論敵の混乱の核 Dancy (1975) Sense and Contradiction, Chap.IV

  • R. M. Dancy (1975) Sense and Contradiction: a Study in Aristotle, D. Reidel.
    • Chapter IV. The First Refutation: The Treatment of Antiphasis. 74-93.

I. 矛盾について

矛盾とは何であるかという点で論敵とアリストテレスは一致しているはずである.De Int. 6 によれば,矛盾とは言明がその否定 (denial) と対になったものであり,否定とは,同じ主語について,同名異義性なしに,同じ述語が否定されることである.ただし,この定義だと,いくらか話がややこしくなる (不定称の場合など (De Int. 8)); 問題は「同じ主語 (the same subject)」が単に統語的であることだ.他にも問題はある (主語の単称名辞が複数の対象を指しうる場合,非存在者の場合).

問題を避けるやり方の一つは,矛盾の一方を述語ではなく文の否定とすることだ (cf. APo. A46; De Int. 7, 17b26-33; Γ7. 1011b26-27).だが,De Int. でも Γ でもこの戦略は採られていない.

ここで二点指摘しておく:

  • 論敵による矛盾概念の受け入れは論点先取にはならない: PNC なしに矛盾言明対は特定できる.
  • ただし,この矛盾観は述語付けられる対象と述語の区別を前提しており,この点は論敵にとって問題になる.
    • というのも,偽なる言明がありえないという主張は,語が世界に適用される仕方についての混乱した見方に基づいているからだ.
      • その見方によれば,文の機能はある対象を同定することである.このとき,文が同定する対象がなければ,文は何も同定しない.ゆえに,「クレイニアスは賢い」と「クレイニアスは賢くない」がともに有意味なら,両方が賢いものと賢くないものを同定していることになる.論敵によれば,両方の文は同じものを同定しており,一方は他方と矛盾している.そして,両方が真である.
      • しかし,同じものに異なる述語が述定されるという事実によって,言われる対象 (what is being talked about) が言われること (what is said about it) によって異なるという考えは阻まれる.APo. A33 が類似の論点を示している.

したがって,言われる対象と言われることの区別を論敵に理解させる必要がある.すなわち,これを区別しないことで大失敗させる.

II. 発話することと意味表示すること

アリストテレスは論敵に何かを言わせようとするが,何かがかくあるとか,かくありはしないと言うことは要求していない.そのような要求は論敵には論点先取だと思われうる.なぜかというと,論敵にとっては「それが人間である」と規定する仕方で言うのは,ミスリーディングか,またおそらくは偽であるからだ.彼の立場は曖昧であり,曖昧にされているのは「それは人間であり,かつ,ありはしない」と「それは人間でない以上に人間であるということはない」との区別である.この曖昧さは PNC の拒否に内在的ではない.むしろ,プロタゴラスヘラクレイトスの遺産である.それゆえアリストテレスの方も,論敵の見解を様々な見解の束として扱う必要が出てくる (彼自身は諸見解を区別している).

他方,(S):「人間は何かを意味表示する」は認められる.これを認めなければ PNC の拒否さえ可能でない.そしてこれを認めるには,「人間」という発話 (U) 以上のコミットメントを必要としない.(S) は実際に何かが人間であるかどうかには一切無関係である (cf. De Int. 3-4).この時点で論敵は,真偽が生じるレベルで語を適用することと,語に意味を認めることとの区別を認めている.これは論敵に矛盾の観念を認めさせる前述のやり方と似通っている.

III. 意味表示することと定義すること

次いで論敵に「「人間」は二足の動物を意味表示する」(almost-D) および「「人間」が意味表示するのは二足の動物である」(D) を認めさせることになる.実際のところ,すでに (almost-D) の時点で論敵にとって問題である.一旦これを認めると,もはや「語が何を意味表示するかは言えない」とは言えず,約定を認めねばならなくなる.

論敵の病がどのようなものかは,論敵の擁護論を組み立ててみればわかる.すなわち,「x が 人間であるなら,何かが人間であるとき,それはある x である」と言いうる x が存在しないという主張を擁護してみよう.――「人間」が一つのものを意味表示するとは,「人間」が様々な場合で別々の個体に適用されたとき,同じ意味を持つ,ということだ.だが,論敵はそう考えない.ソクラテスが人間であり,コリスコスが人間であるとき,ソクラテスとコリスコスは違うのだから,「人間」も違うものを意味表示する.そして実際には「人間」は無数のものを意味表示する.語が有限個で,それらが意味表示する対象が無限個なら (cf. SE 1),どれかの語は無限個の対象を意味表示しなければならない.さらに言えば,人間自体が変化する (今は青白く,後に色黒い,など).したがって,「人間」の任意の新たな適用は,これに伴って新しい意味をもつことになる.

これに対するアリストテレスの応答は:

φανερὸν ὅτι οὐκ ἂν εἴη λόγος: τὸ γὰρ μὴ ἓν σημαίνειν οὐθὲν σημαίνειν ἐστίν, μὴ σημαινόντων δὲ τῶν ὀνομάτων ἀνῄρηται τὸ διαλέγεσθαι πρὸς ἀλλήλους, κατὰ δὲ τὴν ἀλήθειαν καὶ πρὸς αὑτόν: οὐθὲν γὰρ ἐνδέχεται νοεῖν μὴ νοοῦντα ἕν, εἰ δ᾽ ἐνδέχεται, τεθείη ἂν ὄνομα τούτῳ τῷ πράγματι ἕν. (1006b6-11)

最初の λόγος が意味するのは第一義的には argument だが,discourse 一般に関する論点も念頭に置かれている.すなわち,我々のコミュニケーション能力は,異なるものについて同じことを言いうる能力に依存する (Pl. Parm. 135b-c はここからイデア論を擁護する.アリストテレスイデアについて』もこの点を論じていたようだ; cf. Alex. in Met. 81.7-10, 79.15-19).個物と普遍の区別によって,語られている主体と,それについて語られていることとの融合は阻まれる.

