無矛盾律の正当化は不可能であり,論理的原理とは言えない Łukasiewicz (1910/1971) "On the Principle of Contradiction”
- Jan Łukasiewicz (1910/1971) "On the Principle of Contradiction in Aristotle" trans. by V. Wedin. The Review of Metaphysics 24(3), 485-509.
独語縮約版の英訳.Articles on Aristotle 3 (1979) のヴァージョンとの関係は未確認だが,少なくとも同じ論文の訳稿.
Wedin が論文の性格について冒頭に長い訳者注をつけている: "The article is based on a longer study which appeared in Polish the same year [...] This latter study was the most important of his early writings and figured influentially in the logical-philosophical renaissance of early twentieth century Poland. Lukasiewicz evidently held the study in high regard himself, since in 1955 (a year before his death) he had planned an English translation of it" (485). また同じ注で Wedin は,本論文が三つの意味で Łukasiewicz の論理観の発展途中の段階を示すと指摘する: (1) ブール代数と命題計算の区別に気づいていないこと,(2) 基本法則の改訂が「非アリストテレス的論理学」をもたらすという示唆からして,1910年時点で既に多値論理の可能性に気づいていたように見えること,(3) 無矛盾律の論証不可能性の理由のうち二つは後に再定式化されていること.
現代論理学はアリストテレス論理学に比べて改善を示しているが,それは現代幾何学がエウクレイデス『原論』から改善しているのと同種の改善である.だから,平行線公準の吟味から非ユークリッド幾何学が生まれたように,基本法則 (Grundgesetze) の吟味から非アリストテレス的論理体系ができるかもしれない.最高の諸法則がどう定式化されるべきか,互いにどう関係するか,妥当する領域 (Geltungsbereich) は無制約か否か,何によって正当化されるか,を記号論理の観点から問い直すべきだ.以下では無矛盾律に関するこうした研究の成果を粗描する.
- アリストテレスは無矛盾律を三通りに定式化するが,その違いは明示していない.
- より正確に表せば,こうなる:
- アリストテレス自身,命題の存在論・対象論的意味と,命題に対応する信念の心理的機能とを区別している.
- 一方で,命題は「しかじかであること」(Sosein)・事態 (Sachverhalte) を示す.
- 他方で,言明は信念行為 (ὑπόληψις, δόξα) の知覚可能なシンボルである.
- 前者の側面につき cf. De Int. 4, 17a1-3; 1, 16a16-8. 後者の側面につき De Int. 14, 24b1-3.
- 三つの定式化は全て意味が違う.対象が違うからだ.だがアリストテレスにとっては,存在論的原理と論理的原理は論理的に等価だった (Γ7, 1011b26-27).等価性は言明・命題と客観的事実の一対一対応から必然的に帰結する.
- アリストテレスは論理的原理から心理的原理を証明しようと試みた.証明は二つの部分からなる:
- 「反対のことどもが同一の事柄に帰属することがあってはならず……,否定言明の判断が判断の反対であるのだとすれば,同じ人が同じことを同時に「あり,かつありはしない」と想定することが不可能なのは明らかである」(Γ3, 1005b26-32)."ἐναντία δ᾽ ἐστὶ δόξα δόξῃ ἡ τῆς ἀντιφάσεως" という難解な一節は De Int. 14, 23a27-39 に従って解釈すべきである.
- 「同じものについて矛盾対立言明が同時に真であることは不可能だから,同じものに反対のものどもが帰属してもならないことは明らかである.というのも,反対のものどもの一方は同じくらい欠如であるが,他方で実体の欠如だから.欠如はある規定された種の否定である.それゆえ,真なる仕方で同時に肯定しかつ否定することが不可能なら,同時に反対のものが帰属することも不可能である」(Γ6, 1011b15-21).
- ここから,証明を次のように定式化できる: もし二つの信念行為が同一の意識において成り立つなら,対立する二つの特徴がこの意識に同時に成り立つ.だが,論理的原理より,これはありえない.
- しかし,対立命題に対応する信念行為の両立不可能性を,アリストテレスは示せていない.De Int. 14 に関連する議論があるが,二つの理由から決定的でない:
- いずれにせよ,心理的原理については以下のことが言えるはずだ:
- アリストテレスは存在論的・論理的無矛盾律を最終的で証明不可能な法則だと主張するが,そのことを証明していない (cf. Γ4, 1006a10-11).
- 実際,より単純で明証的な原理はある.特に同一律: 各々の対象には,帰属する特徴が帰属する.
- だが同一律でさえ究極的法則ではない.それは真なる命題の定義から論証できる:
- あらゆるアプリオリな原理は証明可能であり,証明されているのでなければならない.
- それ自身によって (durch sich selbst) 証明される原理が一つだけある:「肯定的命題は,対象に適切な特徴を与えるとき,真であると私は指定する」.
- 他の原理は,真である場合,先立つ他の原理から証明される.
