概念分析は概念の分析ではない Deutsch (2020) "Conceptual analysis without concepts"

面白かった.ごくざっくりまとめたので多少論点が落ちている.


概念分析の実行可能性と有効性について多くの哲学者は懐疑的である.こうした懐疑論の多くは,概念分析が概念の分析であるという前提に依拠している.だが本稿は,「概念分析」は誤称 (misnomer) だと主張する.概念分析に従事する哲学者は,概念を分析する営みに従事してはいないのだ.

概念分析の中核的な諸事例のほとんどは,非概念的な哲学的現象 (e.g., 知識,自由,個人の同一性,道徳的正しさ,指示,因果) の分析であって,それらの概念の分析ではない.(ここで「哲学的現象」とは,哲学者が関心を寄せる現象,という以上の意味ではない.) この見解は,「哲学の主題は概念ではなく現象である」という Hilary Kornblith の (正しい) 見解に近い.しかし Kornblith も,概念分析への懐疑論を表明している.だが,概念分析をする人が現象を分析しているのだと考えるなら,概念分析を疑う理由はないのだ.

したがって,私が擁護するのは,「概念抜きの概念分析」(conceptual analysis without concept) である.これは撞着しているが,本稿の見解をよく示している.このフレーズはまた,Herman Cappelen (2012) の「直観抜きの哲学」を響かせている.最終的に私は,概念も直観も抜きの概念分析理解を擁護する.

ここで私は「概念工学」を行おうとしているわけではない:「概念分析」は概念を分析しない実践を指示するべきだとは述べていない.私の考えでは,現にそうした実践が指示されているのだ.そうした実践をそのとおりに描写し擁護するのが,本稿の目的である.

1. 概念分析を含むと考えられているプロジェクト

(1) JTB 理論とゲティアの反例,(2) 自由意志・道徳的責任とフランクファート事例,(3) 人格的同一性の諸基準,(4) 帰結主義とトロリー問題,(5) 名前のメタ意味論,(6) 因果と欠落,といった様々な論争は,すべて概念分析を含むと考えられている.

2. 懐疑論と概念の前提

概念分析の実践に関する反懐疑論を支持する根本的な理由は,上記の様々なプロジェクトが完全に立派で,実行可能で,場合によって実り多い哲学的プロジェクトだということだ.

そしてこれらは,実際に概念分析だと言える.なぜなら,実際に「概念分析」というラベルがこれらの実践に用いられてきたからだ.これは誤称であるが (「神聖ローマ帝国」のように),しかし空名ではない.現在「概念分析」が1節で列挙されたようなプロジェクトを指示しており,歴史的にも概ね似たものを指示しているとすれば,「概念分析」の外延は与えられていると言える.この外延に入るプロジェクトに対する懐疑論に根拠があるかどうかが問題である.

懐疑論の多くは,概念分析が概念を分析しているという前提に基づく (概念の前提 Concept Assumption).だが以上論じた (以下詳述する) ように,概念の前提は偽である.

一方で,懐疑論者は他にも,概念分析の成功した事例はない,としばしば主張する.これを「不成功に基づく異論 (Bad Track-Record Objection)」と呼ぶ.これを含むいくつかの批判は概念の前提と独立になしうる.

如上の懐疑的反論 (合わせて8つ) に 2.1, 2.2 で応答する.ここでの応答は,懐疑論が正当化されないと証明するものではないが,少なくとも反懐疑論がより合理的な態度であることは示しうる.

2.1 概念の前提に基づく懐疑的異論

2.1.1 理論がないこと,反古典主義,心理学に基づく異論

「概念とは何か」については定まった答えがない.「全体で十分条件をなす必要条件の集合として構造化されている心的表象」(古典主義),「関連するカテゴリーの典型的メンバーの表象」(プロトタイプ理論),表象されている種についての「暗黙の理論」(理論理論) など.ここから,概念分析家は自分が何を分析しているのか知らないという反論が出てくる (理論がないという異論 No Theory Objection).これとは別に,概念分析家は古典主義を採っているが,古典主義は間違いだという方向性の批判もある (反古典主義の異論 Anti-Classicism Objection).

だが,両者とも概念の前提に依拠している.1節に示されたような実践が概念と無関係なら,以上の反論も無関係である.

