Γの議論に関するいくつかの疑問点 Cohen (1986) "Aristotle on the PNC"

  • S. Marc Cohen (1986) "Aristotle on the Principle of Non-Contradiction" Canadian Journal of Philosophy 16(3), 359-370.

Code (1986) への応答論文.明晰で論点整理も的確.結論も穏当でほぼ同意できる.


第一原理の認識的地位について APo. と Γ には不整合がある.Irwin は Γ を APo. の改訂と見るが,Lukasiewicz は Γ 自体が証明不可能なものを証明する点で矛盾していると見る.Code は Irwin に反対して,Γ は PNC を証明しようとしているわけではなく,PNC について,PNC が疑いえない (indubitable) ことを証明しているのだ,と論じる.

Code の議論は,Γ3 にはよく当てはまる.PNC に関して「なぜ」成り立つかは言えず,むしろ PNC 自身が,「なぜ」PNC が疑いえないかの説明になるのだ: PNC は PNC 自身が思考の法則たる所以を説明する.

他方,Γ4 も PNC の疑いえなさを示す議論になっているかは疑わしい.Γ4 には7つの論駁的論証があるが (Kirwan),それらの議論の結論の多くは PNC そのものである.Code はこうした議論も,既に PNC を受け入れている人に対して,なぜ PNC を受け入れているべきか (must accept) を示すものだと論じる.この手続きの奇妙さは Code の ‘must’ の意味づけによって覆い隠されている: Aristotle ‘in showing why I must accept [PNC], ... is not giving me a reason for accepting it ... He is giving a reason why it must be the case that I ... accept it’ (356). しかし,PNC 自身を示すことが,そうした意味での ‘must’ を示しうる理由は明らかでない.

それでも,Code の示唆には魅力がある.有意味な発話をするために PNC が必要であるという主張には曖昧さがある: PNC を受け入れねばならないのは,発話者なのか,我々理論家なのか.発話者も PNC を受け入れるべきなのか.なるほど,PNC を受け入れない場合,彼は自分の言語的成功について適切な理論を組み立てられないだろう.しかし彼が発話者としても成功しえないかどうかは,まだ示されていない.この点が解決されれば,一階の主張として提示されているものを二階の主張として理解し,「……それゆえ,(論敵が明らかに想定しているように) PNC は真である」という仕方で括弧を補えるかもしれない.形而上学的主張を前提に用いているという Irwin 批判も強力な論拠である.

Code 説に関するもう一つの疑念は,論駁的論証を APo. モデルに適合する学知の一部と見なせるかに関わる.APo. には公理そのものを学知の主題的対象とする視点は存在しない: 学知は諸原理に到達し,諸原理を用いるが,諸原理そのものを主題とするわけではない.

第一哲学が公理を探求するのは,〈あるものども〉を探求するからだ,という想定もありうる.だが Code はこれを採っていない (公理は〈あるもの〉ではない).Code 自身の議論は原理から主題にかすかにシフトしており,その一因はアリストテレスの ἀρχαί の多義性にあるだろう.いずれにせよ,この点では Irwin が正しい: Γ は APo. からラディカルに離反している.APo. の理論は一階の諸科学理論についての理論だが,Γ の理論は Γ の理論自身を含む全理論の理論である.

Code 論文のその他の論点を検討する.周知の通り Γ3 は p と信じることと \lnot p と信じることが反対であるという前提から PNC の不可疑性を出している.これはしかし「\forall x\forall F 誰もが \lnot(Fx \land \lnot Fx) と信じている」と「誰もが \forall x\forall F\lnot(Fx \land \lnot Fx) と信じている」の混同に基づくのではないかと思われる.これを深刻に考えない論者もいるが (Dancy, p.4),Code は深刻だと考えるのではないかと思う.実際 Code は Γ3 の議論を PNC 自体ではなくその諸実例の不可疑性に基づくものとする.ただしその場合,Γ4 と Γ3 のつながりは不明瞭になる.Code が主張するように Γ4 が Γ3 の補助議論だとすれば,Γ4 が支持するテーゼと Γ3 で不可疑とされるテーゼは同一でなければならないはずだ.すると Γ3 は PNC 自体の不可疑性を示すものだと思われる.ただしその場合,上述の量化子スコープの問題が出てくる.

最後に,Code の Irwin 批判の論点の一つは,Γ4 の前提 (本質主義) が自明に真でないことである.この批判はいくつかの疑問を招く.

  1. 「人間にとってのあること」のような表現はアリストテレス本質主義を用いていることの証左となるか.
  2. 用いているとして,そのことは一般的形而上学的原理の信頼を損なうか.
  3. なぜアリストテレスは本質的属性に関わる PNC だけを考慮して PNC が擁護できると考えたのか.

以上の問いは Code 解釈の検討に必要と思われる.答えは出せないが,以下では提案と注意を与える.

まず 1 について.本質主義の言語の登場は,必ずしもアリストテレス形而上学の負荷がかかっていることを意味しない.「人間にとってのあること」が導入される場面 (1006a) に特に必要な前提はない: それは単に語「人間」が意味表示するものである.とはいえ,この手の疑惑を完全に斥けることはできない.例えばアリストテレスは言明の「ある」と述定の「ある」を曖昧にしている.また1007a20-b18 の議論は確かに実体と本質的述定についての特殊なテーゼを用いている.

次に 2-3 について.アリストテレスは「人間は一つのものを意味表示する」という原理に訴えているが,これは任意のものに適用できるのか (例えば「白い」に).なるほどアリストテレスの考えでは,任意の述語は何らかの主体に本質的ではあろう.しかし,PNC は付帯的述定の場合にも効いてこなければならないはずだ.

こうした問いに答えない限り,アリストテレスの PNC 擁護論の意図を完全に理解することはできないだろう.