美徳シグナリングは有徳である Neil Levy (2020) "Virtue Signalling is Virtuous"

標題通りの内容.Synthese にはいろんな論文がある.同意するかどうかとは別に論点整理・提起としておもしろい.


1 序論

「美徳シグナリング」(virtue signalling) はしばしば非難されるし,たしかに悪徳をもつ.だが同時に,それを凌駕する美徳をもつ.

Levy はそのことを論証するために,「道徳的スタンドプレー」(moral grandstanding) (≒ 美徳シグナリング) に対して憂慮を示す Tosi and Warmke (2016) を相手取る.彼らによれば,美徳シグナリングは,理由のやり取りを社会的比較に置き換えることで,公的な道徳的言説 (public moral discourse) の主目的を転倒させ,意見の変化を非合理的な/合理性を離れた (ir- or arational) ものにする.これに対して,以下で Levy は,美徳シグナリングはむしろ真正な (高階の) 証拠を行為者にもたらすと論じる.また,実はシグナリングこそそうした議論の主目的だと論じる.

2 美徳シグナリングの悪徳

美徳シグナリングとは何か.Tosi and Warmke によれば,道徳的スタンドプレーとは「自分が「道徳的に立派である」と他人に納得させる目的で,道徳的議論に寄与すること」だ.美徳シグナリングをする人は,問題より自分自身に関心を抱いており,そうして道徳的な議論を「虚栄の事業」(vanity project) に変えてしまう.

そのことの何がまずいのか.偽善であるという点が問題かもしれない.つまり,不正に関心を抱いているように見せかけて,本当は道徳的に進歩しているところを示したいという願望に動機づけられている.こうした自己愛的な動機は,悪徳として非難されるべきだ (deserves aretaic condemnation).

Tosi and Warmke によれば,他にも以下の問題がある.

  1. 復唱 (piling on) シグナリングの機会を得たときに,以前コメントした人と同じ非難を繰り返す.
  2. 増強 (ramping up) 加えて,一層激しく非難することで,以前シグナリングした人を凌ごうとする.
  3. 捏造 (trumping up) 他人が検知できない道徳的問題を検知しようとして,問題のないところに問題を見て取る.
  4. 過度な憤慨 (excessive outrage) 道徳的なまじめさを示そうとして,実際の過ちに対して過大な怒りを示す.
  5. 自明さの主張 (claims of self-evidence) 道徳的鋭敏さを感覚的鋭敏さになぞらえ,過ちは見ればわかると主張し,わからない人に道徳的欠陥を帰する.

美徳シグナリングは道徳的シニシズムを帰結する.増強や捏造,過度な憤慨は道徳的な言葉づかいを安っぽく無力なものにする.丁重であるべきはずの議論が,理由付けに何ら媒介されない振る舞いや信念に影響する.復唱と増強は集団を極性化する.

たしかにこうした否定的影響はあるだろう.だが,どんな実践にも病的逸脱はある.実践が全体として非難されるべきか否かは,利点も勘案した上で判断されるべきだ.ここでは完全な査定はできないが,完全な査定が美徳シグナリングを正当化するだろう予備的理由をいくつか述べる.

3 公的な道徳的言説の討議機能

Tosi and Warmke は,美徳シグナリングが,公的な道徳的言説の熟慮機能 (deliberative function) を妨げると論じる.しかしむしろ,美徳シグナリングは熟慮機能を支えると言える.

「合理的熟慮は証拠に適切に応答するものだが,美徳シグナリングは証拠を与えない」というのが彼らの意見である.しかし彼らは,高階の証拠 (higher-order evidence) を見逃している.高階の証拠とは,信念を生み出すプロセスの信頼性に関する証拠である (e.g., 40時間寝ていない医者の判断は,よく寝ている医者の反対意見ほど信頼性が高くない,というときの,40時間寝ていないという事実).

美徳シグナリングは,判断を共有する人々の確信の度合いと数を伝達することで,高階の証拠を提供する.我々はほとんどのことを証言 (testimony) を通じて知るが,普通の人は証言を査定する際に確信の度合いのヒューリスティックを用いる.数の重要性は,意見の相違の認識的意義について考えればわかりやすい.暗算の得意な人たちの間でたまたま会計の計算に不一致があった場合を考えよう.このとき,自分に同意しない人たちの数が多いほど,自分の業績や知性等々に訴えてその人たちを考慮の外に置くことをしにくくなる.また単純に,少数派のほうに,確信の度合いを減らす合理的圧力がいっそうかかる.逆に言えば,意見の一致も認識的に有意義である.計算が複雑な場合に数値が一致すれば,計算にかなり自信が持てるだろう.

Tosi and Warmke によれば,合理的熟慮が議論・証拠の提示と応答によってなされるのに対し,美徳シグナリングは真理にセンシティヴでない社会的比較によってなされる.またそれによって,集団極性化という非合理的な事態も生じるという.

だが第一に,集団極性化がそれ自体として非難に値するかは自明でない.真理が中間にあると考えるべきアプリオリな理由は存在しないように思われる.全てはグループの組成と意見の分布しだいである (e.g. 戦後のアメリカにおいて人種とジェンダーに関する極端な意見は穏健な意見より的確だった).

次に,集団極性化は,社会的比較という非合理な過程の結果というよりは,合理的行為者が証言の確信の度合いと数を最適な仕方で考慮した結果であると考える理由がある.「復唱」は人数を知る指針となり,それゆえ高階の証拠を提供する.もちろん,それによって真理から遠ざかる場合もある (情報カスケード).だが,そうした場合があるのは仕方ない.意思決定に独立性の要件を課すと,我々は重要な判断材料を失うことになる.ミスリーディングな証拠から身を守る絶対確実なやり方はないのだ.

