『自然学』III.3 は新しい種類の存在者を措定する Marmodoro (2008) "The Union of Cause and Effect"

  • Anna Marmodoro (2008) "The Union of Cause and Effect in Aristotle: Physics 3.3" Oxford Studies in Ancient Philosophy 32, 205-232.

ばりばり実在論的な解釈を与える論文.近年の英語圏に限れば,ぱっと調べた限り,他に以下の諸論考が Phys. III.3 を主題的に扱う: Gill (1980), Waterlow (1982) Ch.4, Coope (2005), Anagnostopoulos (2017). また D. Charles の Action 本が注で長めに引かれている (225n25) .


1. 序論

  • 一方で因果論は形而上学の中心を占め,他方でアリストテレス研究にも相当の蓄積がある.それにも拘らず,アリストテレスの因果概念はいまだ埋もれている.
  • アリストテレスは因果性 (causation) を或る複合的存在者の生起としてとらえる.この複合的存在者は,二つの自然本性 (作用と受動) を根拠づける,或る自然的過程である.二つの自然本性は存在論的に相互依存的だが,自然本性の可能態は (ひいては自然本性そのものも) 別々のもの (作用者と被作用者) に属する.そのようにして,二つの自然を根拠づける単一の活動が基礎に置かれる.二つの自然本性の相互依存関係によって,作用者と被作用者のインタラクション,およびアリストテレスの因果実在論が説明できる.
  • 作用者の可能態が被作用者において現実化されるのがポイント.これを「場外的」(ectopic) 現実化と呼ぶことにする.
  • Phys. III で中心的な κίνησις は因果関係の実例として扱いうるもの (e.g. 建設,加熱,治療).もっとも非典型的な例もある.
  • 運動の説明はカテゴリーを超えない (200b32-201a3): 形相-欠如-基体の三原理以外の存在論的アイテムを新たに導入しない.
    • とはいえ一方で,「二つの自然本性を根拠づける一つの基礎に置かれる基体」という新しいタイプの存在者が措定される.
  • これまで解釈者たちは Phys. III.3 が一つのものの二つの記述に言及しているだけだと考えてきた.これは誤りで,二つの自然本性の形而上学的関係を説明しなければならない.
  • Phys. III.3 の探究は運動させるものと運動しうるものが被る変容という観点から行われる.最初に運動の現実態ジレンマ (Actualities of Motion Dilemma)〔以下 AMD〕が提示され,そこで幾つかの説明が否定されるとともにアリストテレス自身の立場も導入される.アリストテレス自身の立場が AMD から帰結するわけではないが,AMD の考察は彼の立場の理解に有用である.

2. 運動の現実態ジレンマ

  • 以下では運動させるものと運動しうるものの関係についての問題に焦点を絞る.まず問題を解決する上で解くべきだとアリストテレスが考えた問いを特定し,次節では彼の解答を検討する.
  • 因果関係とは運動させるものから運動しうるものへの形相の伝達である (202a9-12).それゆえ,運動させるものは自らの因果的効力に影響されない.
  • 運動させるものは現実的に運動させ,運動しうるものは現に運動する.前者の現実態は後者の現実態を必要とする.
  • AMD でこの関係性が探究される.曰く,(I) 二つの現実態が異なるなら,(i) 両方が運動させるものと運動しうるものの一方のみに生じるか,(ii) 各々に生じる.––しかし (i) なら,或るものの現実態がそれ自身のうちに現実化しないことになる.また,二つの現実態をうちに持つものは,一つの形相に二つの仕方で関わる.(ii) なら,運動させるものの能動性は運動するものに影響しないことになる.(II) 現実態が同じなら,作用と受動作用が異なることに矛盾する.
  • まず,アリストテレスの因果性の説明における形相の役割を考える.サブテーマは三つある: 第一に,形相の伝達がある.第二に,運動するものの現実態と運動しうるものの現実態は伝達する単一の形相に関わる.第三に,二つの現実態はタイプが異なる (形相の伝達と受容).
  • 次に,アリストテレスは現実態の生じる場所と帰属先を区別する (202a25, b5-8).生じる場所についての問い (ἐν τίνι;) は「運動はどこに変化を生じさせるのか?」という意味に理解できる.

