超越論的論駁と意味の自律性 Cassin (1989) "Parle, si tu es un homme" #2
- Barbara Cassin (1989) "Parle, si tu es un homme" in B. Cassin, M. Narcy, La décision du sens, Vrin, 9-60 [here 25-40].
やはりもっともな部分とアクロバティックな部分が併存する.いずれにせよ重要な論点は外していない.特に Irwin 1982 批判は興味深い.
存在者は意味のようにできている
だが,より綿密に検討すると,「言う」だけでは十分でなく,「何かを」(τι) 言う必要がある.これなしには意味の必要性から矛盾の不可能性は導けない.
ヘラクレイトス主義者は「こんにちは」と言うだけでいい.あるいは「山羊鹿」でもいい.下限は Po. 20 に示されている: 接続詞などは φωνὴ ἄσημος (↔ φωνὴ σημαντική) である.PNC の確立に必要なのは任意の意味の統一性であって,テーゼ・論証・文・述定的判断・定義は不要である.
このようにして,PNC は「同じ〈語〉に同じ〈意味〉がありかつないことはない」点から証明され,また実例を得る (s'instancie).意味は存在者性・対象性のモデルをなす.世界は言語のように構造化されている,とまでは言わずとも,存在者は意味のようにできているということを,論駁は含意している.意味の同一性に関するこうした構成的規定は,間個人的な合意や規約 (cf. De Int. "κατὰ συνθήκην") によって保証されるわけではない.超越論的な根源性のもとで (dans sa radicalité transcendentale),論証は矛盾の不可能性を意味の必然性に係留するのだ1.
この立場は「言語は人間の諸制度のメタ制度であり,この制度からの離脱は自己同一性の喪失を招く」というアーペルの主張を先取りしている.この脅迫は実際のところ,ハイデガーの存在論的な脅迫の心理主義的な一ヴァージョンにすぎない.しかしそれらはアリストテレス的な排除の身振りに共通の起源を持つのだ.
ソフィスト・アリストテレス
論駁にはパラドクスがある.すなわち,論駁の最初の手札がソフィスト的な立場にほかならないことだ.「アリストテレスの思索はソフィストへの応答を主目的としていた」(Aubenque) と言うだけでは十分でない.何かを言うことがソフィスト的反論と混同されている,という論証の十分条件を把握しなければならないのだ.
Aubenque によれば,ソフィスト的立場は語と存在の同一視によって特徴づけられる.ただ,こう言うと,二つの異なる領域を措定してからそれを同一視する必要が生じかねない.実際にはソフィストは言語という単一の領域を想定し,そこから存在を生み出すのだ.Cf., ゴルギアス『ないについて』,プロクロスによるアンティステネスの分析 (In Cratylum 429d).後者には〈言うこと−何かを言うこと−あることを言うこと−真なることを言うこと〉という順序が見て取れる.
この分析は Sph. 237dff. で詳述されている.客人はパルメニデス的存在論からソフィストの立場を再構築する:「ありはしない」を考えることも,言うことも,語を発することもできない.なぜなら,それは「あらぬ」を「ある」に強いることだからだ.この批判はまずパルメニデス自身に当てはまる.この超パルメニデス的見地 (perspective ultraparmédéenne) からすると,「あらぬ」の正名論 (orthologie) は不可能であるが,それはおよそ論が不可能だからだ.もっともプラトン的な分析はごく微妙に言語的・形態論的である.
このようにして,ソフィスト的言語の実在を含意する効力は,実在に関するその他の選択肢全てを遮断することなのだ.あらぬことを言い得ないことは,虚偽の不可能性に関するあらゆるソフィスト的パラドクスの源泉である.
「言う = 何かを言う」という等式こそ,客人に父親殺しを強いるものだ:「ありはしない」はある仕方でのことであり,ありはしないことを言うことも考えることもできる.一方アリストテレスは,「あらぬ」の問題を,いつものようにプラトンに比べて未開・古拙でない仕方で扱ってはいない.というのも,いつもなら,プラトンのように「あらぬがあると示す」(N2, 1089a1-5) 代わりに,Γ2 におけるように,「ある」の意味を区別するに留めるからだ.SE のようにカテゴリーや可能態・現実態,実体と属性の区別をする代わりに,ここ〔Γ の論駁〕では,ソフィストの立場の超パルメニデス的な厳格主義を採る.というのも,彼の出発点は,「言論を持つ」と「いかなる言論も持たない」の同一性から出発しているからだ.つまりアリストテレスはソフィストの立場を横取りしている.
では,どうやってその立場が裏返り,矛盾回避の必然性を示すのに役立ちうるのか.アリストテレスが「言う = 何かを言う」の等式に行う操作は,ソフィストがパルメニデス的禁止に行う操作に類比的である.それは言葉を鵜呑みにして,限界まで推し進め,転覆させる手続きである.アリストテレスは言葉を継ぐ: 何かを言わない人は,何も言わない.だがそこから,「全ての人がつねに真なることを言っている」と結論する代わりに,何も言わないものは人間ではない,と結論する.アリストテレスに排除の動機を与えるのは,この詭弁なのだ.
