SEP「論理学と存在論」 Hofweber, "Logic and Ontology" #2

  • Thomas Hofweber (2018) "Logic and Ontology" The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2018 Edition), Edward N. Zalta (ed.), pp.16ff.

記事「論理と存在論」の後半部 (第4章)。なお第5章「結論」は省略する。前半部では「論理学 (L)」「存在論 (O)」が以下のとおり分類された。後半部では,各々の意味での「論理学」と「存在論」の関係性を論じている。

  • L1: 人工的形式的言語の研究
  • L2: 形式的に妥当な推論と論理的帰結の研究
  • L3: 論理的真理の研究
  • L4: 判断の一般的特徴,ないし形式の研究
  • O1: 存在論的コミットメントの研究
  • O2: 何があるのかの研究
  • O3: 存在者の最も基本的な特徴と関係の研究
  • O4: メタ存在論の研究

4 重なり合いの範囲

4.1 形式言語存在論的コミットメント。L1 対 O1, O4

「数はあるのか? (Are there numbers?)」が (O4 の結論として) 数についての存在論的問いだとしよう。このとき,一つの戦略としては,我々の信念を「正規の記法 (canonical notation)」で表現することで,量化子の種類やスコープ等々を明示することができる。それらの量化子の変項の値を調べることで,(例えば数への) 存在論的コミットメントの有無を明らかにできる。

要するに,形式言語の量化子は自然言語の量化子をうまく捉えた類比物であり,形式言語の意味論は存在論的コミットメントを明らかにするのである。例えば '∃xFx' が真であるとは,量化のドメインにある対象があり,その対象が 'x' の値として割り当てられるとき,式 'Fx' を充足することである (対象的意味論 objectual semantics)。

だが,この方針には批判もある。第一に,対象的意味論は唯一の選択肢ではない。例えば「代入的意味論 (substitutional semantics)」を採用すれば,存在論的コミットメントを持たない仕方で量化子を解釈できる,と論じられている。

また別種の批判として,どの形式的道具を使うかはそもそも重要ではなく,信念が存在を含意するか否かが問題なのだ,とも論じられる。だが,これに対する反批判として,第一に「何が何を含意するのか」ということは明らかでなく,形式的方法はその決定に役立つ。第二に,Russell の記述の理論や Davidson の行為文の分析は,文の量化の対象をめぐる議論は,自然言語形式意味論なしには決着をつけられないことを示唆する。さらに,形式的道具のもう一つの用法は,多義性や異なる「読み」を明示し,各々の読みにおける推論に関する振る舞いをモデル化することである。

4.2 論理学は「何があるのか」に中立的か?L2 対 O2

論理的真理は論理定項の意味を固定した限りで保証される,とすると,論理的真理は分析的真理のよい候補となる。「そもそも分析的・概念的真理は存在を含意しうるか?」という問いは昔からある (e.g. 神の実在の存在論的論証)。「少なくとも論理は,主題中立的である以上,存在について中立的である」と主張する者は多い。だがこれに対し「論理的対象」を想定する者もある。

標準的な一階述語論理において '∃x x=x' は真であり,標準的な二階述語論理において '∃F∀x(Fx∨¬Fx)' は真である。とはいえ,このことだけからは,論理の非中立性は言えない。空のドメインを持つモデルを許容することも可能だからである。したがって,L2 の意味での論理的真理を捉えているのはどの形式体系 (L1) か,ということが,問題として残る。自由論理に関する議論もこれに関係している。

また以上の議論は二階論理の論理としての地位を巡る議論にも関連する。Quine はこの地位を否定するが,Boolos らは擁護する。また,論理の存在論的含意について重要なのは,Frege および neo-Fregeans の論理主義プログラムであり,この人々は算術を論理 (+ 定義) とみなし,それが数の存在を含意する,と論じる。

4.3 形式的存在論。L1 対 O2, O3

形式的存在論は,存在者の属性・関係を数学的に定式化する試みである。その哲学的野心の程度に応じて,(1) 表象的,(2) 記述的,(3) 体系的,の三種に分類できる。

  1. 形式的存在論は,情報を表象する有用な枠組みとして用いることができる。これは情報処理の自動化に役立ち,情報科学で研究されている。
  2. 記述的な形式的存在論は,特定領域の存在者を正確に記述することを目的とする。例えば,集合論が純粋な集合という領域を正確に記述しているとすれば,集合論は純粋な集合の記述的な形式的存在論であることになる。単に「表象的」な存在論と違い,唯一正しい理論であることが含意される。
  3. 体系的存在論は,あらゆる存在者 (あるいはその大部分) についての体系的理論を目指す。

表象的な形式的存在論は,逆説的ながら,狭義の存在論的問題から独立している。後半のより野心的な存在論がかりに失敗したとしても,形式的存在論はなお極めて有用な表象的道具でありうる。

4.4 カルナップによる存在論の拒否。L1 対 O4 および O2 (の終わり?)