以上が「人間」の意味表示に関する約定 (1006a31-32) の背景である.b11 でこれを確認した後,アリストテレスは次のように述べる:

οὐ δὴ ἐνδέχεται τὸ ἀνθρώπῳ εἶναι σημαίνειν ὅπερ ἀνθρώπῳ μὴ εἶναι, εἰ τὸ ἄνθρωπος σημαίνει μὴ μόνον καθ᾽ ἑνὸς ἀλλὰ καὶ ἕν. (b13-15)

すなわち,人間の集合の記述は,それ以外のものの集合の記述と同じものを意味表示しない.しかし,このステップは帰謬法において何の役割も果たさない.もっと言えば,「人間」と「非人間」が同じものを意味表示すると論敵が言っても意味がない (その場合「人間であり,かつ,人間でない」は単なる繰り返しであり PNC 違反とはならない).ではなぜ,アリストテレスはこんなことを言ったのか.

第一論駁の注記において,アリストテレスは論敵に応答させる際の戦略について論じている.

εἰ δὲ μὴ ἐνδέχεται τοῦτο, συμβαίνει τὸ λεχθέν, ἂν ἀποκρίνηται τὸ ἐρωτώμενον. ἐὰν δὲ προστιθῇ ἐρωτῶντος ἁπλῶς καὶ τὰς ἀποφάσεις, οὐκ ἀποκρίνεται τὸ ἐρωτώμενον. οὐθὲν γὰρ κωλύει εἶναι τὸ αὐτὸ καὶ ἄνθρωπον καὶ λευκὸν καὶ ἄλλα μυρία τὸ πλῆθος· ἀλλ᾽ ὅμως ἐρομένου εἰ ἀληθὲς εἰπεῖν ἄνθρωπον τοῦτο εἶναι ἢ οὔ, ἀποκριτέον τὸ ἓν σημαῖνον καὶ οὐ προσθετέον ὅτι καὶ λευκὸν καὶ μέγα. καὶ γὰρ ἀδύνατον ἄπειρά γ᾽ ὄντα τὰ συμβεβηκότα διελθεῖν· ἢ οὖν ἅπαντα διελθέτω ἢ μηθέν. ὁμοίως τοίνυν εἰ καὶ μυριάκις ἐστὶ τὸ αὐτὸ ἄνθρωπος καὶ οὐκ ἄνθρωπος, οὐ προσαποκριτέον τῷ ἐρομένῳ εἰ ἔστιν ἄνθρωπος, ὅτι ἐστὶν ἅμα καὶ οὐκ ἄνθρωπος, εἰ μὴ καὶ τἆλλα ὅσα συμβέβηκε προσαποκριτέον, ὅσα ἐστὶν ἢ μὴ ἔστιν· ἐὰν δὲ τοῦτο ποιῇ, οὐ διαλέγεται. (1007a7-20)

論敵がこのような付加的応答を行いうるのは,(D) の適用の場面に関してである.すなわち,アリストテレスは,どこかの時点で,次のように問わねばならない (cf. a32-34):

  • (QD) 我々は二足の動物を人間としうるのではないか.

これに「はい」と答えるのは,以下の問いに「はい」と答えるのとは異なる:

前者は意味,後者は述定の可否を訊ねているからだ.しかし論敵はこの区別に無知であり,かつ「これは人間である」という任意の確定的な言明をためらうため,次のように答えようとする.

  • (A) そう,それは人間だ.そして,それは人間ではない.

この場面で我々は,それは応答になっていない,と言わねばならない (上記 a7-20).加えて,こう答えることは,「人間」と「非人間」が同じものを意味表示することなのだ.それゆえに b13-15 では,この可能性が退けられているのである.

もう少しミスリーディングでない問い方をして,混乱の責任をいっそう論敵に負わせることもできるかもしれない:

  • (QDs) 我々は「人間」が二足の動物を意味表示するものとしうるのではないか.

すると論敵の応答はこうなる:

  • (As) そうだ,それが人間でないということも念頭に置く限りで.

どちらにせよ同じ混乱を出している.つまり,論敵は述定と意味表示を混同している.この混同を解消するのが b13-18 であり,この箇所は両者の区別を支持する論証をアリストテレスが与えている唯一の箇所である (論証構造は II.IV で論じた).

繰り返すと,人間であることと非人間であることの区別は,「人間」が一つのものを意味表示するという約定から従うと論じられているわけではないアリストテレスが述べているのは,論敵の応答が混同に基づいており,混同が糺されると,もはや論敵にその応答をする用意はなくなる,ということだ.続いてアリストテレスは人間であることと人間でないことが同じでありうる仕方を述べる.それが起きるのは,「人間」が二つの補完的なものを意味表示する場合である.だが,それは PNC の拒否を救いはしない: それは同名異義性に基づいてしか可能でないからだ (b18-22)1

IV. 結論

〔省略.〕


  1. いまいち議論がわからない.「あること」と「あらぬこと」の一致から同名異義性が導けるなら,対偶をとって一義性から不一致が導けると言えるのではないか.そして,少なくともアリストテレスの書き方だと,前者が導けると言っているように思う (“καὶ οὐκ ἔσται εἶναι καὶ μὴ εἶναι τὸ αὐτὸ ἀλλ᾽ ἢ καθ᾽ ὁμωνυμίαν”).