4 公的な道徳的言説の目的

Tosi and Warmke によれば,(1) 公的な道徳的言説の実践を正当化する第一の中核的機能は,事態の道徳的特徴を同定し,その評価を説明し,適切な応答を勧めることだが,(2) 美徳シグナリングは証拠を提供しないので,この役割を果たせない.前節では (2) を論駁した.本節ではさらに,「第一の中核的機能」が何かはさておき,他にも主要な機能があり,美徳シグナリングがそれを支持する,と論じる.

それは言説が協力問題 (cooperation problems) の解決において果たす機能である.狩猟採集社会においてフリーライダーに関するゴシップは社会的統制の有効な手段であり,ゴシップが機能しない場合,追放や罰などのより厳しい応答がなされる.だが,社会が複雑になり,グループ間の移動が容易になると,ゴシップは効果的でなくなり,協力規範を安定させるために評判の追跡に頼るのは難しくなる.これに応答する一つのやり方が,自分たちが信頼できることのシグナリングである.

よいシグナリングは,コストがかかるなどの理由で偽りにくい (e.g., ガゼルのストッティング,孔雀の羽).多くの認知科学者は,様々な宗教的実践の根にコストのかかるシグナリングがあると指摘している (定期的参列,十分の一税,断食 etc.).コストがかかり信頼性を高めるシグナリングは,評判の追跡と (組織的腐敗を避けうる水準の信頼を必要とする) 公式の統制の間のギャップを埋める.宗教性の表出は特定の諸規範に自発的に従うことのシグナルになるし,今日でも米国のような高度に宗教的な社会ではシグナリング機能を果たす.だが,世俗化につれてそうした力を失う.我々がより世俗的な美徳シグナリングに頼ってきたのは不思議ではない.

Tosi and Warmke が指摘する美徳シグナリングの幾つかの特徴 (復唱,増強,自明性の主張) は,信頼できるパートナーとしての信頼性を確立する機能として理解できる.またコストがかかる・自己立証的である・不随意であるなどの理由で偽りにくい.道徳的言説の中心的機能が規範への関与のシグナリングだとすれば,美徳シグナリングが逸脱だという主張はぐらつく.美徳シグナリングが公的な道徳的言説の中心的機能である.かつそれは美徳シグナリングが果たすべき機能でもあると考えるのはもっともらしい.

5 美徳シグナリングの動機

Tosi and Warmke は,美徳シグナリングが,(a) 偽善的に見えることで公的な道徳的言説の価値を下げると主張する.問題が主張 (「それは不正だ」) と機能 (「私は正しい」) の乖離である以上,ここまでの議論はこの批判に対処できない.また,それとは別に,(b) 実際に持っていない美徳を不誠実にシグナリングする場合もある.

これらの批判は正しいだろうか.時には正しいだろう.だが,一般的に正しいとすべき理由はない.非難 (a) が妥当なのは,動機と内容が不整合な場合に限るだろう.だが美徳シグナリングの場合,そうした不整合はない.それは宗教的献身の場合と同様である: 認知科学者が言うようにシグナリングが多くの宗教儀式の第一の機能だとしても,それは,シグナリングのために (in order to) そうしたことを行っているということを意味しない.至近メカニズムと究極メカニズムの区別が重要である (cf. 利他性の究極要因が適応度の上昇であるとしても,それは我々が何のために (in order to) 利他的行動を行うかを説明しない).

実際,人々が美徳シグナリングを行うために道徳的憤慨を示す場合にも,憤慨そのものは真正のものであるという実験上の証拠がある (Jordan and Rand 2020).

非難 (b) についてはどうか.これも時には正しいだろう (cf. 警戒色).だが,主として・オフライン環境では,美徳シグナリングが不誠実なことはありそうにない.賭けるものが大きい協力問題の解決である以上 (離反者との協力は収奪につながる),偽陽性は比較的まれでなければならない.また,擬態者が多すぎるとシグナリングは意味をなさなくなる.美徳シグナリングが依然広く行き渡っているとすれば,それは擬態の頻度が低いことを意味する.

しかしオンライン環境ではどうか.ソーシャルメデイアは美徳シグナリングのコストを大きく下げ,擬態を容易にしたとも考えうる.我々の傾向性はこの変化についていっていないのではないか.――だが,応答のインセンティヴの変化と応答の傾向性の変化に遅延があるなら,シグナルを発することについても同様の遅延を想定すべきである.

確かにソーシャルメディアでは,真正な感情の不随意な付随物を見分けにくいし,時間や脈絡を異にする振る舞いを追跡しにくい.だが美徳シグナリングの眼目が評判の確立にあり,それゆえ一定した名前 (理想的には実名) の使用を前程するのなら,やはりシグナルはある程度偽りにくい.

また先述の通り,シグナリングを行う人は,彼らが表現する感情を本当に持っているように見える.そしてそうした感情は,関連する徳の保持にとって,部分的に構成的なのだ.

6 結論

以上で美徳シグナリングへの非難を斥けた.なお,高階の証拠を提供する役割と協力問題を解決する役割は,完全に独立ではない: 美徳シグナリングが高階の証拠を提供するには,それが誠実でなければならない (must).この意味で二つの機能は互いを支持する.美徳シグナリングがより悪い信念に導きそうな場合があるとしても,それは単に我々が道徳的主張の表明にシグナリングの機能を果たすことを許しているからではない.それはむしろ,そうしたシグナルの認識的利益の裏面なのだ.徳という点でも,認識の点でも,美徳シグナリングは非難されるべきではない.