Γ 巻解釈におけるソフィスト的立場の重要性.論駁の性質 Cassin (1989) “Parle, si tu es un homme” #1

  • Barbara Cassin (1989) "Parle, si tu es un homme" in B. Cassin, M. Narcy, La décision du sens, Vrin, 9-60 [here 9-25].

Cassin と Narcy 各々の序論が抱き合わせになっており,その序論の第一部の前半1/3.フランスの言葉で書かれているのでよく分からない部分もあるが,分かる部分は良いことを言っているように思う.特に論駁の性質について多くを学んだ.


Γの解体 (ウカシェヴィチとハイデガー)

「ただ単に,アリストテレスが何かを言おうとしているところを我々が想像するとき,彼が包み隠しているものに我々は不安を覚えるのです.彼は網に何を捕らえているのか,何を引き出しているのか,何を操作し,何を相手にし,誰と戦い,何を主張し,誰に働きかけ,何を追求しているのか」(Lacan (1975) Encore, p.51).この一文はΓ巻のねらいの中心に触れている.

第一に,「何かを言おうとする」(vouloir dire quelque chose) ことが問題になる.λέγειν τι, σημαίνειν τι ということが,アリストテレスが全ての人に要求する「意味の決断」(décision de sens) である.この決断がいわゆる無矛盾律の核心にある.したがってラカンは,アリストテレス的要求を解釈対象としてのアリストテレス自身に反射させていることになる.

第二に,意味が意味を持つのは,特定の反論者との関係において,操作と目的に関してである.Γ4 以降の論駁は,一方で PNC の確立,他方でプロタゴラス説の禁止のためになされる.通常この二つのまとまりは単に並置されたもの (justaposées) とみなされる.だが本稿では,形而上学ソフィスト的言説の配流とを連接させる (articuler ensemble) ことを提案する.

20世紀において,この並置ないし解体 (désarticulation)1 は,ある二者択一の形式をとるに至った.一方で論理学者・分析哲学者が,他方で哲学者・哲学史家が,アリストテレスの跡を辿るのに応じて,ひとはある時は原理の論証の妥当性に,ある時は〈ある〉限りの〈あるもの〉の学の賭金に,専心するのである.

1910年にウカシェヴィチは今日なお英米圏で根強く残る伝統を創始した.その伝統は,論理学の創始者としてのアリストテレスを称揚しつつも,論理学の進歩を引き合いに出して,PNC の優位や論証と定式化の厳密さについて彼に説明を求めるのだ.最初が不完全だから進歩があるので,これは時代錯誤である.

ウカシェヴィチは PNC の存在論的・論理的・心理学的定式化を見出す.そしてそれらを支持するためにアリストテレスが提示していると思われる証拠を無効化する.ウカシェヴィチは非常に批判の余地のある読解をしているが,それには立ち入らず結論を見ると,まず第一に心理学的原理については,フッサールの『論研』を引きつつ,経験的法則にすぎず歴史上反例もあるとして斥けられる.また論理的・存在論的原理は第一原理にはふさわしくない (同一律の方が優れている) とされ,また存在論的原理はおそらく偽であり論理的価値を持たないとされる (cf. 矛盾的対象).したがって,経験的に確認される事実としてか,あるいは実践的原理としてしか理解できない,という.曰く,アリストテレスは自分の議論の弱さに気付きながら,「究極の公理」「不可侵の教説」を不誠実にも宣言したのだ.

