『哲学探究』§36-38 「名指し=精神的作用」ではない

Philosophische Untersuchungen, §36-38. Blackwell 版,4ed. に基づく*1

§36. そしてここで私たちは,無数の似た状況で私たちがしているのと同じことをしているのである.すなわち私たちは,(例えば「色への」と対比される)「形への指示」と私たちが名付ける一つの身体的運動を述べることはできないために,「或る精神的なはたらきがこの言葉に対応しているのだ」と私たちは言うのである.

私たちの言語が私たちにある身体を想定させるが,しかし身体はない,という場合に,私たちは「精神がある」と言いたくなるのだ.

Und wir tun hier, was wir in tausend ähnlichen Fällen tun: Weil wir nicht eine körperliche Handlung angeben können, die wir das Zeigen auf die Form (im Gegensatz z.B. zur Farbe) nennen, so sagen wir, es entspreche diesen Worten eine geistige Tätigkeit. Wo unsere Sprache uns einen Körper vermuten läßt, und kein Körper ist, dort, möchten wir sagen, sei ein Geist.

§37. 名前と名指されるものの間の関係とは何だろうか? –– うーん,それは何であるのだろう? 言語ゲーム (2) を,あるいは何か他の言語ゲームを見てみよう.そこでは,この関係がいったい何に存するのかということを,見ることができる.この関係は,ごく一例を挙げれば,名前を聞くことで名指されるものの像が私たちの心に呼び起こされることにも存するし,また例えば,名前が名指されるものに書き記されることや,あるいは,名前が指し示されると同時に名指されるものの方に向けて発声されることにも存する.

Was ist die Beziehung zwischen Namen und Benanntem? - Nun, was ist sie? Schau auf das Sprachspiel (2), oder ein anderes! dort ist zu sehen, worin diese Beziehung etwa besteht. Diese Beziehung kann, unter vielem andern, auch darin bestehen, daß das Hören des Namens uns das Bild des Benannten vor die Seele ruft, und sie besteht unter anderem auch darin, daß der Name auf das Benannte geschrieben ist, oder daß er beim Zeigen auf das Benannte ausgesprochen wird.

§38. だが,例えば言語ゲーム (8) における「これ」という語や,「それは〜という」という直示的説明における「それ」は,何を名指しているのだろう? ––混乱を引き起こしたくないのであれば,これらの語が何かを名指しているとは決して言わないのが最善である.だがおかしなことに,「これ」という語について,それは固有名 (本来的な名前) であると,かつては言われていたのだ.私たちが普段「名前」と呼んでいる全てのものは,したがって或る厳密でない近似的な意味においてのみ名前なのだ,と.

この奇妙な見解は,私たちの言語の論理を純化しようとする傾向に起因する,と言うこともできよう.これに対する本当の答えはこうである: 実に様々なものを,私たちは「名前」と呼んでいるのだ.すなわち,「名前」という語は,語の多様な用法,多様な仕方で互いと似通っている用法を特徴付けている.––しかしながら,これらの用法のうちには,「これ」という語の用法はないのだ.

私たちがしばしば,例えば直示的定義において,名指されるものを指し示し,その際に名前を発声する,というのはおそらく本当である.また,同様に,私たちは例えば直示的定義において,ある物を指し示しながら「これ」という語を発声している.そして,「これ」という語と名前とは,しばしば文脈のうちの同じ位置を占めもする.しかし,名前に特徴的なのは,名前は直示的な「それは N だ」(または「それは N という」) によって説明される,ということに他ならない.他方で私たちは,「それは「これ」という」「これは「これ」という」とも説明するだろうか?

このことは,名指しをいわば或るオカルト的な出来事とする見解と関連している.名指しが語の対象との奇妙な結びつきであるように見えるのである.––そしてそのような仕方で,実際に,奇妙な結びつきは成り立つ.つまり,哲学者が名前と対象の関係なるものを抜き出すために,或る対象を凝視しつつ,幾度となく名前を,ないしは「これ」という語をも繰り返すときに,である.それというのも,哲学的問題が生じるのは,言語が羽目をはずすときだからだ.そして私たちはそのときたしかに,名指しは何らかの精神的な行為であり,あたかも対象の洗礼のようなものである,と思い込むのである.また私たちは「これ」という語をいわば対象に対して用い,それによって対象に呼びかけることもできる––これはこの語の奇妙な使用であって,おそらく哲学するときにだけ登場する使用である.

