実在論 Burgess & Burgess (2011) Truth, Ch.5

  • Alexis G. Burgess & John P. Burgess (2011) Truth. Princeton University Press.
    • Chap.5. Realism. 68-82.

ここは著者たちの好みがとくに露骨に出ていて,Truthmaker 理論などはずいぶんな扱いを受けている.

5. 実在論

実在論」は語義が広すぎるため,文脈を補わないとラベルとして意味をなさない.ここでは−−例えば普遍者や物質的対象に関する実在論ではなく−−,「真理は,真理の担い手と実在の或る部分・側面との適切な関係をともなう」という意味での実在論を論じる.

5.1 実在論 vs. デフレ主義

幾人かの実在論者がデフレ主義に向ける非難として,「デフレ主義は等価原理を前提するため,'Snow is white' が 'It is true that snow is white' を真にする (makes) という非対称性を説明できない」というものがある.これに対するデフレ主義者の応答は,「双条件文が定義上成り立つ場合でも,定義項と被定義項の間には非対称性がある,というのと同様である (e.g. 夫が死んでいるということが或る人を未亡人にする (makes))」というものだ.

インフレ主義者は,「定義項と被定義項の非対称性は哲学的に重要な意味で説明的な非対称性ではない」と反論するかもしれない.だが,真理述語の場合に哲学的に重要な非対称性があるかどうかは明らかではない.Google で "Why is it true p?" を検索すると,様々な分野の疑問が候補に挙がり,かつウェブ上の回答は決してただの "Because p" ではない*1."Why is it true that ..." "Why is it that ..." は平叙文をそのままの形で疑問文に変換する道具として使われているようだ.この観察はデフレ主義に整合する.

5.2 対応説

Russell や Moore は「事実=真なる命題」と考えたことがある (同一説) が,これは「事実が命題を何らかの重要な意味で真にする (make)」というデフレ主義批判の余地を残さないものであり,早々に「事実は真なる命題に対応する (corresponds) という見解に取って代わられた.なおヴァリエーションとして,真理の担い手は文や信念でもありえ,その対応物は事態や状況でもありうる.対応説内部の主な対立は合同論者 (congruence theorists) と相関論者 (correlation theorists) のそれである.

合同説によれば,真理の担い手とその対応物はともに構造をなし,構造の同一性ないし類似性がある (同型論者/準同型論者).他方の相関説は,真理の担い手と事実は全体として対応しているとだけ述べ,それ以上分析しない.––後者に対しては「デフレ主義に文飾を加えただけではないか」という批判がある.Austin は文タイプと状況の或る種類のあいだに記述的規約 (descriptive conventions) を措定し,文トークンと特定の状況のあいだに指示的規約 (demonstrative conventions) を措定した.これは多少は情報のある規定だが,多くはない.

だが前者の合同説については深刻な憂慮がある.

  1. 「雪は白い」のような原子文は論理的複合物ではない.––「雪と白さが対応物だ」と言ってしまうと,何が両者を一つにする (unite) のか不明になる.「例化だ」と言うと,今度は雪・白さ・例化の三者のメタ例化が必要になり,無限後退する.(真理の担い手の方にも同様の問題があるとしばしば言われる.)
  2. 否定存在言明 (negative existentials, e.g.「ヒッポグリフは実在しない」) に対応する事実が何かあきらかでない.特に対象と属性の構造的複合物を措定するような形而上学好みの論者 (metaphysically inclined theorists) には問題となる (e.g. 世界全体が対象,ヒッポグリフ抜きであることが属性,なのだろうか).

5.3 真にするものの理論

その結果 Russell は,複合文が真であることはただ間接的にのみ事実に由来する,という見解に至った (この見解は初期 Wittgenstein にも見られる).彼の論理的原子論は対応説からの重大な離隔である.

同様の離隔は今日の形而上学好みの論者は,対応をそれほど強調せず,真理が真にするもの (truthmaker, 以下TM) をもつという点をより強調する.或るTMが複数の真理の担い手を真にしてもよいし,逆もありうる.