3. アリストテレスによる因果性の説明

  • AMD の直後でアリストテレスAMD の三つの前提を拒否する (202b5-21).これがアリストテレス自身の立場に直結する.
  • 運動が形相の伝達であることは,運動の不完全性と非対称性を説明する.
  • さらに,原因と手段 (means) の違いを説明する; 原因は形相である.
  • また,作用者は形相を伝達可能な状態で有していなければならない.
  • さて,二つの現実態の関係を,アリストテレスは自分の存在論の在庫だけから説明しなければならない.
  • Waterlow の問題の分析とアリストテレスによる解決の解釈は誤っている.
    • W. によれば,アリストテレスの世界観が,原因–結果の結びつきを形而上学的正当化しなければならないという見かけ上の必要性があり,そこから困難が生じている.
    • 他方,Marmodoro によれば,必然的結びつきのような存在者を導入することなしに,原因と結果の結合 (union) をどう説明すべきか,という形而上学的問題から,困難が生じている.
  • 異同を確認する.
    • W. と M. は,作用者と被作用者が特殊なタイプの統一性を有するとする点では一致する.
    • だが,その統一性の説明の解釈が異なる.
      • W. は,作用と受動作用は同一の終極を有し,同じ原理から来ることを,統一性の理由だとする.
      • M. は (上述の通り) 両者は異なる終極を有すると考える: 一方は形相の伝達,他方は形相の受容.
  • 作用者の運動と被作用者の運動はいかにして同一でありうるか?
    • 202b1-5 はこれが不合理だと示唆する.
    • 202a14-16 では作用者と被作用者の現実態が同一だと言われる.
      • 直後の議論に鑑みれば,この説明は修正されるべきだが,修正されていない.それゆえ 202a14-16 の「現実態」は実際の活動 (activity) を指し,特にその本性を指すものではない,と考えるべきである.
  • アリストテレスの例示: 1:2 と 2:1 は同じ音程,上り坂と下り坂は一個同一 (202a18-20).
    • 一つ目には二通りの一存在者二記述 (one-entity-two-descriptions) 解釈〔以下 OETD〕がある: (1) 一つの間隔1が両端に応じて二つの仕方で記述される.(2) 関係性が相関者の一方の観点から記述される.いずれにせよ現代の解釈者は皆 OETD を採る.
    • 二つ目も同様で,(1') 同一の土地の広がりを指すか,(2') 二つの道程を指すか,の曖昧さがある.
  • アリストテレスの説明: 一個同一だが λόγος が異なる.
    • λόγος を定義ではなく説明/記述と理解する解釈者たちは,これを単一の存在者に関する議論と考えてきた.ここでは W. および Hussey を取り上げる.
      • W.: この存在者は変化という単一の出来事 (↔ M.: それより複雑).
      • H.: 「一個同一」とは (自動詞的な) 変化以外には何も起こっていないということ (↔ M. 他動詞的な変化だけが起きている瞬間もありうる.形相の転移は一方の変化に還元不可能).
    • むしろ λόγος は定義と理解すべき.方向をもつ二つの間隔とそれらの根拠 (ground) (または二つの道程とそれらの根拠) はアリストテレス存在論においてよく見られる種類の存在者だが,これらの複合物はそうではない.ここでアリストテレス存在論的依存関係の目新しい探求を始めている.
  • 作用者と被作用者の現実態は,活動が同一だという意味では一つだが,定義が異なるという点では一つではない.
  • 作用することと作用を受けることは〈それであるとは何であったか〉の説明規定の点で異なる (202b10-14).テバイからアテナイへの道とテバイからアテナイへの道は本質を異にする2.テバイからアテナイへの道と「先週旅した道」は必ずしもそうではない.
  • λόγος が本質的定義であることの補助的根拠: 202b14-16. 作用することと作用を受けることは限定付きの同一性 (qualified sameness) である (ταὐτὰ πάντα ὑπάρχει ... μόνον οἷς τὸ εἶναι τὸ αὐτό).ここで τὸ εἶναι は組成 (constitution) を指す.
  • 作用に特徴的なのは異なる種類の本質が同一の基体にある点.
  • 二つの現実態がそれらの共通の現実態である運動において実現される (202b19-22).アリストテレスにとってこれを表現するのが困難であることは想像に難くない.
    • この説明では,一性と二性のどちらも犠牲にならない.活動の一性は原因と結果の相互依存的現実化を反映する.二性は因果的インタラクションの極性を保持する.
    • 代わりに失われるのは,活動という実体の一性と二性である (つまり真正の実体ではない).新たな種類の存在者が定義されている.
  • 新たに定義される存在者 ('two-in-one entity') は,基礎に置かれる物理的活動に根拠付けられる二つの自然本性である.そしてもちろん,この活動自体,二つの実体 (作用者と被作用者) に依存している.
    • 上り坂と下り坂のような非因果的複合体は各々存在論的に自律的だが,因果的な two-in-one entity はそうではない.
  • 二つのものが (現実態に対する可能態のような) 同一の現実化をもちうる (202b8-10),i.e. 同一の根拠付ける過程が二つの活動を可能にする.活動そのもの (作用と受動) が同一であるわけではないために AMD は回避される.

補遺: 運動の現実態ジレンマの論証

〔省略.AMD の定式化が行われている.〕


  1. この διάστημα は音程のことだと思っていたが,Marmodoro はおそらく数直線上の間隔だと理解している.(1) と (2) が何の区別なのかいまいち理解できていないが,おそらく存在者の数による区別か.

  2. Cf. p.220 の例: “the route up and the route down, which, as any cyclist knows, are not only essentially, but dramatically different!” ただしこの説明だと,一つの地形に二つの τὸ τί ἦν εἶναι が (two natures なる two items として) あることになる.かりに作用の場合はそれでいいとしても,坂道の場合はまずい気がする.どこかに disanalogy を想定しなければならないはず.