必然的に指示する心的表象は存在しない Putnam (1981) "Brains in a vat"
- Hilary Putnam (1981) Reason, Truth and History, Oxford University Press.
- Ch.1. "Brains in a vat", 1-21.
教科書的に知ってるつもりの話でも原論文読むのは大事だなと思った.議論の射程が正確にわかるから.今回の場合だと,ある種の「超越論的」議論が企図されていること,思考の表現 (心的表象) と表現の理解を各々出来事1 (occurrence)と能力 (ability) として区別するという論点,ブレンターノや現象学が直接の論敵であること,あたりがそう.
アリが全くの偶然によってチャーチルの戯画のように見える線をなぞったとき,このアリは「チャーチルを描き出す (depicts) 絵をなぞった」と言えるだろうか? 否である.それは我々がチャーチルの絵「として見る (see as)」ことのできる線にすぎない.
この線は「それ自体としては (in itself)」表象ではないとも言える: 類似性は何かを表象する・指示する (refer to) ことの必要条件でも充分条件でもない.–– では,何がそうした条件なのか?
一見,「意図 (intention)」がその条件である,と思われる.–– だが,何かにチャーチルを表象させようと意図するには,まずチャーチルについて考える (think about) 必要がある.–– すると,思考の諸形式が「それ自体として」何かを表象することは,いかにして可能なのか? あるいはそもそも可能なのか?
ここから幾人かの哲学者は,「心 (mind) が本質的に非物理的である」という議論へと飛躍した: 思考はアリのカーヴと異なり何かを指示できる.思考には志向性をもつという特徴がある––物は志向性をもたない (派生的にでなければ).–– これは性急であり,心に神秘的な力があると言うことは何の解決にもならない.しかし問題自体は本物だ: 指示はいかにして可能になるのか?
意味の魔術的理論
素朴な人々は,何らかの表象 (とりわけ名前) がその担い手と必然的な結びつきを有している,と考える.その力は名前とその担い手の魔術的結びつき (magical connection) から来る.だが,名前がその担い手と文脈的・偶発的・慣習的結びつきしかない以上,名前の知識がそのような神話的重要性をもつと考える理由はない.–– そもそも,物理的な像 (pictures) に当てはまる事柄は,心的なイメージや表象一般にも当てはまるのだ.
思考実験二例: 木の絵 (に似たシミ) が宇宙船から木を知らない宇宙人のもとに落ちてきたケース,非日本語話者が催眠によって (日本人のテレパスをも騙しおおせるくらい) 完璧に日本語がわかっている感じを得ているケース.ポイント: 思考や心的な像は,その対象を内在的に (intrinsically) 表象するわけではない.
水槽の中の脳の場合
水槽の中の脳事例––これはあらゆる神経系全体に見せられており,相互に交流する集合的幻覚 (collective hallucinations) でさえありうる.
問い: 我々が水槽の中の脳だった場合,そうだと言ったり,考えたりできるだろうか? 答え: 否.以下で論証する通り,それは自己論駁的.
いくつかのテーゼは,「それが心に抱かれたり言表されたり (entertained or enunciated) するときに,それが虚偽であることを含意する」とき,自己論駁的であると言われる (e.g.「わたしは存在しない」).水槽の中の脳はまさにそれと同様で,それが真か偽かということを我々が考察するなら,それは真ではない.したがって,それは偽である.
チューリング・テスト
チューリング・テストは,コンピュータに意識があるかどうかを調べるテストとして考案された.能力の対話的なテスト (dialogic test of competence) というのが,このテストの一般的な着想である.以下ではこの着想を別の目的に用いる.すなわち,対話相手が我々がするように本当に何かを指示している (the partner does refer to objects as we do) かどうかを調べる指示についてのチューリング・テスト (Turing Test for Reference) を考える.
問い: このテストは決定的 (definitive) だろうか? すなわち,このテストに通るものは必然的に指示を共有するだろうか? 答えは否である.私の対話相手が「イミテーション・ゲーム」をしている機械だったとすれば,その機械は,外界を何ら認識できない.二つの機械が互いにイミテーション・ゲームをするなら,仮に残りの全世界が消失しても,両者は互いを「騙し」合うだろう.–– 我々が物について語るとき,その語りは物との非言語的交流 (non-verbal transactions) と密接に結びついており,我々を一方から他方に導く「言語進入規則 (language entry rules)」と「言語退出規則 (language exit rules)」がある2.機械はそうした交流をもたない.
水槽の中の脳の脳 (再び)
水槽の中の脳は,上記の機械と違って,感覚器官の準備段階 (provision) となる求心神経系をもつ.それは脳であり,機能している脳である.これらは意識をもち,知性をもつように見える.–– それでも,これらの脳は外界の対象を指示できない.それらの脳が何かを指示できるとすれば,それは言語システムと非言語的な入出力とが連関しているからだ.だが,進入規則と退出規則によってセンスデータや運動信号と連関している思考は,外界の事物と全くつながっていない (アリがチャーチルとつながっていないのと同様に).そこには質的類似性しかないのだ.
