Wiggins (2001) SSR, Preamble #3 同一性へのアプローチ

  • David Wiggins (2001) Sameness and Substance Renewed, Cambridge University Press.
    • "Preamble, chiefly concerned with matters methodological and terminological". 1-20 [うち 13-20 (§7-10)].

はてなブログPHP Markdown Extra の脚注記法に対応してるの知らなかった.

Preamble まで読んだ感想.(1) とにかく悪文すぎる.カントなみ.21世紀の哲学者に許される水準にない.(2) 中身はまあ面白い.あと陰に陽にアリストテレスの自覚的影響が相当見て取れる.ウィトゲンシュタインの影響と同程度にはありそう.テクストの「現代的意義」を気にするアリストテレスの哲学的読者は少なからず得るところがあるように思う.(1) がなければ「必読」と言いたいくらい.


7. 必然 / 偶然とアプリオリ / アポステリオリ

  • 或る概念が,それについてのいかなる通用する概念理解も経験を必要とするとき,そうした概念はアポステリオリないし経験的である.そうした概念を表す述語は現実世界に根ざすだろう (cf. 前節).だが,そうした概念が出現する判断はアプリオリでありうる.例:「全てのウサギはウサギだ」は,その理解 (comprehension) が部分的にアポステリオリであるにせよ,それ自体としてはアプリオリである.かつ,この判断は必然的でもある.
  • 他方,必然的だがアポステリオリな判断もある: 金の直示的例証 (deictic demonstration) とその適切な類似性を探求して,化学者は原子番号79の元素を解明する手がかりを得た.直示的例証によって導かれた物質である以上,金は必然的に原子番号79の物質である (記述の理論および Smullyan (1948) を用いよ1.だが「金」の意味論からだけではこの同一性は成り立たない.したがってこの同一性はアポステリオリである.「明けの明星は宵の明星である」も同様に必然的だがアポステリオリである.

ここまではよく知られているが,関連する問いはそれほど知られていない.例えば Leibniz は「自然そのものについて」で「物質や物体は慣性をもち,運動する上でその大きさに比例する現実的な力を必要とする」と主張しているが,こうした〈物質〉や〈物体〉概念のしるしについて何ら概念理解をも有さない人は,これらの概念について何らか適切な概念理解を持っているとは考えられないだろう.この主張は必然的でありうるが,分析的ではなく (論理と定義からは出てこず),むしろ物質や慣性についての経験的概念に (慣性なしの物質の可能性さえ一見して排しているように見える仕方で) 基づいているのだ.これをアプリオリな真理だと呼ぶ哲学者はいるかもしれないが,Wiggins はそうは呼ばない.物質が慣性を欠く状態に何が伴うだろうかと熟考し,その事態に向かう道が塞がれているとわかったとき,ひとは経験に (判断に含まれる経験的概念の把握に要求された以上の) さらなる寄与を要求するだろうからだ.

8. 形式的記法

必要に応じて形式的記法を用いる.特に ' \underbrace{a = b}_\text{ロバ} ' と書いて「a は b と同じロバである」と読む2.だがこうした形式化は,単に省略のため,ないしは既知の形式・表現の論理的・推論的な性格を明示するためであって,非形式的な日常言語への依存を減らすことを意図しない.

9. 「と同じロバである」に伴う結合様式

「a は b と同じロバである」という結合様式と「a はロバである」という結合様式はいかなる関係に立つか?

Quine によれば,「a は b と同じロバである」は「a はロバであり,a は b である」を約めた形にすぎない.Wiggins は (Quine も許容するだろう) これの変種を提案する:「a は b と,ロバに制限される同一性関係に立つ」.この記法により,一方でこの言語形式における「ロバ」の独立な寄与を示しつつ,他方で単一の結合様式によってできたものとして示すことができる.「ロバる (to donkey)」という語を作った上で,この単一の結合様式を「a がロバり,かつ a = b」と書くこともできる.

今や「a である何かがある」「a は b と同じ何なのか?」「a は b と同じ何かである」の意味を述べることができる.すなわち:

  • a は何かである iff. a が何か-る (a something-s).
  • a が何か-る iff. 或る f があって a が f-る (a f-s),i.e.  \exists x (f a)
  • a が b と同じ何かである iff. 或る f があって a が f-り,かつ a = b ––ないし,a が b と f であるものに制限される同一性関係に立つ:  \exists f (\underbrace{a=b}_{f}).この準形式的なヴァージョンを用いれば,活用や不定冠詞等々を考えなくてよくなる.