Carnap によれば,科学者が使用できる枠組み (framework) を組み立てることが,哲学の極めて重要なプロジェクトの一つである。その枠組みとは,経験 (的証拠) との明確に定義された関係をその意味論に含むような形式言語である。Carnap によれば,枠組みの選択は科学者にとっての有用性・実用性の問題であり,世界を映し出す単一の枠組みがあるわけではない。

Carnap は「何があるのか」の問いを二種類に分ける。一つは「内部問題 (internal questions)」であり,これはある枠組みを採用したとき,それに応じて問われ,答えられる。このとき例えば「数はあるのか?」のような一般的な問いは完全に自明な問いである。他方,哲学者・形而上学者がこうした問いを問うとき,それはむしろ枠組みに内的ではなく,むしろ外的 (external) である。だが,「数はあるのか?」という問いを構成する語はそもそも枠組み内部でしか意味を持たないので,外部問題は無意味である。したがって,哲学者は O2 に関わるべきでなく,むしろ L1 に関わるべきである。そして,これが Carnap のプロジェクトであった。

この立場は様々に批判されてきた。一つは自然言語を科学・証拠・検証に緊密に結びつけすぎている,というもので,特に意味の検証主義的理解は単純すぎると考えられている。特に Quine の批判によれば,内部 / 外部問題の区別は,分析的 / 総合的真理の区別とともに拒否されるべきものだった。他方 Carnap と Quine は,安楽椅子的でアプリオリな伝統的存在論を拒否する点では一致している。(なお近年の一部の論者は Carnap の着想を部分的に復活させることを試みている。)

4.5 基礎的言語。L1 対 O4 および O2 (の新たな始まり?)

「何があるのか」という問いを存在論は扱うとしばしば考えられているが,他方,この問いは存在論が扱うにはあまりに些細である,という批判もある。批判者はむしろ「現実的か (real)*1」「基礎的か (fundamental)」「第一の実体か (primary substances)」等々を問うべきと論じる。とはいえ,「存在する」と「現実的である」の違いは明確でなく,「基礎的」という観念が期待される形而上学的重要性を持つかも不明である。この意味で各々の関係は明らかでない。

とはいえ,共通点として,こうしたアプローチはどれも,世界についての我々の日常的記述の真理性を受け入れつつ,世界のより深いあり方について留保しておくことができる。例えば,「机があり,数があり,価値がある」にせよ,現実自体はそれらを含まない,と言うことができる。("reality as it is for us" と "as it is in itself" の対比は,日常的記述を受け入れる余地を残す点で,"appears to us" と "really is" の対比と異なる。)

だが,そうすると,「現実それ自体」をどう特徴づけるかという L1 の役割の問題が浮上する。例えば,現実自体が対象を全く含まないとしたら,自然言語の主述構造は現実の描写に全く不適当であろう。そこで,ある哲学者たちは,新たな言語 ('ontologese',「基礎言語」) を見つけることを提案している。「現実は基礎的に・それ自体としてどのようであるか」を探求するという,改訂された O2 を行うための言語 L1 である。

とはいえ,もちろん,「現実それ自体」の意味は不明瞭であり,「基礎的」「実体」もそうである。さらに,基礎的な形式言語をどう理解するか,という問題もある。それは自然言語でもできる作業を行う上で補助的役割を果たすだけなのか,それとも「現実の実在」を分節するのに必須なのか。だが後者だとすると,基礎言語は自然言語に翻訳できないし,理解可能性そのものが問題になる。

4.6 思考の形式と実在の構造。L4 対 O3

思考の形式と存在者の一般的特徴には際立った対応関係がある (e.g. 主語/述語 - 個物/属性)。この対応関係を説明しうるとすれば,説明の仕方は三種類ありうる。思考の形式が現実の構造を説明するか (一種の観念論),その反対か (一種の実在論),共通の説明があるか (e.g. 神が対応を保証する)。

一見して,二つ目の説明を試みるべきことは明らかに思われる。例えば「世界の構造に適合する仕方で我々の心は発達したのだ」など。これは良い試みだが,少なからず思弁的である。事実は実際には異なる構造をしているかもしれないし,対応はこの進化論的理由からではなく,より直接的・形而上学的理由から得られているのかもしれない。

これと反対方向の試みは観念論に至ると思われる。最も有名なのは Kant の試みである。

あるいは,ここに説明すべきことはそれほどないのかもしれない。そもそも思考の形式に対応する構造を持たないかもしれない。e.g. 属性に関する唯名論。また真理の整合説を取れば,文の真理性には世界との構造的対応が要求されない。

*1:「可能的・潜在的」との対ではないので,適切な訳ではないかもしれない。「マジな」くらいのニュアンス。