なお,概念が古典的かどうかは,性質の必要十分条件への情報に富む分析が存在するかどうかという問いと混同されがちであるが,両者は別物である.反古典主義の異論はむしろ心理学的成果に基づく.それゆえ,知識や自由といった非心理学的現象とは無関係である.

心理学的成果とは,人々の分類行動における典型性効果 (typicality effects) のことである: ひとは xF の典型的な例である場合に,非典型的な例である場合より素早く xF だと判断する.ここで,概念とは人々の実際の分類行動を導く心的表象だという前提を置く.そこから,次のような心理学に基づく異論 (Psychology Objection) が出てくる: 概念分析家は,人々の実際の分類行動を導く心的表象について一般化を行うには都合の悪い立場にある (e.g., 経験的研究をしない).――だが,かりに概念分析が概念の分析だったとしても,少なくとも実際の分類行動を導く心的表象の分析ではない.

2.1.2 自然主義的異論

自然主義的異論 (Naturalism Objection) によれば,概念分析家は概念に関する内省・反省を行うが,この手続きは真正の総合的でアポステリオリな知識を表す主張を生産しない.つまり,「安楽椅子哲学」は高々概念についての知識をもたらすに過ぎず,非概念的世界についての知識をもたらさない,という異論である.

この異論の中心的な欠陥は,概念分析家が分析的・アプリオリな主張のみを扱っているかは明らかでないという点にある.Papineau が述べるように,多くの哲学的主張は総合的でアポステリオリである.実際また,1節の諸主題のどれも,主張が分析的でアプリオリであることを要求しない.Papineau 自身は概念分析に懐疑的だが,それは概念の前提を置いていることによる.

2.1.3 改訂主義/工学の異論

改訂主義/工学の異論 (Revisionism/Engineering Objection) によれば,哲学者は規範的・改訂的分析に従事すべきであり,記述的分析の価値は限られている (ないしは,本当は可能ではない).これに対する応答も,まずは,この異論も概念の前提に依存しているというものだ.記述的な概念分析は,概念の記述的分析ではない.したがって例えば「通俗的」概念 ("folk" concepts) の分析でもない.

他方で,改訂的分析には別の動機もある.Richard 2014 によれば,「自由な行為」などの確定的に正しい (determinately correct) 記述的分析は,(それが現象の分析であれ) 不可能であり,ゆえに改訂主義しか取り柄ない.また Cappelen 2018 も,「哲学的現象についての現在の我々の表象には欠陥があり,どう表象すべきかの探究が必要だが,その探究は本質的に規範的である」と論じる.これらは概念の前提に依存しない.

Richard に対する反論: 我々にどれが「自由な行為」か分からなくても,どれが「自由な行為」かが事実決まっていないとは限らない (認識論的不確定性は形而上学的不確定性を含意しない).また,Richard の議論は,一般に哲学的概念が確定的に指示しないということも示していない.

Cappelen に対する反論: Cappelen が示す概念的欠陥のほとんどは,現象について「ただ言ったり考えたりする」のに概念を用いる妨げになるほど深刻ではない.もっとも,哲学的概念のいくつかが「無意味」(meaningless) だという主張は注目に値する.しかし,全ての (ないしはほとんどの) 哲学的概念が無意味だとは,実証主義者でさえ言わないだろう.

2.2 概念の前提に基づかない懐疑的異論

2.2.1 直観/実験哲学の異論

近年「実験哲学」("xphi") の名のもとで,哲学者は特殊哲学的な直観の信頼性に対する疑念を表している.ここから概念分析に対する異論 (直観/実験哲学の異論 Intuitions/Xphi Objection) が出てくる: 概念分析は直観という証拠に訴えるが,直観は信頼できないので,概念分析の土台も崩れる.

この異論は概念の前提に依拠しない.だが,概念分析家が直観を証拠として扱っているという主張は誤りである.Gettier 1963 さえ直観には訴えていない (Gettier が実際に訴えているのは「反偶運」原理 ("anti-luck" principle) である.1節の他の例にも同様の指摘が可能である.概念分析は,概念抜きで重要な役割を果たせるのと同様,直観抜きでも重要な役割を果たせる.