議論の諸前提
水槽の中の脳が「自分の目の前に木がある」と考えるとき,それはイメージ上の木か,木の経験を引き起こす電子インパルスか,そのインパルスを生み出すプログラムを指すとしよう.(上記の議論はこうした想定を排除しない.) その場合,水槽の中の脳がそう考えるのは正しい.「木」や「目の前に」が水槽日本語 (vat-English) でそうしたものを指すのなら,真理条件は確かに充足されている.同様にして,「水槽」は水槽日本語においてイメージ上の水槽を指示するが,現実の水槽を指示しない.水槽日本語における「水槽」の使用は現実の水槽と因果関係をもたないからだ.すると,我々が水槽の中の脳だとすれば,「我々は水槽の中の脳だ」と我々が言うとき,それは我々がイメージ上の水槽の中の脳であることを意味する.だが我々が水槽の中の脳であるという仮定は,我々がイメージ上の水槽の中の脳であるということではなかった.要するに,我々が水槽の中の脳だとすれば,「我々は水槽の中の脳だ」は偽である.ゆえにそれは (必然的に) 偽である.
こうした可能性が意味をなすという想定は,二つの誤りから来ている.(1) 物理的可能性を深刻に捉えすぎていること,(2) 無意識のうちに指示の魔術的理論を用いていること.
我々の文化においては物理学を我々の形而上学とする傾向がある.すなわち真理は物理的真理であり,可能性は物理的可能性である.だが,以上見てきたように,これは誤りである.水槽の中の脳は物理的に可能である.この可能性を排除するのは,物理学ではなく,哲学である.
しきりに自らの職能を主張し,同時に最小化しようとする (典型的には20世紀英米の) 哲学者は,こう言うかもしれない: 「つまり物理的に可能にみえる事柄が概念的に不可能だということを君は示したわけだ.どこが驚くべきことなのか?」−− 私の議論は確かに「概念的」と呼びうるものだが,しかし言葉の意味についての探究 (inquiry about the meaning of words) をしているわけではない.我々は何かについて考え,表象し,指示する等々のことの前提条件 (preconditions) を考えているのだ.我々はこうした前提条件を「指示する」等々の語の意味から探究しているわけではなく,むしろアプリオリな推論 (a priori reasoning) によって探究している.ただし「絶対的な」意味でアプリオリなのではなく,「いくつかの一般的な事柄を前提したうえで,何が合理的に可能であるかを探究する」という意味でアプリオリである.そうした手続きは「経験的」ではなく,完全に「アプリオリ」であるわけでもない.経験的条件と完全に独立でないという点を除けば,Kant が望んだような「超越論的な」探究に近い.
議論の前提は二つあり,一つは指示の魔術的理論は誤りであること,もう一つは因果的交流なくして物の指示は不可能であることであった.なぜこれらを受け入れないといけないのかをより詳しく見ていく.
表象と指示対象の必然的結合を否定する理由
必然的に指示する心的表象のようなものがあるとすれば,それは概念の本性をもつ表象であり,イメージの本性をもつ表象ではない.だが,語を理解せぬまま,(催眠術によって) 理解した感覚をおぼえるということは想像可能である.そこから分かるのは,概念は語・イメージ・感覚,心的な現れ (mental presentation) であるわけではない,ということだ.概念は特定の仕方で用いられる記号であり,記号は使用を離れては概念ではない3; 記号それ自体は内在的には指示しない.
意味は単に頭の中にあるわけではない (cf. ブナとニレ,双子地球).何かについてあるイメージの体系をもちつつ,それについての文を状況に応じて適切に用いる能力をもたないということがありうるからだ.(条件をより緩和して,文ではなく,例えば数学者の脳内の青い閃光が素数定理の証明の表現であってもよい.(ただし,本質的に,文と同等に複雑でなければならない.数学者が青い閃光を証明へと解凍できる必要があるからだ.) そうであっても,上記の論証は同様に成り立つ.)
以上は『哲学探究』の議論の省略形である.これが正しければ,「現象学的」探究は根本的に間違っていることになる.現象学者が記述しているのは思考の内的表現だが,その表現の理解は出来事 (occurrence) ではなく能力 (ability) なのだ,という点を取り逃しているからだ.
以下が帰結する.(a) どんな心的出来事の集合も,理解を構成しない.(b) どんな心的出来事の集合も,理解にとって必要ではない.とりわけ,概念はいかなる心的対象とも同一ではない.概念は (少なくとも部分的に) 能力であり出来事ではないから.