PNC の堅固さの論証 Wedin (2004) "Aristotle on the Firmness of PNC"

  • Michael Wedin (2004) "Aristotle on the Firmness of the Principle of Non-Contradiction" Phronesis 49(3), 225-265.

Γ3 から Γ4 冒頭の論証構造を綿密に検討する論文.特に 6 節以降は provocative.


Γ3 における PNC の堅固さについての論証を検討する.まず「最も堅固な原理」の特徴づけから検討する.

1. 最も堅固な原理の観念

1005b8-11 から議論は始まる.

  • 規則 R: 誰かがある類についての最善の知識を得ていれば,その領域 (πρᾶγμα) の最も堅固な原理を述べることができる.
  • 事例 C: 誰かがある限りのあるものについての最善の知識を得ていれば,万物についての最も堅固な原理を述べることができる.

これは規則から事例への議論になっている.ある限りのあるものが或る意味で類をなしうることは Γ2 で論じられている.

1005b11-18 でアリストテレスは,最も堅固な原理ということで何を考えているのかを述べている.

[i] 全ての原理のうちで最も確実な原理とは,それをめぐって欺かれるということが不可能な原理である.というのも,[ii] そうした〔それをめぐって欺かれることの不可能な〕原理が最もよく認識され (というのも,[iii] 全ての人々は知らないことどもをめぐって欺かれるのだから) かつ [iv] 非仮定的であることは必然であるから (というのも,[v]〈あるもの〉どものうち何であれ何かを理解している人が必然であるそうした原理は,仮定ではないから).[vi] 何であれ何かを認識する人にとって認識することが必然である事柄は,それを有しながら赴くことも必然である.そして,[vii] 全ての原理のうちそうした原理が最も確実であることは,明らかである.

[i] ἔστι δ᾽ οὗτος ὁ φιλόσοφος. βεβαιοτάτη δ᾽ ἀρχὴ πασῶν περὶ ἣν διαψευσθῆναι ἀδύνατον: [ii] γνωριμωτάτην τε γὰρ ἀναγκαῖον εἶναι τὴν τοιαύτην ([iii] περὶ γὰρ ἃ μὴ γνωρίζουσιν ἀπατῶνται πάντες) καὶ [iv] ἀνυπόθετον. [v] ἣν γὰρ ἀναγκαῖον ἔχειν τὸν ὁτιοῦν ξυνιέντα τῶν ὄντων, τοῦτο οὐχ ὑπόθεσις: [vi] ὃ δὲ γνωρίζειν ἀναγκαῖον τῷ ὁτιοῦν γνωρίζοντι, καὶ ἥκειν ἔχοντα ἀναγκαῖον. [vii] ὅτι μὲν οὖν βεβαιοτάτη ἡ τοιαύτη πασῶν ἀρχή, δῆλον

[i] は定義ではなく擁護されるべきテーゼとして提示されている:

  • (A) もし (a) ある原理 P に関して錯誤が不可能なら,(b) P は最も堅固である.

後でなぜ (a) → (b) かが説明される以上,(b) は (a) の十分条件だと主張されてはいない.ゆえに堅固さは命題の形而上学的性質ではなくドクサ的性質である.しかし,(a) を支持する議論は「信じる人次第である」ことを否定し,むしろ命題の形而上学的性質に基づいている.ゆえに,堅固さは奇妙な種類のドクサ的性質だと言える.

また,(A) はまだ最も堅固な原理が複数ありうることを否定していない.

(A) の論証は (ii) と (iv) という二つの条件文から始まる:

  1. (a) 原理 P をめぐって錯誤がありえないなら,(c) P は必然的に最も可知的である.
  2. (a) 原理 P をめぐって錯誤がありえないなら,(d) P は非仮定的である.
  3. (a) ならば (c) かつ (d).(∵ 1, 2)

これと (4)「(c) かつ (d) ならば (b)」から (5)「(a) なら (b)」(= (A)) を得る.(4) がいかなる地位をもつかは後述する.