2.2.2 不成功に基づく異論と分析不可能性の異論

前述の不成功に基づく異論も,概念の前提には依拠しない.だが,不成功という評価が妥当かは疑わしい.JTB の反例,指示の因果説,他行為可能性が責任の要件でないこと,等々の結論は概念分析から得られたものであり,要するに概念分析はうまく行っているように思える.

不成功に基づく異論の支持者には,「概念分析は哲学的概念の完全な分析に至っていない」と考える者もいる.だが,この異論は概念の前提に依拠している.

他方,現象の完全な分析ができていないかどうかについては,まだ結論を出しようがない (the jury is still out).懐疑論者が結論が出ていると考える理由は,完全な分析の多くの試みが失敗に終わっている (「ゲティア学」("Gettierology") の文献の試みのように) ということだ.より一般的には: 完全な分析にはつねに直観的な反例がある.――だが「直観」への訴えは効果的ではない (偽に見える真なる分析はありうる).

いずれにせよ,成功した「完全な」分析がないということには,それほど壊滅的な含意はない.概念分析家は必ず完全な分析を求めているわけではないからだ.そもそも,完全な分析とされるものの反例を挙げること自体,概念分析の一環である.

もう一つの懐疑的な異論 (分析不可能性の異論 Unanalyzability Objection) は,概念分析の対象は (大抵) 分析不可能である,というものだ.例えば Williamson 2000 は,知識が分析不可能だとして,知識の概念分析の伝統的プロジェクトは断念されるべきだと主張する.

この異論には最も共感を抱く.ただし前述の通り,完全な分析だけが分析ではない (Gettier の発見はたしかに哲学的進歩である).さらに,ある哲学的現象がプリミティブだとしても,このプリミティブな現象から分析可能な現象はある.Williamson の議論はむしろ重点の移動であり,彼自身たとえば信念と証拠を知識から分析している.

3. ありうる懸念

3.1 概念を分析することは不可避ではないか

例えば Gettier の主張は知識の概念の外延についての主張を含意しないか.――含意するが,どんな主張も (例えば「金利が上昇しています」も) そうであり,それ以上の実質的な意味はない.

3.2 初期の概念分析家は概念を分析していたのではないか

そうした哲学史観は誤りである.例えば G. E. Moore にとって,分析の対象は現象であった (cf. Moore 1903, p.6 (Section 6)).

3.3 君が擁護していない Jackson 的な分析は概念分析ではないか

Frank Jackson 1998 は,x の「通俗的直観」を集めてきて,それらの直観のほとんどを真にするものを x と同定するような哲学的実践を擁護した.――だが先述の通り,現に概念分析はそうした実践ではない.何が x であるかについての「通俗的信念」と置き換えるとよりもっともらしいが,やはり実状にそぐわない.

3.4 「概念分析」における「概念」は,概念分析家の主張の主題ではなく,主張への認識的アクセスを言い表すものではないか

幾人かの方法論者によれば,概念は概念分析家の主張が真かどうかを知るのに重要な役割を果たす.例えば,主張に含まれる概念を理解するだけで,Gettier 事例が知識の事例でないことはわかる,というように.この手の「認識的見解」が正しければ,「概念分析」はあながち誤称でもないと思えるかもしれない.しかし,概念の前提などを見ても分かるように,この名称はやはりミスリーディングである.

また,そうした概念的理解や「概念的熟達」(conceptual competence) などが直観に結びつくとすれば,直観が概念分析の証拠であるという見解にもむすびつくかもしれない.だが,この結びつきはあってもなくてもよいもので (optional),認識的見解にとって決定的ではない.

3.5 これはただの言葉の問題ではないか

私の主張の一部は確かに,「概念分析」の外延が1節の諸事例を含むという言葉上の主張に部分的に依存している.だが,一般に言葉が何を指すかは選択できる事柄ではない.

4. 結論

概念分析の諸事例は,実際には概念の分析を含まない.哲学者が概念の分析に時間を費やすべきでないとしても,それは概念分析には関係がない.なお,「概念分析」は誤称だが,だからといってこの語を追放しなければならないとは思わない.「概念分析」は既に哲学的現象の分析を追求する哲学的プロジェクトを指示しているからだ.