「変化の内的原理」の諸義 Waterlow (1982) NCA, Chap.1 #2

  • Sarah Waterlow (1982) Nature, Change and Agency in Aristotle's Physics: A Philosophical Study. Clarendon Press.
    • Ch.1: Nature as Inner Principle of Change. 1-47. [うち 22-45.]

前回の残り.哲学っぽい (normative な要素の強い) タイプの哲学史研究のお手本という感じがする.全然読みやすくはないけど.


  • (28) 諸事例の分類によって,実体構成的特徴とそれ以外の特徴の区別に内実を与えうるだろうか.無理なら,変化が仮に可能だとしても,それについて我々は知り得ない.また実体を実体として知ることもできない.ゆえに,諸カテゴリー (とくに実体) を区別する原理が必要になる.候補は二つ: (i) 時間的持続,(ii) その他の因果的属性.
    • (29) だが事実,そしてアリストテレスにとっても,時間的持続は実体の十分条件ではない.なるほど実体概念は変化における持続と密接な関係をもつにせよ,実体であることは所与の変化に相対的な事柄ではない.
    • (30) 実体構成的な特徴とそれ以外を区別する原理を探す手がかりは,「ひとは生まれつき知ることを欲する」ということにある.より情報豊かな記述をすべきこと,またそうした記述のなかに特に尊重される種類の知識を担うものがあること,を認めれば,そうした規範的態度が実体構成的特徴の形而上学的教説のかたちをとることは理解できる.
    • (31) まず,「人間」という記述は,「白いもの」「アテナイにいるもの」等々とは異なり,変化が起きる状況・過程についての情報を与える.
    • (32) そして,そうした基準を満たす記述のうちには,変化が生じる因果的過程についての (大ざっぱなものであれ) 情報を与えるものがある.
      • だが,この基準も実体構成的特徴だけが満たすようなものではなさそうだ.実体構成的特徴はこれを満たすもののサブクラスであり,種差が何かは判然としない.
  • (33) しかしともあれ,日常的な語法のうちに実体構成的特徴/付帯的特徴の区別の何らかの基盤があることはわかる.かくして (10) 以来の論証は完結する (変化を規定する内在的特徴がなければ,変化の概念自体無意味になる).
    • かくして,「変化は何かが留まるときだけ意味をなす」という通念が「基礎に置かれるもの (underlying subject)」という概念によって明確化され,この概念は実体と属性,実体構成的特徴と付帯的特徴の区別に依拠する.
    • 実体構成的特徴は因果的内容によってしるしづけられるのであり,この点で Phys. I のトピックは「変化の内的原理」という Phys. II のトピックと関連する.「自然本性はつねに基礎に置かれるもののうちにある」(II.1, 192b32-4).
  • (34) ここで自然/技術という対比を考える.自然と人工物のみならず,自然と工作者という対比も意図されている: 工作者は工作者である限り自分とは別のものに変化をもたらす.もっともこう対比するのは,他の点で極めて似ているとアリストテレスが考えているからに他ならない.一方で,工作者は自律的であり,外的状況は変化を可能にする限りでのみ relevant なのである.
    • (35) 他方で自然も,変化の性質に因果的に寄与するだけでなく,基本的には変化のパターンを完全に決定する: 実際にいつ・どこで起きるかは状況によるが,何の変化かは決まっている.
      • アリストテレスは,我々が考えるように,「木のもつ同一の本性が生長するときと燃やされるときで各々の仕方で現れる」と考えるわけではない.
  • (36) 自然的実体が変化を自律的に決定するなら,外的状況はそれを許すか,妨げるかである.妨げた場合の結果はもはや自然的ではなく,強いられた (enforced) ものである.
  • (37) だが,(a) そうした区別は誤ったものではないか? そしてそれは,(b) 全ての自然的実体を目的を有する作用者 (agent)*1 とでも誤って見なさない限り,根拠がないのではないか?
  • (38) だが (a) と (b) はレベルが異なる.アリストテレスにとって,(b) 動植物への熟慮の帰属による説明は,そうした帰属なしにも説明できる事柄を対象とするものだった.他方 (a) 自然と自然的変化を拒否したなら,もはやいかなる説明も不可能になるのだ.自然の存在は自明である (II.1, 193a1-9).
    • (39) II.1 では,証明不可能なことを証明するばかげた試みと,それを明確化するまともな試みが区別されていない.後者の種類の探求は I.2 や Met. Γ で行われている.ここで自然の存在についてそうした試みは行われていない.反対論者の不在ゆえかもしれない.
    • (40) 変化の内的原理としての自然の理論の基礎をなす前提は4つある.(i)『カテゴリー論』的な実体があること.(ii) 「自然的実体の特定の種類に属するとは何であるか」はそうした実体の振る舞いの観察から知られる.(iii) 実体には相互に還元できない異なる種・類がある.(iv) 実体の本質は単一 (unitary) であり,単一の定義のかたちに表せる.ここからして,問題は,或る実体を表現するために変化が示すべき単一性はいかなるものか,ということになる.変化の単一性とは変化のパターンの単一性であり,より複雑なパターンはより多くの経験の蓄積によって弁別されるようになる.
      • (41) 古代ギリシア科学における体系的実験の不在は有名だが,上記の形而上学的観念はその一因をなすように思われる.すなわち,「自然的実体は単一の典型的な変化パターンを示し,外的状況はその実現の機会を与える以外の貢献をなさない」とすると,以下の二つのことが帰結する*2.第一に,「この物はこれこれの状況下ではどう振る舞うだろうか?」という問いが科学的に意味をなさなくなる.人工的な条件設定は典型的な振る舞いを妨げるものにしかならないので,自然的世界への 'submissiveness' (Sambursky) が合理的態度となる.