(1) を支持する議論は (iii) で行われている:

  • (1.1) x が P を理解していないなら,x は P に関して過つ.

しかしこれはおかしい.第一に,偶々過たないこともありうる.第二に,これは (1.2) と同値だが,(1.2) は弱すぎて (1) を導けない:

  • (1.2) x が P に関して過たないなら,x は P を理解している.

ゆえに正確には (1.1) を以下で置換すべきだ:

  • (1.1*) x が P を理解していないことがありうるなら,x が P に関して過つことがありうる.

以下を前提すれば (1.1*) から (1) が出る:

  • (1.3*) x が必然的に P を理解しているなら,P は必然的に最も可知的である.

「必然的に最も可知的」は若干引っかかるが,致命的ではない.

次に (2) を支持する論証 (v), (vi) を見る.主要な前提 (vi) は読み方が難しい.二つの読みがありうる: (a)「誰かが理解している何かが前提していることは」(b)「何か (より理解しにくいこと) が理解されているときに理解されていることは」.だが (b) の読みだと比較される二つのことが無関係でありえてしまう (e.g., 場の量子論を理解している人は,将棋も理解していることになる).なので (a) のほうがよい.したがって:

  • (2.1) (f) x による何かの理解が x による P の理解を前提するなら,(g) x はすでに P を有していなければならない.
  • (2.2) (g) x が既に P を有していなければならないなら,(d) P は非仮定的である.([v])
  • (2.3) (f) ならば (d).

ただし,錯誤を免れる地位から (2) を示すには,以下が必要である:

  • (2.4) (a) 原理 P をめぐって錯誤がありえないなら,(f) x による何かの理解が x による P の理解を前提する.

こう補うとき,問題は (2.4) の尤もらしさと,非仮定性の内実である.

Ross は非仮定性をプラトン的な意味で理解し,アリストテレス的な「学知の主題的対象の存在」の意味での基礎措定 (hypothesis) と対立するものではないとする.そこでプラトン的用法を見ると,『メノン』の仮設的方法において仮定は単に含意関係上の強さによって導入される.『国家』511b はこの方法では弱い意味で非仮定的な命題にしか達しえず第一原理には到達できないが,別の行き方 (未詳) によって強い意味で非仮定的な第一原理に到達できると主張している.

アリストテレスの (2.3) が示しているのは弱い非仮定性のように見える.「証明可能だが証明なしに受け入れられる」というAPo. A10 の基礎措定概念もこれに近い.これに従えば,p が非仮定的である iff. p が証明可能でないか,証明なしに受け入れられてはいない.このうち (2.3) に関連するのは証明不可能性だけであり,非仮定性とは要するに証明不可能性のこととなる.この解釈は Γ4 における論証提示の拒否とも平仄が合う.

では,なぜ (2.4) を認めねばならないのか.次のような同値の定式を考えてみれば,懸念はより明らかである.

  • (2.4) もし (f) x が q を理解しており,かつ x が P を理解していないなら,(a*) 原理 P に関して錯誤がありうる.

事実として前件が満たされていても,P を把握していれば P に関して過ち得ない可能性はありそうに思える.Kirwan は錯誤に無知や混乱を含めているが,そうだとしても同じことだ.

そこで,(vi) に関して別の解釈を取る人が出てくるかもしれない:

  • (2.4’) (a) 原理 P をめぐって錯誤がありえないなら,(f’) x は,P ほど理解可能でない何かを理解しているとき,P を理解している.

だがこれも尤もらしくないし,(f’) を新たに導入することで (2) の論証全体の整合性を危うくする.ゆえに (2.4) 解釈に留まった方がよい.

ともかくもアリストテレスは錯誤を免れることを堅固な原理の資格条件とみなし,これに集中する.