こうした読みは,ハイデガーが「科学的思考様式に縛られた人間」(φύσις 論文) と呼ぶ人の読み方である.バンヴェニストによるアリストテレスのカテゴリー論批判にも同じことが言える.これらの科学的幻滅は同じ哲学的治療を受けねばならない.デリダ「繋辞の代補」はバンヴェニストに対して見事にそうした治療を行っている.それは「一歩後ろに下がる」治療 (le remède du « pas en arrière ») であって,カテゴリーのカテゴリーについて自問させ,言語と思考の区別以前の,存在に向かって後退させる治療だ.「一度も問われてこなかったのは,カテゴリーの共通カテゴリー,カテゴリー性一般であって,それ以降初めて言語のカテゴリーと思考のカテゴリーを切り離せるのです」(218).ところで,カテゴリーのカテゴリーとともに,「「ある」という意味が生じる場所において,言語が問われる」(219).「すべてを包む「ある」の超越範疇性なしに,言語のカテゴリーと思考のカテゴリーの間の移行は,どちらの方向にであれ,アリストテレスにもバンヴェニストにも,不可能であったろう」(236).

それと同様に,「昔よく論争された,アリストテレスにおいて矛盾律は「存在論的」意味を持つのか「論理学的」意味を持つのかという問題は,問題の立て方がまちがっている.というのは,アリストテレスにとっては「存在論」も「論理学」も存在しなかったのであるから.この両者はアリストテレス哲学を地盤として初めて発生したのである」(『形而上学入門』)2.「心理学」も存在しないと付言し,命題と意識という区別によって適切な翻訳をすることはできないと論じられよう.ここでも「後ずさり」(pas en arrière) は存在論 (知識の領域ではなく,存在が語られる場所としての) への後退にある.「むしろ矛盾律はロゴスの根本法則,すなわち「論理学的」命題であるがゆえに「存在論的」意味を持つ」3.ウカシェヴィチの解決は,間接的にアリストテレスの歴史的位置を浮かび上がらせている.「対象が矛盾を免れているときしか存在論的原理は正しくない」というウカシェヴィチの反論は,「それはすなわち,矛盾回避律によって,或る事柄が存在者としての存在者について主張されており,それはほかでもなく,存在者の本質は矛盾の持続的不在に存するという事柄である,ということである」というハイデガー的解釈においてひっくり返される4

アリストテレスのえらさは,論理学体系の頂点を飾ろうとしたり,原理によって論理学を守ろうとしたことにあるわけではない.むしろ,西洋形而上学を提示しえたところにあるのだ.

このように,Γ と PNC に関する反省は,今日,二つの対蹠的な知的情勢に取り囲まれている:

  • 論理学者は解釈を Γ の第二部に依存し,第二部を原理の論証の系列と見る.思想家・形而上学者は,冒頭三章に着眼し,形而上学や存在神論にとって本質的な様々な問題を帯びた哲学のプロジェクトをそこに見出す.
  • 前者は「未だ」(pas encore) の時間性において言明や論証の正しさに関心を寄せ,形を整え,修正する (e.g. Kirwan).後者は,「つねにすでに」,ときには「つねにもう」(déjà plus) の時間性において,アリストテレス的振る舞いに凌駕不能な側面を与える.
  • 前者は PNC を \Box\forall x\forall F\lnot(Fx\land\lnot Fx) のように定式化するが,後者 (ハイデガー) はギリシア語からあらゆる統語的に形式化しうる部分を抹消して,アレーテイアに構成的な隠れなさに狙いを定める: »Dass nämlich zugleich anwese sowohl als auch nicht anwese das ist unmöglich bei demselben und in der Hinsicht auf dasselbe« (Nietzche I, S.597).
  • 第二の見地には,第一の見地を真理概念の変容の結果として位置づけうる優位性がある.一方でもちろん,第一の見地には,第二の見地における関心全体を駄弁として退ける科学的権能を持つ.

論駁と意味の掌握の忘却

両者はどちらもアリストテレスによる連接を無視しているという共通点がある.アリストテレスは論敵の諸特徴のもとに論証の名宛人を構成し,そうしてテクストに公然たる闘争的性格を与えているので,我々はいずれの観点からも記述しない.これらはどちらも内部的解釈 (interprétations internes) である: これらは各々の仕方で根本的にアリストテレスに支配されている (subjuguées).両者は,推論の妥当性やアレーテイアの開示的性格 (caractère apophantique) を念頭に置くために,アリストテレスを自分と同一線上に読む.言い換えれば,〔自分が〕彼の側,ロゴス (・セーマンティコス) を持つ動物の側にいるという先入観を持っているのだ.

