- Peter Geach (1972) Logic Matters, Basil Blackwell.
- Ch.7. "Identity Theory", 238-249. (First published in Review of Metaphysics 21(1), 1967 & 22(3), 1969.)
Wiggins, SSR の批判対象のひとつ.さしあたり SEP の "Relative Identity", esp. §5 が参考になりそう.
- 以下では同一性が相対的であると論じる.すなわち「
は
と同一である」は不完全な表現であり,「
は
と同じ
である」の省略形である.ここで
はある可算名詞〔Reply の補記: 集合名詞でもよい〕であり,発話の文脈から了解される––さもなければ,中途半端な思想の曖昧な表現にすぎない.
- Frege は「
は一つだ」を「
は一つの
だ」の不完全な表現とみなした.一という概念と同一性概念の関連性に鑑みれば,Frege は同一性も同じように相対化しても良かったはずだ.しかし実際には,あくまで相対化の不可能性に拘った.
- Frege は「
- 一見して絶対的同一性は形式論理 (の一分野である同一性理論 identity theory) において予め前提されているように見える.古典的な同一性理論は,通常の量化理論 (quantification theory) に以下の図式 (1) を加えることで得られる:
.
- (1) から以下が導ける: 自己同一性の原理 (
),同一者の不可識別性 (
),対称性・推移性.
- (1) を古典量化理論に加えた体系は完全である.さらに,(1) の解釈は絶対的 (categorical) である: この図式を満たす任意の二つの二項述語 (two-place predicables1) はその適用において一致する.
- (1) から以下が導ける: 自己同一性の原理 (
- 古典的な同一性理論に挑戦するのは無謀に見えるが,しかしこの理論にも弱点はある.
を項が解釈されている理論とする.
における述語がI-述語である
その述語が
で構成可能なあらゆる表現について (1) を満たす.
- このとき I-述語は
に相対的だが,そのこと自体はまだ同一性の相対性を意味しない.理論に対する相対性とは「表現の意味は言語に相対的である」という以上のことではない.
- だが同時に,I-述語が絶対的同一性である必要もない.理論の記述リソースとなる諸述語 (Quine のいわゆるアイデオロジー2) によって識別不可能であればよいからだ.
- 「本当の同一性 (real identity) のためには理論
のアイデオロジーを導入する必要はない」とは言えない; 「
について何が真であれ」といった言葉づかいは Grelling のパラドクスや Richard のパラドクスを惹起する.
- また
のモデルで識別不可能な述語が
を断片とする理論
のモデルで識別可能ということはある.つまり
の I-述語が
の I-述語でなくなりうる.
- また
- したがって,I-述語を
(のアイデオロジー) に相対的な識別可能性のみを表現するものと考えるのが適当であると思われる.この場合,I-述語は絶対的同一性を意味するものではなくなる.
- このとき I-述語は
- だが Quine は絶対的同一性に対する強力な議論を提出しうる:
のある二項述語が同一性を意味するかどうかは
の量化子の解釈と連動する.I-述語が絶対的同一性を意味するように
の量化子の量化範囲を解釈し,それに応じて他の述語を解釈する必要がある.
- Quine の考えでは,(量化子がある以上) 存在論は比較的確定しており,アイデオロジーがその後に定まるのでなければならない.だが,I-述語を厳密な同一性として読むと,これは不可能になる.
が豊かな理論なら,
の断片
でI-述語であった述語
がある.どれがI-述語かということが量化範囲を大きく相違させうる.つまりアイデオロジーの若干の違いによって存在論の大変化を余儀なくされる.
- 宇宙 (the universe) が上述のごときバロック的・Meinong 的構造をなすという描像は Quine の選好と相容れない.むしろ,絶対的同一性を退け,「〜は〜と同じ A である」という二項述語を必要なだけ認めるべきである.そうすることで,存在論は制御可能になり,アイデオロジーも拡張可能になる.
- なお Locke が既に同様の考えを表明している.