2. 最も堅固な原理のステートメント

この後アリストテレスは直ちに原理を特定する:

何がその原理であるかを,このあと,我々は語ろう.すなわち,「同一のものが同一のものに帰属し,かつ帰属しない,ということは不可能である」(付加的に我々が規定しうる限りの他のことどもは,論理的諸困難に応じて付加的に規定されるとしよう). (1005b18-20)

すなわち:

  • (6) x が存在して,x が性質 F を持ち,かつ x が性質 F を持たない,ということはありえない.

これは存在論的ヴァージョン (6a) で,これと論理的ヴァージョン (6b) は次のように区別できる:

  • (6a) \lnot\Diamond(\exists x(Fx\land\lnot Fx),
  • (6b) \lnot\Diamond(\exists p(p\land\lnot p).

後者の方が一般的だが,結局 (6a) を意味しているという説もある.いずれにせよ Γ3 の不可疑性証明で用いられるのは存在論的ヴァージョンである.

3. PNC が最も堅固な原理であることの証明: 不可疑性証明

この PNC は「先述の規定に適合するから」堅固だとされる.したがって続く不可疑性証明は PNC が (a) を満たすことを示すことになる.

さらにアリストテレスは,PNC が唯一の堅固な原理だと主張しているように見える.これを「究極性の主張」(ultimacy claim) と呼ぶことにする.この主張は不可疑性証明にくっつく形で論じられる.これについては後述する.

まずは不可疑性証明を見よう.この証明は以下の10行で与えられる:

[viii] 全ての原理のうちで,この原理が最も確実である.というのも,[ix] 既に述べられた規定を有するからである.というのも,[x] 誰であれ,「同一の事柄があり,かつ,ありはしない」と想定することは不可能だからである––ちょうどヘラクレイトスが語ったと或る人々が思っているように (というのも,或る人が述べている事柄を,〔同じ人が〕想定してもいるということは必然ではないから).[xi] 反対のことどもが同一の事柄に帰属することがあってはならず (我々はこの前提に慣習的なものどもを付加的に規定したものとしよう),[xii] 否定言明の判断が判断の反対であるのだとすれば,[xiii] 同じ人が同じことを同時に「あり,かつありはしない」と想定することが不可能なのは明らかである.というのも,[xiv]〔さもなければ,〕欺かれている人が,それについて同時に反対の諸判断をもちうるから.

[viii] αὕτη δὴ πασῶν ἐστὶ βεβαιοτάτη τῶν ἀρχῶν: [ix] ἔχει γὰρ τὸν εἰρημένον διορισμόν. [x] ἀδύνατον γὰρ ὁντινοῦν ταὐτὸν ὑπολαμβάνειν εἶναι καὶ μὴ εἶναι, καθάπερ τινὲς οἴονται λέγειν Ἡράκλειτον. οὐκ ἔστι γὰρ ἀναγκαῖον, ἅ τις λέγει, ταῦτα καὶ ὑπολαμβάνειν: [xi] εἰ δὲ μὴ ἐνδέχεται ἅμα ὑπάρχειν τῷ αὐτῷ τἀναντία (προσδιωρίσθω δ᾽ ἡμῖν καὶ ταύτῃ τῇ προτάσει τὰ εἰωθότα), [xii] ἐναντία δ᾽ ἐστὶ δόξα δόξῃ ἡ τῆς ἀντιφάσεως, [xiii] φανερὸν ὅτι ἀδύνατον ἅμα ὑπολαμβάνειν τὸν αὐτὸν εἶναι καὶ μὴ εἶναι τὸ αὐτό: [xiv] ἅμα γὰρ ἂν ἔχοι τὰς ἐναντίας δόξας ὁ διεψευσμένος περὶ τούτου. (1005b22-32)

ある原理について錯誤がありえないのは,誰かが錯誤しえない場合である.すなわち:

  • (7) (g) 全ての x について,x が原理 P について過ちえないとき,(a) P について錯誤は不可能である.