- アリストテレスは無矛盾律の論証不可能性を宣言しておきながら,その証明を与えようとしている (Γ4, 1006a11-13).「論駁的」(ἐλεγκτικῶς) という語によって隠されているが,ここには矛盾がある.
- アリストテレスの無矛盾律の論証は以下の通り.前提: 語がある本質的に単一のものを指すとする.
- 証明1 (Γ4, 1006b28-34): 語 A が,本質的に B であるものを指すとする.すると対象 A は必然的に B である.すると A が B でないことはありえない.
- 証明2 (Γ4, 1006b11-22): 語 A が,本質的に B であるものを指すとする.すると対象 A が同時に本質的に non-B であることはありえない (さもなければ本質において統一されていないことになる).
- 帰謬法的証明1 (Γ4, 1007b18-21):「さらに,もし同一のものに関する全ての矛盾対立言明が同時に真であるなら,全てが同一であるだろうことは明らかである.というのも,ちょうどプロタゴラスの言論を語る人々にとって必然的であるように,或るものを全てのものについて肯定するか否定することがあってよいとすれば,三段櫂船も壁も人間も同一であるだろうから」.
- 帰謬法的証明2 (Γ4, 1008a28-30):「これに加えて全ての人々が真なることを言い,かつ全ての人々が偽なることを言うこと,また自分自身が偽なることを述べているということで自分自身と合意すること,が帰結する」.
- 帰謬法的証明3 (Γ4, 1008b12-19):「そこからして,誰もそのような状態にはないし,ものを述べる他の人々にこの言論は属さない,ということは,この上なく明白である.というのも,歩こうと考えるときに,何ゆえメガラへと歩き,静止しないのだろうか.またごく朝まだきに井戸や峡谷に行き当たったとき,そこに足を踏み入れはせず,むしろ,そこに陥ることが同様に良くなくかつ良いとは考えていないごとくに,注意しているように現れるのか.したがって一方がより良く,他方がより良くないと想定していることは明らかである」.
- 証明の批判.
- 論点のすり替えという点について付言すると,Γ4 の最後の一節を見れば,一般的な無矛盾律ではなく,何か矛盾のない絶対的真理があるという点を示すことに課題が移行していることが分かる.
- この移行には理由がある.
- アリストテレスによれば,無矛盾律は最後の (allerletzte) 法則であるのみならず,最高の (supreme) 法則でもある (Γ3, 1005b32-34).ただしアリストテレスも,他の全ての論理的公理の必要条件だとは述べていない.推論形式と無矛盾律は独立である (cf. APo. I.11, 77a10-22).
- 実際また,記号論理が示すように,多くの論理的原理は無矛盾律と独立である.帰納や演繹の基本法則も全体としては無矛盾律を前提しない.無矛盾律は最高の原理ではない.直接的な証明については,そうは言えないのだ.
- 歴史的-批判的論究は以上である.では,無矛盾律の正当化はどこから得られるのか.
- 無矛盾律は直接的に明証的ではない.明証性 (evidence) は真理の基準にはならないし,そもそも誰にとっても明証的ではない.
- 無矛盾律は人間の心的組成 (psychical organization) が決定する自然法則として措定できない.心的組成による偽なる命題を規定することは可能だし (e.g. 錯覚),そもそも心的法則として妥当か怪しい (cf. §7).
- 否定の定義から示す (cf. Sigwart) こともできない.アリストテレスはこれを検討し論点先取を疑った (Γ4, 1008b34-b1).論点先取ではないが,妥当ではない.「A は B でない」が「A は B である」が偽であることを示すとすると,無矛盾律はそこから出てこない.また,「偽なる命題は客観的事物の表象でない」と定義すると,無矛盾律が成り立たないとき,「A が B であり,かつ,ない」なら,「A は B である」が単に偽になる5.
- 無矛盾律の証明は矛盾する対象の存在を考慮に入れねばならない.「対象に同一の特徴が同時に属しかつ属さないことは できない」はほぼ確実に偽である.これが真なのは,「対象」が矛盾を含まない対象を指す場合にすぎない.可能なもの (the possible) や現実的なもの (the real) が矛盾を含まないかどうかが問題になる.
- 無矛盾律は前提としてしか妥当でないので,論理的価値はない.しかし,実践的・倫理的価値はある.無矛盾律なしには,他の命題を偽なる命題から守れない (e.g., 偽証された被疑者は無実を立証できない).この意味で無矛盾律は人間の知的・倫理的な不完全性のしるしであって,このことは論理的価値への疑念を正当化する.アリストテレス自身,無矛盾律の実践的・倫理的価値に少なくとも感づいてはいた.それゆえアリストテレスは無矛盾律の反対者たちに力強く反対した.ただし彼は,自分の議論の弱さに気づいていたのかもしれない.それゆえに,最終的な公理,争う余地のない教説であると布告したのだ.