ソフィストが本質を持たないために分割法は失敗した Brown (2010) "Definition and Division in Sophist"

  • Lesley Brown (2010) "Definition and Division in Plato's Sophist" Definition in Greek Philosophy, Oxford: Oxford University Press. 151-173.

I 序論

ソフィスト』『ポリティコス』で客人はいわゆる分割法による定義という課題を追求する.

多くの初期対話篇は「何であるか」の回答に没頭し,満足な回答の条件は以下のように示される: F の定義は,Fs に (のみ) 共通であり,それを通じて (through which) FsF であるものだ.定義は「何であるか」= F の本質 = Fs が なぜ F かを説明するものでなければならない.『ポリテイア』においても問答法はこうした探究を含む.ただし『ポリテイア』は問答家が総観的 (συνοπτικός) でなければならないという条件を付加する.

問題は『ソフィスト』『ポリティコス』が以上の考えを保っているかである.しかし,ここにはいろいろな問題がある.特に『ソフィスト』.ソフィスト (術1) (sophist/sophistry) の定義は7つ提示されるのだ: (D1) 徳を教えると称する若者の狩人,(D2) 知識の貿易商,(D3) 魂のための小売商,(D4) その製造業者,(D5) 金銭を稼ぐ争論家,(D6) 論駁によって良いものを悪いものから分離する教育者,(D7) 現れの作り手,知者の模倣者.研究者は,ソフィスト術とは何かについての積極的成果をこれらに期待すべきでないと見る「否定派」(no-faction: Ryle, Cherniss) と,積極的成果を見出しうるとする「肯定派」(yes-faction: Moravcsik, Cornford, 納富) に分かれる.Brown 自身は否定派につくが,それは分割法の失敗ゆえではなく,対象であるソフィストに見出すべき本質がないからだと考える.

II 分割法に関する予備的叙述

パイドロス』でソクラテスは「総合」の後に「分割」を説明する (266b).

分類法か定義か

パイドロス』の分割法の目標は分類図式 (taxonomic, classificatory scheme) の獲得に見える.他方,『ソフィスト』『ポリティコス』では主として定義が目標だと思われる.(i.e., 前者は木構造全体の画定を目指し,後者は特定のターゲットをある枝の端点に位置づけることを目指す.) しかし,これは妙だ:

  1. ソフィスト』での実践が『パイドロス』で導入された方法と食い違っている.
  2. パイドロス』の方法は『ソフィスト』中央部に見られる総観的理解への関心の増大と相性が良いはずだ.
  3. ソフィスト』冒頭ではソフィスト―哲学者―政治家に関する課題が立ち上がる.ゆえに,三者の関係の体系的探究が予期される.なのに分割法は,実際には「定義」に用いられている.

先述の通り,回答の鍵は探究対象の本性にあると以降で論じる.

術語,論理,存在論に関するいくつかの問い

分割法は κατ'εἴδη ないし κατὰ γένη に行われる.Moravcsik と Cohen は εἶδος, γένος, μέρος が外延的/内包的いずれに理解されるべきかを論じ合ったが,完全にどちらか一方だとは言えないという結論は共有している.また εἶδος と γένος はしばしば互換的に用いられる.ゆえに,「γένος がクラス,εἶδος がクラスの分割の仕方を定める性質」という解釈は取れない.

μέρος とは分割の結果である.εἶδος は μέρος だが μέρος が εἶδος だとは限らない (e.g., 'βάρβαρος'); おそらくは,真正の種を取り出していない場合があるからだ.(以降で,「ソフィスト」もその例だ,と論じる.)

'κατὰ' は普通の 'according to' ではなく 'into' を意味する (cf. Phd. 265e).だがいずれにせよ,分割は新規な (de novo) 分割ではなく,関節に沿った分割である.もっとも,「肉を関節に沿って切り分ける」という比喩が分割の客観性を示唆するのに対して,『ソフィスト』『ポリティコス』の分割は,しばしば,任意の・気まぐれな・特定の論点に関するものに見える.しかも,定義がたくさん出てくるだけでなく,τέχνη の分類の最初の分かれ目からして両対話篇で違っている (獲得的/生産的; 実践的/理論的).

III 分割法を通じたソフィスト探求の成果を見出すにあたっての障害

以下で肯定派の議論を批判する.Moravcsik は,各々の定義が,ソフィスト術の正しい固有の特徴づけ (correct unique characterization) だと論じる.Moravcsik によれば,定義の多数性は,各々が実在に根拠を持つことを排除しない.プラトンが単一の本質を探求しなくなったのだとすれば,確かに興味深い.しかし,以下で論じるように,『ソフィスト』のテクストからはそうしたことは言えない.

問題は,定義の諸要素が不整合なことだ.(a) ソフィスト術の対象は,D1-D4(, D5) では徳に関することだが,D7 ではあらゆる事柄とされる.(b) D1-D5 はソフィスト術を獲得的とするが,D7 は生産的とする.分割は必ずしも排他的ではないとはいえ,同じ種が分割の両側に来られないとプラトンが思い描いていたことは明らかだ (例えば「獲得的」の定義 (219c1-8) は δημιουργεῖν を排除している).なのに客人は,D7 が D5 と異なる分枝にソフィストを位置づけていることを明示する.いくらソフィストが扱いづらいとは言え,両立不可能な性質を持つことはできない.したがってここでプラトンは,何かがおかしい (amiss),少なくとも全ての定義が正しい特徴づけではない,ということを合図している.