だが否定存在言明の問題は残る.たとえば D. Lewis は,TM の措定のもとにある動機には共感的であった一方で,「否定言明の場合には偽にするもの (falsehood-maker) の不在によって真になる」と示唆した.TM 原理は「任意の二つの可能な世界状態 (world-states) について,世界が一方の状態にあるとき真であり,他方の状態にあるとき真でないなら,前者の場合にのみ存在するものがある」と表されるが,Lewis はこれに「ないしは後者の場合にのみ存在するものがある」とつけくわえ,真理の存在への付随 (supervenience of truth on being) (というより弱い) 原理を得るだろう.

事実や事態の構成要素を結びつけるのは何か,だけでなく,事実や事態はそもそも TM なのか,という議論もある.例えば個体の属性がそうだという議論があり,「トロープ」「抽象的個体」「クオリトン」のような様々な魅力のないラベルが付けられている.術語的相違が実質的な不一致と合わさって,TM理論は形而上学のなかでもきわだって曖昧模糊とした分野 (the murkier areas) をなしている.

だが Lewis が述べるように,TM 形而上学は本当のところそれほど真理と関係がない.なぜなら,TM論者の見解は,「雪が白いという事実が存在しなくても,(a) 雪は何らかの仕方で白くありうるが,(b) 雪が白いという命題が真になることはできない」というものではなく,むしろ (a) を否定しているからだ.「TM なくして真理なし」というスローガンは,「ものが或る仕方であるということが,何かがあるということを必然化する」と言い直せる.だから,ここではこれ以上 TM 理論に立ち入らなくても許されるだろう.

5.4 物理主義

論理実証主義者なら,「雪の白さ」と「雪が白いこと」のどちらが雪が白いことを真にするのかという議論に対し,「嗜眠力」をばかにするモリエールと同様の態度を取っただろう.加えて実証主義者には,真理概念さえ形而上学的で疑わしいものに思われていた.Tarski は真理概念の受容が実証主義者の物理主義と両立すると示した.現代では H. Field が,真理概念が (Field の理解する) 物理主義と両立するかどうかに疑いをかけている.

Field が望むのは,第一に次の関係単一の,一様な,一般的,物理的説明 (a single, uniform, general, physical account) であり––

  • (1) 人 〜 が用いる言語において,記号 〜 は対象 〜 を表示する.

究極的には次の関係の同様の説明である––

  • (2) 人 〜 が用いる言語において,記号列 〜 は真である.

これは実際きわめて野心的な目標である.これは形而上学的理論に対してもつ関係は,現代的な生理学的説明が virtus dormitiva に対してもつ関係と同じである.(2) の説明はさらに,デフレ主義が真理ではなく意味の理論だと主張するようなタスクを達成することになり,そうしてデフレ主義を論駁することになろう.

なぜそんなことが出来ると思ってしまうのだろうか? 二つの要因が考えられる.第一に Tarski の議論は (1) から (2) への道を開きそうに思われる.第二に Kripke の指示の因果説は (1) の与え方に示唆を与えているように見える.

Scott Soames を代表とする批判者は,第一の考えを批判する: Tarski は再帰的定義を完結させる上で否定,連言,選言等々の理解を前提するが,これらの物理主義的説明を与えるふりはしていない.

加えて,Kripke の議論にも誤解が見られる.彼の議論は指示を因果に (あるいは他の何かに) 還元する分析を与えているわけではないからだ.

以上のことは意気阻喪させる事実であり,Field も結局物理主義を放棄している.加えてそもそも,物理科学に限定してさえ,いかにして一般的で一様な説明を得られる見込みは薄いと言える.

5.5 有用性

物理主義的説明が必要だと思われるのは,一つには真理の有用性の説明に必要だと思われるからだろう.形而上学者は擬似説明しか与えず,デフレ主義はそれさえ与えない,と思われるかもしれない.

だが,デフレ主義の側からは反論が可能である.例えば次の形式の信念を行為を直接導く (directly action-guiding) 信念だと呼ぼう.

  • (3) これこれの仕方で行為することが,最も好ましい結果を生む.

このとき,「行為者が (3) を信じているなら,これこれの仕方で行為する」から「(3) を信じることが行為者にとって有用であるのは,(3) が真であるときである」ということが (デフレ主義に沿う形で) トートロジカルに帰結する.他の形の信念の場合でも,行為を直接導く信念に媒介されるという仕方で,(例外を正当に許す形で) その有用性を説明できる.