意味表示の主体
むろんそのためには等式の再解釈を要する.アリストテレスの操作は,「何かを言う」と「何かを意味表示する」の等価性を強調することにある.アリストテレスは,一見論点先取の誹りを免れるための単なる問答法的な用心として,次のように述べる: 何かを意味表示するために肯定や否定が必要なわけではない.この後退はアリストテレスの新機軸であり,これによって彼は,ものを言うことのソフィスト的な存在論的効力から距離を置き,また世界のものや自体への指示に通常係留される σημαίνειν の一般的な意味とも距離を置くのだ.
アリストテレス以前には σημαίνειν には様々な意味があった: (道筋を)「指し示す」(indiquer),「告発する」(dénoncer),「合図する」あるいは (戦いの)「合図を出す」(signaler ou donner le signal),命令を「通告する」(signifier).ヘラクレイトス B93 はデルフォイの神託を徴候的 (sémantique) だと言っている.前アリストテレス的な σημαίνειν の特徴は,第一に動作動詞であること (行為者が主語であること),第二に存在論的な他動性を持つことである.
これらに照らしてアリストテレスの意図を捉えねばならない.第二の点をアリストテレスは受け継がない: 彼は意味表示とその肯定を切り離すことで、意味表示から指示的な含み・客観的効力を取り去っている。
一方、第一の点には初めは従っているように見える: 彼が意味表示を求めるのはソフィストである。しかし一方で、意味表示は個人の意図よりは対話者間の規約に存する (1006a24-25)。それゆえ、「何かを意味表示すべし」という要求は、初めはごく不明確に見える。しかし、反論者から取り付けるこの約束は、豊かな帰結を持つ。用法を固定するとは、意味を語に託すことである。実際 σημαίνειν という語が対話者を主語に取るのは一度きりであり、その後はずっと語を主語に取る。ここから「名前は〈これであること〉または〈これでありはしないこと〉を意味表示している……」(1006a28-30) という枢要な帰結が出てくる: 何かを意味表示するときに意味表示するのは、もの-あるもの (une chose-étant) や世界の対象 (un object du monde) ではなく、もの-意味 (une chose-sens) であり、人は語が意味表示するもの、すなわち述語の肯定/否定的帰属、意味、を意味表示するのである。
逆に言えば、意味表示することが示すこと (montrer) を意味する (vouloir dire) 限り、つまり意味ではなくものを示すことが問題である限りでは、意味表示の要求は人間を動物と区別するのに十分でない (Pol. I, 1253a1-18, De Int. 16a26-29)。動物は善悪・正不正を示すこと (δηλοῦν) はできないが、快苦を φύσει (↔︎ κατὰ συνθήκην) に示すことはでき、政治的動物でありうる限りで (HA I.1) 自然的に PNC に従うこともできる。この下限においては、動物も「何かを意味表示する」ことができる。
しかし人ではなく語が意味表示の主語になると、全てが変わる。これは小さな変更に見えるが、そこで談話に関する全く新しいアリストテレス的アプローチが明らかになる。意味表示を行為でなく語の性質として扱うとき、それはもはや言語と実在の関係ではなく、むしろ語の間の関係––より正確には語とその λόγος の関係となる。「定義から対話しなければならない」(Γ8, 1012b7) という主張はこの点を強調するものである。ὁρισμός, ある規定されたもの、が超越論的論駁の必要十分条件なのである。
最後に、この σημαίνειν τι は語用論的次元/現象学的次元における ἐποχή の道具だと言いうる。語用論的に: 論駁は二つの立場の間で問答法的になされるが、それでも「論証」である.なぜなら、話している誰かのロゴスに基づく特定の状況ではなく、言語の意味表示的本性という必然的・普遍的真理を扱っているからである。現象学的に: アリストテレスはここで同時にパルメニデス的な ἀλήθεια を退けている。というのも、「ある」がロゴスにおいて現れる限り、ロゴスは「ある」ことしか言えない (i.e. ロゴスは「ある」と混じり合っている se confond avec l'être) と言いうる危険があるからだ。「意味」の変質は「真理」の変質と軌を一にする (Heidegger)。
ただ一つのものを意味表示する: 意味と本質
論駁の第一の帰結が語と対象の関係の中断なら,第二 (1006a31, ἔτι) は関係の再構築である.アリストテレスは意味ともものとも違う「何性」(τὸ εἶναι + dat.) を新たに導入する.意味は一旦実在と切り離されたが,本質に媒介されて再び接合する.再び意味の定義から出発する必要がある: 一つのことを意味表示しないとは,何も意味表示しないことである.ここでもパルメニデス=ソフィスト的等式が使用されている (cf. Sph. 237d6ff.):「名前が何かを意味表示し,一つのものを意味表示するとしよう」(1006b11-13).