おそらくアリストテレス以来アリストテレスとは異なる陣営に属した人はいない.Γ においてアリストテレスは哲学の全領域に合理性・人間性を与えたのかもしれない.というのも,おそらく,意味の本性は包括的である,つまり意味でないものを意味に還元する,からだ.「意味について語るのは,意味について理にかなったことを述べるのは極めて難しい.それをきちんと行なう唯一の手段は,何も意味しない言語を自分のために築きあげることであろう.そうすれば客観的な距離を確立し,その距離によって,理にかなった言述の上に意味を欠いた言述を保持することができるようになるだろう.……残念なことには「意味を欠く」という表現なるものは意味を欠きはしなかったのである」(グレマス)5.まさにそこに「意味の論理学の最も一般的な問題」がある:「〔意味と無-意味の〕関係を真と偽の関係から転写できないということ,言い換えるなら,その関係を単なる排除の関係と見なせないということ」6.意味の外部はない; 意味は持つか持たないかである.

だがまさにこの点,どのようにしてこの意味の掌握が始まったか,が Γ の新たな読解では賭け金となるのだ.そうすることで,アリストテレスが彼自身の身振りによて服従させ根絶した人,今日非哲学的・非理性的としか認識し得ないものの理解が期待できる.そこで,ペリパトス派ではなくソフィストの立場で歴史を語ってみる必要があるだろう.

実際,原理の (論駁的) 論証という問いが一貫したものに見えるのは,ソフィストの観点からだけである.アリストテレス側に立つ限り,問題は疑わしく思われる.アリストテレス自身,原理について論証はできないと言っていた.理由は第一に全てが論証可能だとすると無限後退して論証の可能性自体が損なわれるからだ (Γ4, 1006a5ff.).これに気づかないのは分析論に関する無知による.第二に,無矛盾律を論証する人は,多かれ少なかれこれを前提しなければならない (「原理のうちなる事柄を要請している」(1006a15-16)).

この奇妙な「論駁」は,ある無能力,ある不可能事のように現れざるをえない.ウカシェヴィチはアリストテレスを批判して,第一に論証不可能な原理の論証を行う自己矛盾を犯しているとし,第二にこの帰謬法的論駁は論点先取を犯しているとした.さらに進んで,論駁という手続きが非難されねばならない,とも言うこともできる.原理の論証を求めるのが教養の欠如なら,問答法的な芝居によって学問的不可能事に備えるのは哲学の欠如である.

K. O. アーペルは,「矛盾律の基礎はアリストテレスにとって究極の基礎の古典的問題の例証に役立ちうるものだ」と指摘する.無矛盾律は「最後の明証性」(évidences dernières) という二重の特徴を持つ: 自己矛盾せずに異議を唱えることはできず,論点先取を犯すことなしに基礎づけられえない.アーペルにしてみれば,アリストテレスが原理の基礎づけに失敗したのは,彼がソクラテスでもデカルトでもなく,「論証理論 (l'Apodictique) を,すなわち全てのありうる攪乱的な語用論的要素を排除した論証のオルガノンを作り上げた人」だからだ.哲学を詩学や弁論術と区別し語用論を排除した点で,彼は「抽象の詭弁」(sophisme d'abstraction) の創始者だと思われる.