結局,こうした Quine の提案の変種のもとで,我々は次の等式を得る:  a = b \leftrightarrow \exists f (\underbrace{a=b}_{f}) .だが Geach のように「「x が y と等しい」とは,或る可算名詞を表す f について「x は y と同じ f である」の省略形であり,さもなければそれは形成されかけの思想 (half-formed thought) でしかない」とは主張しない.むしろ  \exists f (\underbrace{a=b}_{f}) との同値性によって単なる  a = b が確定的で well-formed であることを確証している.それは「私は昨日の昼に或る人と話した」が真理値について確定的であるのと同様である.〔注21: Geach の  a = b に対する非難に従わないのは,第一に  \exists f (\underbrace{a=b}_{f}) に自由変項は現れていないから,第二に  \exists f (\underbrace{a=b}_{f})  a = bLeibniz 的には  \exists g (ga \land \lnot \underbrace{a=b}_{g}) の可能性を排除するからである.〕

このようにして (SS と異なり SSR では)  \exists f (\underbrace{a=b}_{f}) と「a は f である」との関係は定まったものとする.それゆえ ' =' と ' \underbrace{=}_f' の関係について (Ch.1 でするように) これ以上論じる必要はないかもしれないが,読者の納得を得るため幾らかのことを述べなければならない.また,Ch.2 で種的依存説 (the doctrine of Sortal Dependency) が定式化されるとき,どうして原理 D の第三条項 (f-一致 (f-coincidence) に訴えること) が必要なのかという疑問が生じるかもしれない.だが a と b の寿命 (lifespan) の完全な再構成がないところでは,何らかの f-一致は不可欠である3

10. 先行性の問い

§9 の諸規定は,我々が,Quine の支持者たちが明らかに D のような立場に反するものであるかのように繰り返すような主張に同意せざるを得なくなることを意味するだろうか? つまり,' x=y' は D が直接間接に訴えるような,個物の個別化と個物の種への割り当ての実践に先立っているだろうか (cf. Quine (1972)) ?

否.というのも,これほどプリミティヴな事柄が多い領域では,何かが何かに (論理的・哲学的・心理発生論的に) 絶対的に先行するということはありえないから.実践的把握において,種的述定と同一性は相互に前提しあっている.

何がしたいのか十分に考えないと,〈名指し→実体的述定→同一化と差異化→その他の述定→個物の量化→種の量化→抽象 (λ抽象のプロトタイプ4)→属性の量化 ...〉の道具を,定義するかのように順々に導入する出発点を見つけようとしてしまう.かりに再構成されるべきプロセスが (準-) 定義的であるとすれば,少しずつ定義する際の危険 (右手で既になしたことを左手でキャンセルないし変更してしまうこと) は避けねばならないだろう.が,こうした準-定義的系列を必要だと主張する人々は,偽なる描像に惑わされているのだ.我々が対峙すべきは相互にもつれ合った実践の全体である.基本的な形式と道具は同時に学ばれる必要がある (アナロジー: アーチの要石と隣接する石).

言語習得の場合,ある道具を部分的に習得することはありうる.だが一つの道具の完全な習得はその他のほとんどないし全ての道具の完全な習得を必要とする.意味論的な道具がきちんとできている (well-made) なら,それらは,完全に把握されたときに,うまく働き,スムースに協働するだろうし,相互関係を論理的な同値式によって表すことさえできよう.他方,この点に対する懐疑に対して,続く諸章は,「同じ」「馬」「同じ馬」のような言葉遣いが,我々が実践上用いる結合様式においてきちんと協働するということの間接的な保証を与えうるのみである.また暫定的には,§9 第一段落の問い〔「a は b と同じロバである」という結合様式と「a はロバである」という結合様式はいかなる関係に立つか?〕には,「は f である」と「は同じ f である」の非定義的・非心理発生論的説明によって答えうるのみである.


  1. 不明.

  2. Wiggins のは  \begin{array}{c} a = b \cr \text{donkey} \end{array}という記法だが,(少なくとも自分に) 多少とも読みやすくなるように勝手に変更した.

  3. Ch.2 を読まないと何を言っているのか分からない.

  4. とは?