この意味の構成的一性を説明する上で,アリストテレスは用法の恒常性の規則に訴えはしない.むしろ何性から説明している:「私が「一つのものを意味表示する」と言うのは,次のことである――これが人間であり,何かが人間であるとすれば,それは人間にとっての〈あること〉である」(1006a32-34).この基礎的な一文は,超越論的論証の特異性を隠してきた.意味が語でなく物の側にあるかのように見えるからだ (e.g. Aubenque, pp.127-128).PNC が「ある」においてのみ基礎づけられるなら,その限り,PNC は「ある」の学知にしか帰属しないことになる.
Irwin 1982 のような分析系の解釈はまさにこの点を明らかにし,アリストテレスが意味の理論を持たないと主張している.つまり σημαίνειν は「我々にとっての」意味ではなく,「本性上」の意味,すなわち本質を対象とする.Γ では一方から他方に滑っていると見ることもできようが,Irwin はあくまで本質の水準が問題だとする.その水準でしか論駁は可能でないからである.
この手の分析が超越論的論駁の根本的構成を損なうことは明らかである.意味表示の要請が直ちに存在論全体を備えることになるからだ.人間は,語るとき,アリストテレス的であることしかできない.言うこととあることのソクラテス以前的な結びつきの中断であるアリストテレス的操作は,ほんの少しだけよく接合された (à peine mieux articulée) 結びつきを再び見出してしまう可能性がある.〈〜にとってのある〉は〈あるもの〉にとってでしかないために,アリストテレス的人間も「あらぬ」を意味表示しえないからだ (類比的な論点につき cf. APo. II.7, 93a17-20).要するに,存在しないものを語る語は意味を持ちえないということになる.
山羊鹿の問題
アリストテレス自身これに反対している.彼の主要な例は山羊鹿 (τραγέλαφος) である: "ἀνάγκη γὰρ τὸν εἰδότα τὸ τί ἐστιν ἄνθρωπος ἢ ἄλλο ὁτιοῦν, εἰδέναι καὶ ὅτι ἔστιν (τὸ γὰρ μὴ ὂν οὐδεὶς οἶδεν ὅ τι ἐστίν, ἀλλὰ τί μὲν σημαίνει ὁ λόγος ἢ τὸ ὄνομα, ὅταν εἴπω τραγέλαφος, τί δ᾽ ἐστὶ τραγέλαφος ἀδύνατον εἰδέναι)" (APo. II.7, 92b4-7).それゆえ「あらぬものも意味表示しうる」(92b9f.) という点,山羊鹿も何かを意味表示するという点 (De Int. 1, 16a14-17) も押さえねばならない.
唯一ありうる反論は,Irwin が取ったように,Anal., De Int. と (形而上学が優越する) Γ の問題系を区別することである.だが,Γ が本質への関わりを中断している点に鑑みれば,二つの問題系が互換的なのは明らかである.意味と本質が混同されうるのは,「何かが本質的に人間であるとき (だけ)」なのであり,山羊鹿の場合この条件は満たされない.山羊鹿には名目的定義は与えうるが,厳密な意味での (実在的) 定義は与えられない.山羊鹿の意味は本質に基づいてはおらず,ゆえに一般に「語が意味を持つのは物が本質を持つからだ」とは言えない.
山羊鹿事例を説明できないというだけでなく,Γ4 や Γ 全体の構造も意味表示の要求の支配を固持することを強いる.実体・付帯性概念が意味表示概念に先行するどころか,意味表示から実体が生み出されている (意味の一性から本質の無矛盾性,および副次的に本質と付帯性の違いが生じる).
それゆえに,「人間」と「非人間」がおなじものを意味表示すると想定して意味を固定する人々は,物の本質を破棄している (1007a20f.).ソフィストは監修を不十分・不安定なものにすることで,物の本質を捉えることを不可能にしているのだ.
むろん山羊鹿は例外的な事例であり,Γ で扱われてもいない.しかしソフィスト術に関して言えば山羊鹿事例は決定的に重要である.ソフィスト的言説は言うもの全てをあるものとする.アリストテレス的言語では語は常に何かを意味表示する.両者の違いは山羊鹿事例 (意味表示するがありはしない事例) に起因する.
「意味表示する」(signifier) は語を主語に取る.しかし「何かを (一つのものを) 意味表示する」であり「(一つの) 意味をもつ」ではない: この局限された言語的領域は,少なくとも Γ では,いざという場合には物と存在者に通じているのだ.これと逆方向に進むとプロタゴラス/クラテュロス的なアポリアに陥る危険がつねにある.
以上はアリストテレスによる言語理論のごく一部に過ぎない.人間が自然と世界につながるのは固有感覚の次元においてであり,感覚の現象学的真理性は意味と本質の合致に先立つ保証である.だが,言語が人間のものでしかありえないとき,その合致が起きることは許されなくなる.PNC の論証はソフィストの領分にコミットする: その領分では語が端的に何かを意味表示するという可能性が生み出され続けていた.これに対して,私は何も示すことなく意味をもつ何かを語ることができる.アリストテレスは,何かを意味表示することが物の本質を語ることであるような広大な領野の縁に,意味の自律性の可能性の限界を作り出したのだ.
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よく分からない.↩