もちろん,定義の各々がソフィストの様々なタイプを示している,ということはありうる (Sidgwick).しかし実際はそのように提示されてはいない: ソフィストはあくまで分割の端点であり,それらの類とは言われていない.ゆえに,Moravcsik 路線には問題が残る.

もう一つは Cornford および納富の路線で,D7 にのみ成功を認めるものだ (ただし後者の議論はニュアンスに富み,D1-D6 に別々の役割を与える).だが,この最後の定義も,多くの問題がある.第一に,獲得的・争論的側面が落ちている.第二に,像 (likeness, εἰκών) と現像 (semblance, φάντασμα) の区別が問題である.前者が真,後者が偽なる像だという解釈はうまくいかない: 知識から生じる模倣の種類が後者に属すると,続く分類でわかるから.さらに知識の欠如に気づいているか否か,そして私的に話すか否かで区別される.ここで注目すべきは,これらいずれの特徴によっても,哲学者とソフィストとを弁別しがたいという事実である: φάντασμα の創造,器具でなく身体を用いること,知識を持つことも誤ることもあること,無知に気づいていること (εἰρωνικός).いくつかの特徴はソクラテスを想起させる.

IV ソフィストは哲学の τέχνη とは別の τέχνη なのか

C. C. W. Taylor は分割におけるソクラテスの暗示に基づき,ソクラテスは今や哲学者ではなくソフィストに分類されていると結論する.強力な議論だが,哲学とソフィスト術が本質をもつ τέχνη だという著作の見かけ上の前提を受け入れている点に問題がある.

これまでソフィスト術が τέχνη だという前提は疑問に付されてこなかった (『ゴルギアス』ではこれが否定され ἐμπειρία に区分されている (462-3)).また個々の τέχνη をどう区別すべきかという,プラトンの著作に通底する問いにも注意が払われていない.

V τέχνη たることの基準に関するプラトンの見解

τέχνη とは (価値ある) 目標に達する合理的能力である (成功・失敗の原因の理解を伴う).ゆえに,τέχνη の本質の説明は目標に言及しなければならない.

ソフィスト術はそうした目標を持つだろうか.初期対話篇でソフィストは,真理ではなく論敵を倒して得られる名声のために議論していると非難された.また,知恵があるというソフィストの自認を,プラトンは無根拠だと見なしている.こうした特徴は各定義に現れている.そしてソフィスト術の固有の目標はどの定義にも与えられていない.特に D7 はこの点で目立って失敗している.

ソフィストは画家と類比されつつ,人々を欺く像 (deceptive images, 就中ソフィスト自身が賢いという虚偽の信念) を作り出すものと規定される.だが「人々を欺く像を作り出す」ことが目的ではない; ソフィストの目的は自分が賢いと信じさせることにあり,それが「欺く像」なのは,ソフィスト自身がペテン師だという事実による.したがってソフィスト術は真正の τέχνη ではない2

他方でソフィスト術は成功・失敗の原因の理解を伴うだろうか.〔伴うと言うには〕ソフィスト術の特徴づけは多すぎる.ソフィスト術は τέχνη ではなく,むしろそれ自体としては尊重すべき真正な τέχνη の,欺瞞的な実践なのだ.

他方,プラトンにとって,技術の主題 (subject matter) が τέχνη の画定にどんな役割を果たすのかは,定かでない3

要するに,τέχνη の定義・分類は,真正な τέχνη についてさえ容易でない.しかし『ソフィスト』では,ソフィスト術が真正の τέχνη だという主張を立証する真剣な試みはなされていないし,ましてその本質的性質が何かということは示されていない.

VI 結論

  1. 分割法はソフィスト術という τέχνη 固有の定義を与ええたか.――否,そう思わせることをプラトンは意図していない.
  2. 分割法は τέχνη の固有な定義を与えうるのか.―― プラトンは τέχνη の客観的基準があるとは思っていたが,分割法などによって固有の定義を与えうると楽観してはいなかったと思う (cf. sec. V).
  3. 分割法が何かについて本質を示す定義をもたらすとプラトンは望み得たか.――『ソフィスト』からは肯定的な答えは出せないが,そうした野心が残っていなかったとは言えない.
  4. ソフィスト』の議論はソフィストと哲学者の本性,および両者の関係について何か知見をもたらしたか.――これにちゃんと答えるにはさらなる読解が必要.対話篇は哲学者とソフィストのアプローチと関心の対比について多くを明らかにしているが,それはソフィストの正しい定義・分割を通じてではないのだ.

  1. ただし以下で Brown は sophistry が τέχνη ではないと論じる.

  2. この辺はちょっと引っかかりを感じる.要検討.

  3. この段落 (p.167-168) の趣旨はあまり読み取れなかった.