これが不可疑性証明の舞台を整える.(7) は人が何を信じることができ・できないかへの言及を求める.それゆえ [x] では信念概念が用いられている.

ここで,錯誤がありえないとは,何かを信じることがありえないということだ,という提案がありうる:

  • (8) 全ての x について,(h) x が P を信じることが不可能なら,(a) x が P に関して過つことが不可能である.

P には PNC の否定の実例が入る.だが堅固さと関係づけるためには,むしろ次のように考えるべきだ:

  • (8*) 全ての x について,(h) x が ¬P を信じることが不可能なら,(a) x が P に関して過つことが不可能である.

というわけで,[viii]-[ix] では PNC について錯誤がありえないために PNC は最も堅固だと主張され,[x] ではその理由として否定を信じえないことが挙げられる.ここまでは申し分ない.ただし [ix] の「錯誤がありえない」という主張は二通りに理解できる: PNC の実例についてなのか,PNC 自体についてなのか.ここでは [vii] に鑑みて PNC 自体だと解する.

では,証明のターゲットとなっているのはどちらなのか.PNC 自体だと理解すれば (9),諸実例だと理解すれば (10) になる.

  • (9) \lnot\Diamond\exists x\exists z(x \text{ bel } (Fz\land\lnot Fz)
  • (10) \lnot\Diamond\exists x(x \text{ bel } \Diamond\exists z(Fz\land\lnot Fz)

これに関して導入部に決定打はない.

論証は以下のような諸命題を介して進む1:

  • (11) \lnot\Diamond\exists x(Fx\land\lnot Fx) (PNC).
  • (12) \lnot\Diamond\exists x(Fx\land\lnot F^*x) (ただし F* は F の反対者).
  • (13) \forall x(F^*x \rightarrow\lnot Fx) (11 と 13 から 12 が出る).
  • (14) ∀x (x believes Fa is contrary to x believes ¬Fa).(なお x bel Fa は [B:Fa]x とも表記される.)
  • (15) \forall x (x  \text{ bel } (p\land q) \rightarrow x  \text{ bel } p \land x  \text{ bel } q) (ドクサ的単純化).
    • (15a) 〔上記 p, q を Fx, ¬Fx に置き換えたもの.〕
  • (17)  \forall x(x \text{ bel } (Fa\land\lnot Fa) \rightarrow [B:Fa]x\land[B:Fa]^*x)
  • (18)  \forall x(x \text{ bel } (Fa\land\lnot Fa) \rightarrow [B:Fa]x\land\lnot[B:Fa]x)
  • (19) \forall x\lnot(x \text{ bel } (Fa\land\lnot Fa))

4. 不可疑性証明に関する二つの構造上の懸念

以上の証明にはいくつかの懸念がある.(この証明が PNC 自体の堅固さを示しているのか,諸実例の堅固さしか示せていないのか,という懸念は次節で論じる.)

第一の懸念は,(19) が何から導かれているのか,である.(11)+(18) か (12 抜き.しかし 12 は [xi] で言及されている),それとも(12)+(17) か (11 抜き).(18) を抜くと (13) が明示的に用いられなくなるが,(12) を出すのに用いられていると理解できる.(12) を出すもう一つの前提は (11) だが,単なる暗黙の前提である.テクストに PNC が前提として明示されていないことにかんがみても,二つ目の読み (12+17) の方がよい.(11) は (12) が成り立つ理由 (why) を説明している.

第二の懸念は,アリストテレスの矛盾言明は単一の連言命題ではなく二つの命題だという Code の指摘に関わる: 上記の議論は Fa\land\lnot Fa に反対するが,これは Code の想定に反する.ただ,直接の議論は (15a) の右側から始まっていると理解すれば,連言に関する議論は直接の議論からの拡張として理解できる.

