこで言う「名前の意味表示」である (i.e., 山羊鹿 (II.7) などを含む名目的定義).そしてこれとは別に,「何ゆえに」を示す (論証と語形の点で異なる) 定義がある (実在的定義).実在的定義はものの本質すなわち説明上の核を与える.

この区別はロックに受け継がれたものである.ただし相違点として,第一に,アリストテレスはロックほど実在的定義を得る我々の能力について懐疑的でない.そして第二に,ロックは実体ならざる単純観念については実在的/名目的定義は区別されないとする.アリストテレスも両者が区別されない対象の存在は認めるが,それは彼の場合は第一の非複合的な実体の場合である (無中項なものの定義)2

そして,月蝕や雷のような「出来事」を説明する論証についての論と,実体についての論を関連付けるのは容易でない.曰く,出来事についての研究はまず基礎に置かれる実体を見つける必要がある (H4, 1044b8-20).「なぜそれが起きたのか?」は本当のところ「なぜそれがそれに帰属するのか?」という問いである (Z17, 1041a10-11).だが第一実体を扱うときはそのような問いの形式にはならない.第一実体は同時にその本質であるからだ.なるほど人間は諸々の生物学的過程ゆえに存在するのかもしれない.しかし基礎にあるものはあくまで単なる人間である.

というわけで,まさに実在的/名目的定義が必要なものとロックが考えた実体において,アリストテレスはそうした区別を適用不能とみなす.アリストテレスは,自然種はしばしば名目的定義ができなそうに見える,ということに訴えうる (e.g., OED の 'swan' の名目的定義は,白鳥の諸特徴を述べるものであり,「白鳥」と同義的ではない).

しかしそう言ってしまうと,第一論駁の (1)「必然的に,何かが人間なら,それは二足の動物である」のような必然的真理をどう得るかが問題になる.'Bachelors' や 'vixen' の場合は容易である (ために哲学者のお気に入りである) が,たいていの場合はそれほど容易ではない.同様に「二足の動物」も「人間」の意味とは言い難い.仮に我々が突然変異を起こしたからといって「人間」の意味は変わらないだろう.

だとすると,「人間」が何かを意味すると論敵が譲歩しても,「人間」が名目的定義を有することは保証されない.――これは chap.2, sec.II-III の論点であった.

しかし,アリストテレスが論敵に要求しうるのは,せいぜい名目的定義のみである.アリストテレスは実体について二種類の定義を区別していないが,それに近い区別として,語が有意味であることと,それが表すものを何らか特徴づけうることとを区別する必要はあろう.しかしアリストテレスはそうした区別もしていない.

仮に「二足の動物」が「人間」の実在的定義だとすると,(1) を支持できるだろうか.おそらく注意深くやれば可能である.単に我々が完全に間違っているとしよう.アリストテレスは過誤がありえないと考えたが,その考えは有意味性と実在的定義の可能性の混同に基づく (この混同はさらに主項-述定の区別と本質-付帯性の区別の混同に基づく).人間が突然変異を起こした場合は厄介だが,六足の人間が生じて,それをも「人間」と呼ぶとしても,やはり二足の人間の子孫という仕方で「二足の動物」が説明上の核をなす,と言えるかもしれない (があまり自信はない).ともあれ,歴史の中で多大な変化が生じうるという点に考えが及ばなかった点で,アリストテレスは我々と非常に隔たっているのである.


  1. ‘Argument from thinking’. これが何を指すのか知らない.

  2. 大変わかりやすいが,こういう整理をしている人はいるんだろうか.Charles がどう言っていたか確認したい.