      • (42) アリストテレスに見えていなかったのは,単一の本性が単一の観察可能なパターンに現れるとは限らないということである: 或るものの「何であるか」はあらゆる作用・反作用に等しく示されている.動力学や分子化学のような科学の成功がこれを正当化してきている.なぜアリストテレスにこのことが分からなかったのかを理解するために,これらの科学の諸側面を手短に考察したい.
        • (43) 動力学には種的に異なる実体の概念はなく,物体は物体それ自体の属性に従属する法則の同一の集合に従って運動する.対象のいかなる振る舞いもその特定の実体的本性から出たものとは見なされない; 実体的本性は形而上学的に「不活性 (inert)」であり知り得ない.
        • (44) 他方,化学においては,化学物質の構造性 (structuredness) は所与とされ,どのような構造が或る実体に割り当てられるべきかが経験的に探究される.他方アリストテレスは構造を所与とは見なさず,自然的実体が獲得する (achieves) ものだと考える.彼はプラトンとともに経験的に知られる構造に対して経験的に知られ得ない源泉 (source) を割り当てるが,プラトンイデアを立てるのに対し,アリストテレスは構造獲得の能力を立てるのである.構造は変化の終端 (terminus) であって前提条件ではない.それゆえ,構造の完全な発展以外の変化を典型として認められないのである.
  • (45) ともあれ,内的で自律的な変化の原理という考えは,意図的行動のナイーヴな投影ではなく,むしろ上記の実体の形而上学に導かれたものである.ここから二つのコロラリーが出てくる: (i) 自然な変化とそうでない変化の区別は,実体の自体的な単一性 (「人間」) と付帯的単一性 (「白い人間」) の区別と同様に,絶対的である.(ii) 自然的変化はそれ以外の変化の存在論的・概念的前提となる; 他の変化は自然的変化が環境要因と交わってでき,そうした要因も全て何らかの自然的変化まで辿りうる.
  • (46) ここまで「変化の内的原理」の二義を調べた.第一は変化に何らかの寄与をなす内在的性質であり,第二の (より疑わしい) 意味では,実体はそれだけで自らの典型的変化のパターンを規定するのに充分である.どちらの意味でも,「内的/外的」の対比は,実体自体による決定と外的条件による決定の対比であった.以下ではさらに別の意味での「変化の内的原理」を調べる.
  • (47) その第三の意味で意図されている対比は,変化を規定するものではなく,変化の主体の間の対比である (II.1, 192a20-32).自然的変化の場合,変化の主体は変化をもたらす自然本性を有する実体と必然的に同一である.人工物の場合には同一性は偶然である (自分を治す医者).
    • (48) 一見してこの区別は「自動詞的/他動詞的」活動の区別に見えるが,必ずしも符合しない.
    • (49) むしろ対比は第一義的には,活動でも変化でもなく,形相についてのものである.自然と技術の対比は一見するほど哲学的に無垢ではない: ここで技術とは形相の現実化である.論点はそれゆえ,人工的形相は付帯的に行為者において生じるということである.
    • (50) 他方,自然的実体の本性はある特殊者に一意に関係する.自然も技術も特殊の作用者のうちで具体化するという点ではひとしく反プラトン的な捉え方がなされているものの,技術の場合にのみ 'one over many' が成り立つ.
  • (51) 以上の区別にも拘らず〈自然は自分を治す医者のようにはたらく〉(II.8, 199b30-2) と述べられているのは奇妙である.もはや混乱を引き起こさないだろうと思っていたのか? それとも最初の議論がまちがいで,付帯的に同一でなければ同一視が意味をなさないのか? むしろ,変化の源泉と主体の同一性という記述のしかたを拒否するべきなのだ.つまり,一つの個体が二つの異なるアスペクトを例化していると見なすことは整合的でない.
    • (52) この批判は正当であるとすれば破壊的である.自然を変化の原理として語る権利そのものを危うくするからだ.ここでの二つのアスペクトは,同一の指示対象を「明けの明星/宵の明星」の両方から同定できるような場合とは異なる.源泉アスペクトは経験的に知り得ないからだ.
    • (53) この問題をくわしく論じると脇道に逸れすぎるため,アリストテレスに直接関わる範囲に限定して論じる.第一に,彼は (医者とのアナロジーにも拘らず) (51) の反論を免れうるように思われる.彼は自然的実体のはたらきが反照的 (reflexive) な活動であるとは述べてはいない; 後者と比較しているだけである.VIII.4-5 では〈自然的実体がそれ自体として何かを変化させ,また変化を被る〉とは述べられているが,全ての自然的実体が自分自身を変化させるものである/ありうるわけではないとも明言している.こうした反照的な捉え方はおそらく動物にのみ当てはまる.他方 VIII でも自然的実体がそれ自体として変化の源泉でも主体でもあると見なされている (そのことから作用者/被作用者であると見なすことはせずに).
    • (54) それでも,源泉/主体アスペクトの区別がいったいなぜ可能かは疑いうる.この問いは二つの水準で問われうるが,そのうち一つ,「自然的事物が特定の仕方で変化するのは,それがそのようなもの (such as to do so) だからだ,となぜ言えるのか」にはアリストテレスは答えていない (反論者がいなかったから).
    • (55) もう一つは,そうした説明を認めた上で,なぜ源泉/主体アスペクトを区別できるのかを問うものだ.これにはアリストテレスは次のように答えられる: 例えば火の二つのアスペクトを区別できるのは,(a) 火がもはや上に行けない位置にあるときと (b) 火が火であることをやめたときの違いを言いうるからだ.

*1:「行為者」と訳せない文脈があったのでこう訳す.

*2:実は二つ目がどれかわからなかった.