5. ドクサ的単純化と性質帰属

もしアリストテレスが (15a) を認めないなら,矛盾する信念の可能性を認める危険に直面することになる.例えば次のような認知状態にあることを認めうるかもしれない.

  • (20a) S \text{ bel } (Fa\land \lnot Fa) だが,
  • (20b) S \text{ bel } Fa \land S \text{ bel } \lnot Fa ではない.

これを認めるなら,[B:(Fa∧Ga)] は [B:Fa] と [B:Ga] の単なる合成物ではなく,かつ前者の性質をもつとしても後者は持たなくて良いということになる.だが,アリストテレスはいずれにせよ抗議すると思われる.したがって,アリストテレスはドクサ的単純化を拒否はしないだろう.

6. 不可疑性証明の説得力

より問題なのは,論証が何を支持しているのかという前述の問いである.以下のどちらなのか:

  • (9) \lnot\Diamond\exists x\exists z(x \text{ bel } (Fz\land\lnot Fz) (実例解釈 instantial reading)
  • (10) \lnot\Diamond\exists x(x \text{ bel } \Diamond\exists z(Fz\land\lnot Fz) (原理解釈 principled reading)

大抵の解釈者は原理解釈を採る.実際また Γ4 冒頭で言及されている論敵は (10) の否定を主張している.

問題は,先ほど見た不可疑性証明は (9) しか支持していない点である.ここから Γ4 を見直す案も出ている (Cooper, Charles): 'ὑπολαμβάνειν οὕτως' は必ずしも原理自体へのコミットメントを含意しない.しかし 1006a4-5 を見る限り,原理自体が証明のターゲットとして企図されていることは明らかである.

解釈は三択である: (I) 不可疑性証明の対象は (10) だが,そこに達しえていない,(II) 証明の対象は堅固さではなく,ゆえに (10) でもない.むしろ堅固さを前提にしており,PNC の実例の不可疑性がその徴表になっている.(III) 証明の対象は (10) であり,実例の不可疑性から (10) が出ている.

(I) は単純に証明が失敗しているとする解釈である.(II) はそもそも PNC について何かを証明する意図がないとする解釈であって,証明の失敗を帰する必要がないという利点があるが,1006a4-5 の「最も堅固だと示されている」という文言と平仄が合わない.したがって,(III) を採る必要がある.

注意すべきは,堅固さと不可疑性は違うということだ.原理の堅固さが実例の不可疑性から出てくるという考え方も可能である.この「出てくる」は形式的な含意ではありえないので,別の道筋が試みられねばならない.

問題は,(9) を認めつつ (10) を拒否できる,ということだった.だがこの想定は標準的な信念の場合との類比に基づいている: 私が信じている全ての命題を私は真だと信じているが,同時に私は自分が信じていること全てが真だとは思っていない.――そして,標準的な信念によって実例-原理関係を理解することはできない.例えば,ある命題を信じる根拠が真理を保証するほど強いとしよう (例: デカルト的根拠 Cartesian grounds).これを C-based ないし知識保証的な信念と呼ぶことにする.アリストテレスにとって PNC の諸実例の信念はそうした信念である.

したがって論点は,実例的な C-based 信念が原理的な C-based 信念を確証するということである.演繹できるというわけではなく,(9) を認めて (10) を拒否する人間を説明できないということだ.このようにして不可疑性証明は PNC それ自体の堅固さを確保していると言えるかもしれない.

7. 不可疑性証明の範囲

そうだとしても,(9) が何を意味しているかが完全に明らかになったとは言えない.任意の Fz\land\lnot Fz の形式の事柄を信じることができないなら,これを含意する信念も不可能である.すると2:

  • (22) \forall x\forall p\forall q( (x \text{ bel } p\land (p\rightarrow q) )\rightarrow x \text{ bel } q)

これには二種類の反例がありうる: 外在的なケースと内在的なケース.

