アリストテレスに機能主義を帰することはできない Burnyeat (1992) "Aristotelian Philosophy of Mind"

M. F. Burnyeat (1992) "Is an Aristotelian Philosophy of Mind Still Credible? (a Draft)" in M. C. Nussbaum and A. O. Rorty (ed.) Essays on Aristotle's De Anima, Clarendon Press, 15-26.

Putnam, Nussbaum のようなアリストテレスに機能主義を帰する立場を,Sorabji のように感覚プロセスを生理的変化と同一視する立場とともに批判し,アリストテレスの立場と問題意識は現代人と共有可能なものではない,と論じる論文.

重要な問題提起をしているとは思うけれど,完全には説得されない.特に 'matter' 概念あたりで誤謬推理を犯してないかが気になる.


  • Putnam (1975) は自らの機能主義をアリストテレスの見解の精緻化とみなし1,Nussbaum (1978) もこれに同意する.
  • [16] この Putnam-Nussbaum テーゼ (i.e. アリストテレスは機能主義者であるというテーゼ) は誤っている.
    • なぜなら,魂−身体関係のうち,特に物体/身体についてのアリストテレスの見方が,機能主義者を含め,現代の哲学者には受け入れられないからだ.
  • 以下では,特に感覚器官に注目して,P-N テーゼの誤りを論証する.
    • 特に Sorabji 解釈に対抗する解釈を立てる.
  • [17] 質料−形相関係は様々なアナロジーで示される: (1) 青銅 − (2) 形 − (3) 像,(1) 身体 − (2) 魂 − (3) 動物,etc.
    • アナロジーだけでは共通項が不明瞭だが,機能主義的解釈では,少なくとも質料−形相関係は偶然的である必要がある.
      • 感覚の場合,特定の生理学的プロセスが起きる必要がない.
  • Sorabji 解釈では,形相の受容は生理学的プロセス.[18] 例えば「(1) 赤くなる - (2) 赤に気づく (awareness of red) - (3) 赤を見る」.(1) は (3) を構成する.
    • Sorabji は証拠として II.12 の最後の文を持ち出す.
  • Sorabji 解釈には,フィロポノス,アクィナス,Brentano らの対抗解釈がある.こちらは硝子体が文字通りに赤くなるとは取らない.
  • [19] II.5 では (i) 無知な人と (ii) 知識ある人, (iii) 知識を使っている人が区別され,通常の性質変化は (i) → (ii),感覚は (ii) → (iii) に比される.
    • これは対抗解釈に有利.Sorabji 解釈では感覚も (i) → (ii) と同様のものになってしまう.
  • ここから,身体が物理的変化なしに awareness を得られることも帰結する.
    • 現代的視点からすれば,これは変に見えるかもしれない.だが感覚対象も同じくらい変: 色や匂い自体が「因果的」作用者 (cf. 424b3ff).
      • [20] ややこしいのは,「感覚器官が可能的に P であり,感覚対象が現実活動的に P である」(424b2-5) と述べていること.
        • 「熱い・冷たい・固い・柔らかい」ということは,これらの点で中間的である手によって感覚される.中間的なものは感覚されない (盲点論証 an argument from blind spots).
          • だが,これも,例えば柔らかいものに触れると手が柔らかくなるという話ではない.
          • Sorabji 解釈によれば内的器官である心臓が柔らかくなることになるが,すると盲点論証は最初から成り立たない.
  • [21] ゆえに,物理的な変化を指示するかに見える「作用を受ける」等々の語彙は,むしろ (アクィナスの言う) 'spiritual' change を指示している.
  • II.12 では感覚が封蝋と印形に喩えられる.これは Tht. では判断に対して用いられたモデルである.つまりここでアリストテレスは,プラトンに反対して,感覚がそれ自体で分節されたものであることを示している.このことは,以上で擁護された二つの主張を確証する:
    1. 感覚されうる形相は,色・音・匂い等々に気づくこととの関係で理解されるべきであり,単なる器官の生理的変化ではない.
    2. [22] 器官の生理的変化は必要ではない.アリストテレスは我々がもつようなトップダウンの科学像を有していない.「二次性質」は完全に real であり,感覚とはこれを受け取ることに他ならない.
  • [23] 我々とアリストテレスの間の距離はさらに深い.アリストテレスは,「物理的事実が同一なら,心理的事実も同一である」という現代科学の統一性の最小条件に同意しないだろうからだ.
    • 例1: 血が沸騰することは怒りの必要条件だが十分条件ではない (403a21-22).
    • 例2: 植物は素材とともに作用を受けるため感覚しない (424a32).
      • Sorabji はこれを,感覚する場合に素材なしに作用を受ける (色づく,熱くなる) ことと対比していると理解する.
      • [24] だが,熱いものや茶色い物体が入ることで植物が色づく・熱くなるわけではないし,アリストテレスもそうは考えていない2
      • むしろ,本当に熱くなるわけではなく,それに気づく,という意味.
  • [25] II.12 の最後の節 (424b5ff.) も Burnyeat 解釈と整合する3
  • [26] したがって,Putnam-Nussbaum 解釈は誤りである.
    • 真にアリストテレス主義者であろうと思ったら,生命や心の発生ということが説明を要すると信じないようにしなければならないだろう.この選択肢をもはや取りえないことについて我々は Descartes に負っている (アリストテレスの感覚論が重要な問題提起を妨げてしまう点を Hobbes, Leviathan ch.1 は明瞭に看取する).つまり機能主義者は,二元論とは別の解答を与えるべき当の問題設定自体を,Descartes に負っているのである.

  1. 本稿の初稿は 1983 年に書かれた.Putnam 自身は Representation and Reality (1988) で機能主義を斥けるに至っている.

  2. ここは要チェック.

  3. 読み飛ばした.II.12 を読んでから見直すことにする.