この一般的傾向性の他に,特定のケースについては説明すべきことが残る.「事物が語られる通りにある」という真理のデフレ主義的説明と並行的に,非言語的表象 (nonverbal representation) について,「事物が表象される通りにある」という正確さ (correctness) のデフレ主義的説明がありうる.しかし,特定のケースでは正確さについて何かそれ以上のことが言われるべきで,その「何かそれ以上」が有用性を説明するようにも思われる.例:「地下鉄の路線図が正確であれば,それは地下鉄のシステムと物理的関係を持っており,その物理的関係が乗客にとっての路線図の有用性を説明するのだ」.––デフレ主義者の答えは,「路線図がデフレ主義的な意味で正確であるとき,物理的関係が成り立つのだとすれば,それは,物理的関係の成立こそまさに路線図がものをその通りに表象する仕方だからだ」というものだろう.

なるほど,乗客にとっての路線図の有用性の真正な説明は物理的・生理学的なものだ,と言いうるような「説明」の科学 (主義) 的意味というものはありうるだろう.だが,デフレ主義者にとっては,それは (広義の) 意味の説明であって,正確さの説明ではないのである.

5.6 規範性

デフレ主義は真理を (準) 論理的概念とし,実在論者は形而上学的ないし物理的概念とする.こうした特徴付けは,中立的,非価値的 (value-free) である.いわゆる反実在論創始者 Dummett に淵源するデフレ主義・実在論批判の一つは,真理はむしろ評価的・「規範的」な語である,というものだ.すなわち,真でない主張 (assertion) は批判にさらされる,ないし––

  • (4) 真理は主張の規範である.

Dummett の好きなアナロジーで言えば,主張することと真理の関係は,ゲームすることと勝利の関係と同じである.デフレ主義の主張と類比的な主張は:

  • (5) ゲームに勝つことは,何であるゲームを規定する規則が「勝つことを構成する」と述べている事柄に存する.

だが,「 (6) 勝つことはゲームの目的だ」という原理なしには,勝ち/負けの区別の眼目 (point) が説明されずじまいになる.真理/虚偽の区別にも類比的なことが言える––区別の眼目を述べない理論は適切でない.

応答の一案は,何かが或る実践の規範とみなされることは,それについての外在的 (extrinsic) 事実にすぎない,というものだ.例えば「94フィート長であること」は,それがバスケットボールのコートの規範であったとしても,なお中立的・非価値的概念でありうる.真理が内在的に規範的であるには,(4) が真理術語の意味そのものの一部でなければならない.

だがむしろ (4) は「真」ではなく「主張」の意味の一部かもしれない.また (6) は「勝つ」ではなく「ゲームする (play)」の意味の一部と見なすべきかもしれない.

この回避策は,真理概念を主張概念に依存させる種類の (i.e. 真理述語の理解を T-双条件文の主張可能性と同一視する) デフレ主義には取れない.だが,(4) は「真理」の意味の一部でも「主張」の意味の一部でもない,と言えるかもしれない.それでもなお,子供は両者の意味を学んだとき,次の規則を学ぶことになるのであり––

  • (7) 真でないことを主張してはいけない.

(4) は規則 (7) の存在のジャーゴンを用いた言い方に過ぎないと言えるのである.

例えばつぎのようなシナリオが考えられる.子供は最初に「〜と言ってはいけない」形式の禁止を受けた後,これには例外があると教えられる (アヒルが泥まみれになっていないときは,"The duck in the muck" と言ってはいけない––ただし,韻文を暗唱するとき,ごっこ遊びをするとき,等々の場合は別である).なぜ規則 (7) やその例外が必要なのかはあきらかだ (もっとも「お父さんがハンマーで指を打ったときの言葉を言ってはいけない」という規則には例外はないかもしれない).後になって「真理」と「主張」概念を学んだなら,規則を (7) の形で言い表せるようになるだろう.しかし,この規則がこれらの語の意味の理解の一部であると考える必要はない.––こうした応答は,少なくとも一見して尤もであろう.

*1:そりゃそうだ.