  • 外在的なケース.一例:『サイラス・マーナー』の著者は賢く,かつ女性は賢くないと信じている人間.De dicto な信念に制限すれば反例は回避できるが,その開放をアリストテレスが認めるとは思えない (後述).さしあたりこれに対しては,こうした外在的情報は関連するドクサ的文脈にないので,信念のコミットメントを生み出すのには使えない,と応答すればよい.
  • 内在的なケース.追加の情報なしにできる推論は内在的である.複雑な推論の場合これが起きることがありうるし,実際アリストテレスも論敵の諸事例に言及している.例えば「現れていることは現にある」というプロタゴラスのテーゼ (PT) は PNC の否定を含意する.

PNC の否定を信じることはできないとすると,PT を信じることもできない.この帰結はアリストテレスにとって避けがたいと思われる.そのことはアリストテレスにとってまずいだろうか? おそらくまずくはない.論敵は PT を信じていると主張しているが,議論を通じて,実際には PT を信じうると考えていたにすぎないのだと認めねばならなくなるのだ.

では,PT を信じているとプロタゴラスが主張するとき,彼は何らかのドクサ的性質を持っているのだろうか.何も持っていないとすれば,そもそも何らかの信念を帰属させることはできないように思える.彼は言葉を口先で言っているだけなのか,それともより深い種類の心的錯誤に陥っているのか.この点は憶測するしかない.

いずれにせよ PNC の説明的役割は明らかである: PT の信念を不可能にするのは PNC の否定の信念である.それゆえ,Γ3 の最後で PNC の説明的地位が重大なものとして現れるのは不思議ではない.すなわちその究極性である.

8. PNC の究極性

それゆえ,論証する全ての人々は,最後の判断をこの判断へと還元するのである.というのも,本性上原理であり,他の諸公理の原理であるから.(1005b32-34)

ここでは堅固さ以上のことが述べられている.アリストテレスがなぜこの一文を入れたのかは困惑の種となってきた.もちろん伝統的な解釈者なら,PNC が「あるもの」の領域全体の至上の原理でなければならないし,それこそアリストテレスの議論の動機だと主張するかもしれない.しかし,不可疑性の証明の中には,これを支持する理由は見当たらない.

だが実のところ,この主張はアリストテレスの論証を完成させる役割を持つ.すなわち PNC が最も堅固な原理である理由を示唆するのである.以下ではまず異論に応答する.

ウカシェヴィチは直接的な証明において PNC は前提とされておらず,多くの原理が PNC と独立だと述べる.例えば p\rightarrow qp から q が出るという際に PNC は適用されていない.

だが,PNC を用いていないからといって,PNC と独立だとは限らない.推論のパターンが前提していることが,推論の一部である必要はないからだ.例えば:

  • (24) ((p\rightarrow p)\land p)\rightarrow q

このとき後件の否定と前件の連言は矛盾に導く.前件は (\lnot p\lor q)\land p したがって q と同値であり,後件の否定は \lnot q である.かくして (24) は妥当である.ここで我々は無矛盾律を用いている.この意味で (24) の妥当性は無矛盾律に依存している.同じ結果は演繹的に妥当な任意の推論から出てくる.

だが PNC は他の諸原理「より深い」と言えるのだろうか? アリストテレスがそう言う理由はある.PNC に全ての論証が立ち戻るのは,PNC が最も堅固な原理だからだ.この観点からすると,PNC は演繹の諸原理の妥当性を確立するものではなく,その演繹的堅固さを表す (displaying) ものなのだ.PNC の堅固さは,否定すると PNC の拒否に至るようなあらゆる原理に継承される.他方で PNC の堅固さはそれ自身から来ているので,PNC は全ての原理の原理なのだ.かくして,PNC は唯一の (the) 堅固な原理なのである.


  1. 概ね Barnes 1969 に従っているので議論の詳細は省く.

  2. これは disbelieve と not believe を混同している気がする.