アリストテレスの φαινόμενα への内在とその眼目 Nussbaum (2001) "Saving Aristotle's Appearances" #2

  • Martha Nussbaum (2001) "Saving Aristotle's Appearances" in The Fragility of Goodness: Luck and Ethics in Greek Tragedy and Philosophy. Update Edition. Cambridge University Press. 240-263, here 251-263.

前回 の続き.無矛盾律擁護に超越論的な論理構成を見出し共同性に着眼する点は Cassin (1989) に似る (ただし Cassin は本論考を引いていない).かつ,エレア派・プラトン批判も引証しながらこれをより大きな文脈に結びつけ,φαινόμενα に基づく方法論に回収する.元々 Putnam の Reason, Truth and History と同時期の論考であり,内在主義的な関心も背景に窺える.


III

そうだとすると,原理が真かつ論証不可能とはどういうことであり,どこから我々はその確信を得るのだろうか.『分析論』は懐疑論的挑戦に応答していないので,こうした問いには答えていない.以下では,『形而上学』Γ4 の反懐疑論的論証を通じて,この点を見ていく.

Γ4 では無矛盾律が全ての始点だとされ,反対者がこれの論証を求めるのは ἀπαιδευσία であると言われる.ἀπαιδευσία は愚かさとは異なる.むしろそれは,キュクロプスたちの状態,人間社会から隔絶した状態であり (Od. IX.112-15, E. Cycl. 493),Burnyeat のいわゆる「知的習慣づけ」(前述) の欠如である.つまりこの原理が我々の実践と言論すべてに果たす根本的役割への気付きが欠けている.それゆえ反対者は,無意識にせよこの原理を用いている市井の人々の不完全な παιδεία からさえ隔絶している.

この人に対しては,まず何かを言おうとしているのか否かを調べ,言おうとしていないなら無視し,言おうとしているなら,彼自身が原理を信じ用いていることを示せばよい.これは παιδεία を与える一種の参入儀礼である.相手が聴き入れない場合は説得ないし暴力が必要である (1009a17-18).

この対応は,懐疑論者の挑戦に対する応答 (answer) にはなっていない.アリストテレスは,「現れ」と人間の概念枠組みを離れて原理が真であると述べてはいないからだ.我々は懐疑論者による要求に答えることはできず,彼が間違っていると言うことはできない; たかだか,彼に同胞となるよう求めうるにすぎない.次の Γ5 で懐疑論の動機の診断を行う理由もここにある.

そして,前述の GC のエレア派批判では,人間的世界での行為を引き受ける人々がエレア派的な〈一〉を支持することはできないと論じられた.Γ4 でも無矛盾律について同様の論点が提出される (1008b14-19).無矛盾律を否定する者は,動けず,話せない.帰結はやはり共同性の喪失である.他方,無矛盾律が παιδεία 以上のものでないかどうかは,アリストテレスは何も言わない.

では,無矛盾律アプリオリな原理だろうか.一群の知識に対して基本的・改訂不可能という意味で,また有意義に擁護し・説明し・疑義に付すことができないという意味では,そうである.だが,経験と独立に成り立つと知りえないという意味では,そうではない.プラトンと対比するとよい: プラトンの ἀνυπόθετος な原理は,あらゆる思考・概念化と独立に成り立つ.アリストテレスの ἀνυπόθετος な原理はそうではなく,カント的な,何らかの思考の下に置かれる (set down) 種類のものである.学問的真理は世界についての (about) 真理だが,その必然性は言説と思考にとっての (for) 必然性なのだ.

もう一つの例は,Phys. II でエレア派による φύσις の存在の論証の要求を斥ける箇所である (193a1ff.).ここでも反対者が誤っているとは言われていない; むしろ,反対者はものを言う位置にないと言われている.言説は経験によって限界づけられているからだ.そしてプラトンも同様に,「イデア」ということで何かを指示しえていない.それは一人で歌う鼻歌と変わらない (APo. 83a32-4: τερετίσματα - 'dum-de-dum-dums').もっとも,「イデアに別れを告げる」からといって,イデアは存在しない,と言うことはできない.あくまで φαινόμενα の内側に留まるという点でアリストテレスはカントより一貫している.

これは一種の実在論であり,観念論でも懐疑論でも相対主義でもない.ただしそれは,実在論が住まう限界を注意深く設定する種類の実在論である.不滅のものもその中に位置を占めうるが,それはあくまで我々の世界の重要な一部としてであり,不動の動者の存在も自然学から帰結する.

基本的な「現れ」に肩入れしないからといって,常に沈黙や無活動が帰結するわけではない.無神論や極度の禁欲主義などは共同性を失わせうるにせよ (EN 1179b26-7, 1119a6-10),無矛盾律の拒否ほどのコストが生じるわけではない.また「現れ」が無矛盾律ほど基本的でない場合は,これを論じ合うことができる.

IV

「哲学は洞窟から陽光の下へと我々を連れ出すものであり,アリストテレスの方法は退屈で野心を欠く」というプラトン主義者の批判に,アリストテレスはどう答えるだろうか.一つには,我々の「現れ」は哲学の多くが認めているより豊かで複雑だ,と言いうる.実際アリストテレスは理論を作る際に様々な過度の単純化を戒めている.さらに,「現れを救う」ことは哲学者以外にとっても重要である.世界把握の欲求は人間本性に根ざすのであり (Met. A),過度な単純化はあらゆる人にとって脅威となりうる.

現れへの帰還はときに反発をもたらす.PA I.5 には動物研究を嫌う者を窘める一節がある: そうした反発は一種の自己嫌悪である.なぜなら,我々自身血と肉でできているからだ (654a27-31).こうした注意を要したこと自体,プラトニズムの影響の強さを示す.現れに立ち戻ることへの嫌悪にも,同じ応答が可能だろう.

現れを救う哲学は,治療的な目的のほかに,現れのうちにある構造を明らかにするという積極的目的ももつ.それは哲学的幻影の破壊をこととするとはいえ,ウィトゲンシュタインが描く否定的なイメジャリー (PU §118) とは無縁である.幻影を突き崩した後,我々の言語・世界のうちには,依然豊かな秩序と構造が残る.そして,その探究は,興味深いものであり続ける.二つの目的は密接に結びついている: 良い哲学にとって最大の障害は悪しき哲学であり,悪しき哲学は ἀπαιδευσία によってもたらされるのだ (EE 1217a1-7).