無矛盾律の問題性 Łukasiewicz (1987) Über den Satz des Widerspruchs, Einl.

  • Jan Łukasiewicz (1987/1993) Über den Satz des Widerspruchs bei Aristoteles. aus dem Polnischen übersetzt von J. Barski. Olms.
    • Einleitung. 1-8.

原題は (私は読めないけど) O zasadzie sprzeczności u Arystotelesa, Studium krytyczne. 第一版は 1910 年刊行で,本書は Woleński 編の第二版 (1987) の独訳.このほか伊訳 (2003) も出ており,縮小版の独語論文は英訳されている.


哲学史において無矛盾律に関する論争が白熱した契機は二度あった.一つはアリストテレスに,もう一つはヘーゲルに帰せられる.アリストテレスは無矛盾律を最高の法則として定式化し,この法則を認めない人々 (アンティステネス,メガラ派,ヘラクレイトスプロタゴラス) を執拗に論駁した.爾後これに異議を唱える人々は絶えてなかったが,ヘーゲルが,現実が理性的であると同時に矛盾に満ちていると論じて,ソフィスト復権し,ヘラクレイトスの教説を論理学の体系に組み入れるに至って,論争は再燃した.――今ではその論争も静まり,無矛盾律の問題系 (Problematik) もアクチュアルなものではなくなっている.それゆえかえって冷静に研究できるだろう.

問題系は慎重に,しかし厳しく批判されねばならない.この問題系には様々な解かれていない糸口があり,それらは我々の学問全体の最も深い基盤に触れている.結び目の一つだけを解消するようなどんな小さな発見も,学問にとって重大な帰結をもちうる.それゆえ,問題系を探究するのみならず,どうしてこの問題系を誰も批判的に取り扱ってこなかったのかを問うこともしてみる価値がある.

答えは学問の歴史にある.無矛盾律からの・に基づく学問的探究は,その境界を越えることはなかった.演繹も帰納も『オルガノン』の指針に依拠しており,探究におけるその論理学の有用性は立証されてきた.個別科学において,無矛盾律の改訂や批判的検討を迫る問題は生じなかったのだ.論理学は事実とよく合致しており,有用性もこの合致に基づく.

個別科学の著しい進展に比して,〈ある〉そのもの (byt w ogóle) とその本質的諸属性,さらに世界全体や過去と未来,始まりと運命 (Bestimmung, przeznaczenie)1 を扱う一般学 (「第一哲学」) ははるか後方に取り残された.形而上学アリストテレスの据えた基盤を越えていないと認めねばならない.それゆえカント以来,形而上学は人間悟性の認識能力を超出しているという意見も絶えない.

もちろん,悟性にではなく,問いを扱う能力に限界があるのではないか,という疑いも起こった.アリストテレス論理学は,事実の認識には有用でも,本当の世界の精妙な構造を発見するには大雑把すぎるのかもしれない.そう考えたのがヘーゲルである.彼は全体としての世界の探究が必然的にアンチノミーに陥るというカントの主張を受け入れつつ,それゆえ世界の本質は認識できないという帰結を斥ける.かくして彼は無矛盾律に依拠しない「形而上学的論理学」を作り出す.この試みはラディカルではあったが,把握して受け入れるには充分厳密でなく不明瞭だった.以下の諸点が確立されねばならないのだ: 諸原理の意味は何か,どう定式化すべきか,その確実性をどう保証できるか,それらは互いにどういう関係にあるのか,各々から何が帰結するのか,どれかを破棄して他のもので代用できるか,事実の探究に有用でありうるか.これを果たさなかったためにヘーゲルの着想は力を持たなかった.かくして,ヘーゲル以後のしばらくの間を除けば,個別科学においても一般学においても,無矛盾律と取り組もうという欲求は生じなかった.

だが,哲学に不可侵の (unantastbare),しかも無根拠な (unbegründet) 原理があることは好ましくない.それがかつて論争の (Streites) 対象となったとすればなおさらである.ここに無矛盾律の歴史における第三の契機が近づいている.この時機は,幾何学の発展における平行線公理の改訂の時機と同様に,必要である.アリストテレスによる論理学の創始は,あらゆる創始がそうであるように,不完全な仕事だった (とはいえ,完成度の高さゆえに,さらなる進展が阻まれるほどではあった).だが最初にライプニッツが,次いで19世紀後半に Boole, De Morgan, Jevons, Peirce, Schröder, Russell, Peano が,伝統的論理学を深め,広げた.それは依然としてアリストテレスが発見し認識した法則を受け継ぐアリストテレス的論理学だったが,さらに新たな法則を発見し付け加えもした.それら諸原則の関係を熟考し探究するという,ヘーゲルがやり残した仕事をするときが来た.まず,無矛盾律がいかなる位置価をもつか,その妥当性と価値は何に存するか,適用可能性はどれほどか,が判明するだろう.すると,無矛盾律が本当に最高度の命題なのか,それともそれなしのアリストテレス論理学 (cf. 非ユークリッド幾何学) が可能なのか,が明らかになる.アリストテレスの著作がこれらの研究をけしかけているのに,今まで誰もこれに応じていないのだ.

また,非アリストテレス的論理学が統一的で整合的な体系ではありえないとわかったとしても,そうした研究は無意味ではない.伝統的論理学の基盤が明らかになるし,その全体的構造を洗練させられるかもしれないからだ.数学者たち (Russell, Couturat, Frege, Hilbert, Peano etc.) の近年の仕事は,数学全体が形式内容両面で若干の論理的概念と前提から導出されることを示した.これは論理学者の手本となるだろう.ただし,こうした「メタ論理的」研究を全体的に叙述すること,あるいは現代論理学に関連して無矛盾律の問題系に取り組むことさえ,本書の目的でない.まずアリストテレスに立ち返って,無矛盾律がそれほど確固たるものでないことを示し,問題をよみがえらせることができれば,本書は成功したと言える.


  1. 「さらに」以降はアリストテレスよりはカントに属する問いに見える.