論理的論駁,語用論的論駁,超越論的論駁

だが,アリストテレス自身が「論証」と「論駁 (的論証)」をはっきり区別した上で議論しているので,これらの診断は疑わしい: "τὸ δ᾽ ἐλεγκτικῶς ἀποδεῖξαι λέγω διαφέρειν καὶ τὸ ἀποδεῖξαι, ὅτι ἀποδεικνύων μὲν ἂν δόξειεν αἰτεῖσθαι τὸ ἐν ἀρχῇ, ἄλλου δὲ τοῦ τοιούτου αἰτίου ὄντος ἔλεγχος ἂν εἴη καὶ οὐκ ἀπόδειξις" (b16-18). この言葉づかいは一見するより精妙で決定的だ.論駁とは,単に,論証しようとすれば自分も陥るだろう誤りに論敵を陥らせることにあるわけではない.もしそうだとすれば,論証から論駁への移行は単なる役割の逆転にすぎないことになろう.それゆえ,論駁が成功するかはわからないし,成功しても無矛盾律が正しいかどうかについて全く決定的でない.論駁が論証と等価なのは,原理に異論を唱える時でさえ,それを論証しようとするとき同様,当の原理を前提している,ということを論駁が示しているときである.だから論駁は,論証する人と対称的な誤りを論敵に帰するわけではない.論駁がありうる条件は他の人が τοῦ τοιούτου の責任を負うことであり,τοῦ τοιούτου とはすなわち αἰτεῖσθαι τὸ ἐν ἀρχῇ である7.したがって,論証と論駁で役割の転換があるわけではなく,論敵の立場が偽であることの立証責任はアリストテレス自身に課される.

分析の第一水準においては,アリストテレスは「結論が,論駁されるべきテーゼからなる前提と矛盾している」という彼自身の論駁の定義に完全に従っている (APr. II.20, SE 1, 9).もしテーゼが原理の否定なら,その反対は原理の肯定である.だが原理は論証不可能なので,それを「演繹」しうるのは,論敵が措定ないし需要した前提命題 (prémisses) の結論としてではなく,ただテーゼそのものに隠れた前提 (présupposition) として,つまりまさしく原理の請求 (pétition de principe) としてである.このようにして Γ の論駁は『分析論』が描写する通りの範例的状況を作り出す.

論駁成立の要件は,まず二人いること (アリストテレスと論敵),次に論敵が何かに同意することである.APr. によれば,論駁が成り立つには,論敵は二つの命題に同意するか,一方に同意し他方を拒否する必要がある.加えて,前提命題は (論証のであれ問答法のであれ),何かについて何かを肯定するか否定するものでなければならない (APr. I.1).

だが,問答法の前提は矛盾言明対から選ばれるので,その手続きで無矛盾律に関して論点先取が生じ,その責任はもちろんアリストテレスにある.したがってアリストテレスは Γ では例外的な手続きを作り上げねばならない: "ἀρχὴ δὲ πρὸς ἅπαντα τὰ τοιαῦτα οὐ τὸ ἀξιοῦν ἢ εἶναί τι λέγειν ἢ μὴ εἶναι (τοῦτο μὲν γὰρ τάχ᾽ ἄν τις ὑπολάβοι τὸ ἐξ ἀρχῆς αἰτεῖν)" (1006a18-21). では,まさにこの場合に,論敵が支持するテーゼとなるのは何なのか.

古今の解釈者たちは三種のシナリオを (しばしば混合した仕方で) 想定する.各々を区別すると:

  1. 論理的論駁.最も明白な論駁は論理的論駁であり,これは論駁の定義から直接出てくる.論敵の役割は原理の否定である.
    • 二種類の言明が考えられる: (1)「同じことがありかつあらぬ」(直接),「あらぬものがある」(間接) のような型通りの言明,(2) 真・偽という語を用いる特殊事例:「全てが真である,全てが偽である,同じものが同時に真かつ偽である」.
      • 前者の種類に関しては,カテゴリーなどの区別によって実際には言明が成立し得ないことを示す.協調的な論敵ならこれで撤回するだろう.この場合,論敵の主張は単なる無知に基づく (cf. Γ5, 1009a16f.; a22f.)
      • 後者の種類には自己論駁による旧来のプラトン的論駁がある: 全てが真かつ偽なら,「全てが真かつ偽」というテーゼも真だと同じくらい偽だ.だが,アリストテレスはこの論駁が不徹底だと仄かしている––それは言い古されてしまっている(θρυλούμενον, 1012b14).それでも,こうした議論は既に巧妙である.重要なのは,論敵が自分の主張と矛盾する主張を認めていることではなく (無矛盾律を認めない限りこれは主張が偽であることを意味しない),正しい主張を認めていることである.
    • いずれの場合にも問題となるのはアリストテレス的「言明」における厳密な意味での「原理」である.だが,執拗な論敵は,矛盾の不可能性自体が論点先取となるとして,テーゼを引っ込めることを拒否するかもしれない (Colle).
  2. 語用論的論駁.そこで,二つ目の記述は,論理的矛盾の水準にとどまらず,語用論的矛盾と言うべき水準に場所を占める.このとき,矛盾はテーゼの内容そのものではなく,そのテーゼを擁護するという立場に結び付けられる.論じようという決断そのものが自己論駁的なのだ.これは例えば Dancy の理解である (“Antiphasis’ willingness to take up an argument seals his doom”).
    • だが,この水準では,協調的な論敵が想定されている.実際にはより強情な論敵もいる.論理的シナリオと語用論的シナリオに共通する限界は,どちらもそこに入ることに同意する論敵を想定している,ということだ.言い換えれば問答法そのものが論点先取なのだから,限界を越境すること (un passage à la limite) を検討しなければならない: 問答法の零度にある論駁のようなものを.それは問答法の可能性の条件に至るものなので,次のように名づけうる:
  3. 超越論的論駁8.もはや前提を認める必要はなく,”ἂν μόνον τι λέγῃ ὁ ἀμφισβητῶν” (a12-13) ということ,”σημαίνειν γέ τι καὶ αὑτῷ καὶ ἄλλῳ” (a21) だけが必要である.これは論駁や問答法だけでなく全ての言説の必要条件である (a13-15).
    • だから問題は,Dancy, p.20 が信じるように論点先取を犯していると思われることを避けることではない.反対に,アリストテレスがなすべきは,相手に言葉を話させることなのだ.したがって,論敵は「ロゴスをもつ」という人間に特殊な特徴を満たすよう命じられる.この命令は絶対的な武器の役割を果たす.というのも,原理を否定する可能性そのものを諦めないかぎり,論敵はそれを免れ得ないからだ.

  1. デリダの言葉づかいを響かせているかもしれないが,彼の「脱臼」はむしろ dislocation か (自信なし).いずれにせよここでは,有機的に接合しているものが外れてばらばらになること,くらいの意味だろう.

  2. マルティン・ハイデッガー形而上学入門』川原栄峰訳,305頁 (傍点略).

  3. ibid.

  4. 細谷監訳,166頁.原文は « elle-même retournée en doigt de gant dans l’inteprétation heideggerienne » だが « en doigt de gant » の意味がよく分からない.

  5. 『意味について』邦訳7頁.

  6. 『意味の論理学』邦訳文庫版129頁.

  7. この箇所を今まで完全に誤読していたことに気づいた.

  8. 原注23: 「超越論的」という語は Berti によって,「単に何らか réel なもののみならず,réel なもの全体」を表現する限りの無矛盾律の意義を示すのに用いられる.論駁の « innagablilita » や原理の « criterio suprema di significanza » という分析に同意するとしても,この「超越論的」という語法は,単に可能な経験の全体を含意するのみならず,ある超越の必然性とともに構成される点で (cf. « Il valore teologico … »),我々のものと全く異なる見方を課する.またオルテガ・イ・ガセットも PNC が ratio cognoscendi であることを指摘するために「超越論的演繹」という語を用いている (L’évolution de la théorie déductive).我々にとって問題なのは,論駁が言説一般の可能性にしか由来し得ないことを示すことだ.