Γ の属性論の位置づけ.確定性原理としての PNC Brinkmann (1994) "Commentary on Gottlieb"

  • Klaus Brinkmann (1994) "Commentary on Gottlieb" Proceedings of the Boston Area Colloquium in Ancient Philosophy 8, 199-209.

Gottlieb (1994) へのコメント.


論点は二つ.

  1. Tht. を引き合いに出すことの是非.
  2. 擁護されているヴァージョンは本当に一つだけなのか.

わき道の問題からはじめる.Gottlieb は,「PNC が第一原理なのにその論証を行おうとする (cf. APo. I.1-4)」という点を序論で問題にしている.実際には Γ4 自体この点に触れており,「論駁的論証」だという特徴づけによって応答している.直接的証明は論点先取を免れないため,論敵の代替案の矛盾を衝くという仕方でしか議論できない.――ただし,このやり方では,原理の必然性 (第一原理であること) までは示せない.だから実際には,Γ4 は APo. I.1-4 で定められた限界を超え出ている (後述).

Gottlieb が Tht. と Γ4 を結びつけるのは正当である.たしかに両方ともプロタゴラス説を背理に導いている.ただ,そこから自己論駁に至るかどうかは定かでない:「すべての真理が相対的である」(一階) と「『すべての真理が相対的である』は真でない」(二階) が矛盾するか否かによる.

さらに,プロタゴラスがえらい哲学者だというソクラテスの評価が単なる皮肉でないとすると,自己論駁を想定していなかったとは考えにくい.だから,プロタゴラスの主張は,より無害なものだったと私は考えたい: 「感覚は抜きがたい (incorrigible) ものであるため,自分の感覚印象の「意味」について誰かと論じ合うことはできない」.実際これが Γ5, 1010b1ff. や Tht. 159d でプロタゴラスに帰される立場である.もっとも独立の証拠がない以上,彼にとって抜きがたさが真理性を含意したかどうかは,問うても仕方がない.

Gottlieb を批判するとすれば,Tht. と Γ の結びつきを強調するあまり,両者が異なる課題に取り組んでいる点を過小評価している点だろう.Tht. のゴールは「感覚と知識は同義でない」と示すことであり,同義でない理由は,(1) 同義だとすると真なる感覚と幻覚が区別できず,また (2) 一階の真理主張と二階の真理主張の区別が潰れ,自己論駁に陥るからだ.他方 Γ は,単に論理的矛盾を示すのみならず,破滅的な存在論的含意を示そうとしている: "a is F" の現れと "a is F" を同一視すると,それ自体として何であるかが言表不能になる (Γ4, 1007b18-1008a7).プロタゴラスの世界はラディカルに理解不能なものになる.これは Tht. とは異なる成果である.

以上のラディカルな含意をプロタゴラスに帰するためには,アリストテレスは,一階の真理主張が主観的だという弱いプロタゴラス的前提が,実在のみならず現れについての言表不能性を含意する (i.e. 現れ主義 (phenomenalism) は存在論として不可能である) と論じなければならない.Gottlieb がプロタゴラス批判と本質主義擁護のつながりを発見したのは興味ある寄与と言えるが,彼女はアリストテレスの論証のこのステップを論じていない.実際のところ,現れ主義批判はプロタゴラスへの明示的言及 (1007b22f.) に先立っており,かつアリストテレスによれば,現れ主義者は PNC の妥当性を認めている (1007a29ff.).だから,反本質主義批判における論敵は,プロタゴラスではなく,プロタゴラス説を下述の「付帯性現れ主義」(accident phenomenalism) に転換する人々である.

Γ4, 1007a20-b18 は,付帯性現れ主義が自己論駁的だと論じる.そこでのポイントは,付帯性現れ主義が PNC を拒否しているということではなく,付帯性現れ主義が主述構造を確立し得ないということである.主述構造なしでは,高々ものを名前で呼ぶことしかできない.現れ主義一般は,付帯性が非付帯的な何かに吊り下がる (hook on) ことでしか可能でない.加えて,非付帯的な何かは本質的でもなければならない; さもなければ何かがそれ自体であるとはいえず,付帯性しか認めない立場に逆戻りする.したがって現れ主義は本質主義に寄生的だが,そうすると整合的な存在論にならない.――ここでも PNC なしに議論は組み立てられている.

そういうわけで,付帯性現れ主義は PNC 違反を批判されているわけではない.アリストテレスはむしろ,主述構造に関する指摘を通じて,付帯性現れ主義をプロタゴラス説に還元しようとしている.ところで Tht. でも,はじめプロタゴラスは付帯性現れ主義者として描写されるが (152aff.),この描写は後に訂正される (157bf.).結論としてアリストテレスは,付帯性現れ主義を,PNC を認めつつ本質主義を回避しようとする試みとして批判しているのだ.

第二の論点について.私の考えでは,PNC には三ヴァージョンあり1,どれも,我々の合理性・理解可能性に関する見方の確信にある単一の原理の表現である.これを確定性原理 (principle of determinacy) と呼ぼう.PNC は以下の三ヴァージョンである.

  1. 述定的確定に関する確定性原理 (PNC1),
  2. 思考と〈ある〉に関する確定性原理 (PNC2),
  3. 論証的言説に関する確定性原理 (PNC3).

PNC1, PNC2 は Γ3-4 で長々と論じられる.\lnot (P\ \text{and}\ \lnot P) の形で表せる PNC3 は Γ4 末尾 (1008a7-b31) で触れられる.PNC2 はいわゆる同一律  A\ \text{is}\ A,  A\ \text{is not}\ \lnot A である.これは意味・思考・もののすべてに当てはまる.これを存在論的原理と呼ぶ.これは述定以前の原理である.そして最初の PNC1 は述定における項の関係を統制する.これは \lnot (x\ \text{is}\ F,\ \text{and} x\ \text{is not}\ \lnot F) (+ その他の制約) と表現できる.

以上は PNC が第一原理である理由に関わる.PNC は〈ある〉限りの〈あるもの〉の学知の範囲と内実を定める文脈で登場していた.PNC が第一原理なのは,単に全ての学知が前提するからだけでなく,PNC なしには思考が構造を持ちえず,実在に構造を帰しえないからだ.PNC は思考および思考の対象である限りの〈あるもの〉の確定性を確保する原理なのだ.

なお項・存在者,述定,理論構築の三段階の PNC があると考えるのはわかりやすい.

なお PNC が本質主義へのコミットメントを導く理由はわからない.Russell 的センスデータ現象主義や Locke 的唯名論は可能に思える.


  1. 見られるように,ウカシェヴィチのそれではない.