Was benennt aber z.B. das Wort "dieses"" im Sprachspiel (8), oder das Wort "das" in der hinweisenden Erklärung "Das heißt...."? - Wenn man keine Verwirrung anrichten will, so ist es am besten, man sagt garnicht, daß diese Wörter etwas benennen. - Und merkwürdigerweise wurde von dem Worte "dieses" einmal gesagt, es sei der eigentliche Name. Alles, was wir sonst "Name" nennen, sei dies also nur in einem ungenauen, angenäherten Sinn.

Diese seltsame Auffassung rührt von einer Tendenz her, die Logik unserer Sprache zu sublimieren - wie man es nennen könnte. Die eigentliche Antwort darauf ist: "Name" nennen wir sehr Verschiedenes; das Wort "Name" charakterisiert viele verschiedene, miteinander auf viele verschiedene Weisen verwandte, Arten des Gebrauchs eines Worts; - aber unter diesen Arten des Gebrauchs ist nicht die des Wortes "dieses".

Es ist wohl wahr, daß wir oft, z.B. in der hinweisenden Definition, auf das Benannte zeigen und dabei den Namen aussprechen. Und ebenso sprechen wir, z.B. in der hinweisenden Definition, das Wort "dieses" aus, indem wir auf ein Ding zeigen. Und das Wort "dieses" und ein Name stehen auch oft an der gleichen Stelle im Satzzusammenhang. Aber charakteristisch für den Namen ist es gerade, daß er durch das hinweisende "Das ist N" (oder "Das heißt 'N'") erklärt wird. Erklären wir aber auch: "Das heißt 'dieses'", oder "Dieses heißt 'dieses'"?

Dies hängt mit der Auffassung des Benennens als eines, sozusagen, okkulten Vorgangs zusammen. Das Benennen erscheint als eine seltsame Verbindung eines Wortes mit einem Gegenstand. - Und so eine seltsame Verbindung hat wirklich statt, wenn nämlich der Philosoph, um herauszubringen, was die Beziehung zwischen Namen und Benanntem ist, auf einen Gegenstand vor sich starrt und dabei unzählige Male einen Namen wiederholt, oder auch das Wort "dieses". Denn die philosophischen Probleme entstehen, wenn die Sprache feiert. Und da können wir uns allerdings einbilden, das Benennen sei irgend ein merkwürdiger seelischer Akt, quasi eine Taufe eines Gegenstandes. Und wir können so auch das Wort "dieses" gleichsam zu dem Gegenstand sagen, ihn damit ansprechen - ein seltsamer Gebrauch dieses Wortes, der wohl nur beim Philosophieren vorkommt.

要約

  • 前節までにおいて,対象のあるアスペクトの指示に「特徴的体験 (charakteristische Erlebnisse)」を見出す試みに対する批判がなされていた.
  • (36) こうした試みが,私たちの一般的傾向性に帰される: 私たちの言語使用が,特定の・単一の身体的運動の存在を我々に想定させるが,実際にはない,という場合に,「精神的はたらきがある」と言いたくなる.
  • (37) 名前と名指されるものとの関係は,その関係が結ばれる言語ゲームに応じて,様々でありうる (「両者の関係は〜である」という単一の定義はありえない).
  • (38) 指示代名詞は名前ではない (↔︎ Russell の「論理的固有名」論: 日常的な意味での「名前」は記述にすぎない).
    • Russell 的な理論は,「私たちの言語の論理の純化/昇華」への傾向に起因する.(この方向性は誤りであって,むしろ) 「名前」の多様な,かつ互いに類似した日常的用法に注目する必要がある; そのうちに「これ」は含まれない.
    • たしかに名前と「これ」の直示的定義における用法・文脈上の位置は似通っている.だが,〈「それは N だ」で直示的に説明できる〉という名前の (重要な) 特徴を「これ」は欠いている.
    • 両者の類同化は,名前と語のオカルト的結びつきを見いだす見解と親和的である.だがそうした結びつきは,哲学 (という言語ゲーム) をするときにのみ本当に登場するものである:
      1. 繰り返しによる一種の心理的連関の発生,
      2. 「これ」を本当に名前のように扱う (逸脱した) 用法.

§38 の論理的固有名論批判は,下線部の論点を通じて前節までの議論と繋がっている,とひとまず言える.

*1:ドイツ語のテキストデータは http://mickindex.sakura.ne.jp/wittgenstein/witt_pu_gm.html を用い,Blackwell 版の記法にもとづいて一部整形した.