今週読んだ本

すこし落ち着いてきたのでブログを再開する。今週はあんまり専門の勉強と関係ない本ばかり読んだ。

星野保『菌世界紀行』

「雪腐病菌 (ゆきぐされびょうきん)」の研究者による,調査旅行のようすをつづったエッセイ。雪腐病菌というのは,寒冷地域で雪に埋もれた植物に感染する菌類のことで,代表的なものにピシウム *1,ボレアリス*2,イシカリエンシスやインカルナータ *3 などがある。

こうした菌類についても興味深い話は書いてあったが (例えば,一定周期で親世代が死なない*4場合があり,イシカリエンシスもそうで,ひとたび環境に適応しても親世代との交配で変化がキャンセルされ進化速度が遅く,地球上広範囲に存在するにもかかわらず遺伝子に地理的な差が生じていない,など),どちらかというと調査の苦労譚などが叙述のメインになっている。世紀末のロシアはとにかく大変で,それに比べればケベックは天国だった,とか,万事そういう調子。それはそれで別に良いのだけど,菌類の話を期待して読んだので若干あてがはずれた。

さいわい巻末に菌類関係の参考文献が三冊挙げられている。松本直幸『雪腐病』北海道大学出版会,2013年;国立科学博物館編『菌類のふしぎ』東海大学出版会,2008年;細矢剛『菌類の世界』誠文堂新光社,2011年。二つ目は大学図書館でぱらぱらめくってみた感じかなり良さそう。他は現時点では所蔵されていない。

石井進鎌倉幕府

源頼朝が挙兵した1180年から説き起こし,北条執権政治が転機を迎える時頼死去 (1263年) の辺りまでを論じる。重要な論点については史料の読み方などをその都度しめしつつ,全体として物語的で生彩に富んだ叙述がなされている。このあたりのバランスが絶妙で,たとえば実朝暗殺の様子の描写などはほとんど時代小説の域に達している一方,この箇所が創作を含んでおらず,専ら『愚管抄』と『吾妻鏡』から批判的に取材されているしだいは,巻末の山本博也の解説で明かされている。なおこの出来事について,著者はまた,永井路子『炎環』という小説が示す解釈を肯定的に引きつつ,実朝暗殺の首謀者を義時とみる通説をくつがえし,真の黒幕は三浦義村であるという見解をうちたててているが,こうしたあたりは,フィクションと歴史叙述の関係という視点から見ても興味ぶかい。他方そうした物語的叙述のあいだに,政治的・軍事的あるいは地理的背景の明快な整理とをさしはさみ,メリハリのきいた歴史書となっている。個人的にはこのあたりは全く無知で,頼朝から先の将軍の名前を一人も言えないくらいだったのだけど (なので全然良い読者ではないが),それでも大変楽しめた。

内容について言えば,前半部で一介の流人に過ぎなかった頼朝が幕府を樹立するまでを描き,後半部では,頼朝の死後,承久の乱を経て将軍が名目化し合議的な北条執権政治が誕生,さらにそれが変質し得宗専制政治へと向かう様子が描かれていく。分析の一例として,「石橋山の合戦で一旦敗れた頼朝が,ただちに関東武士団の支持を得て復活したのはなぜか」という問題についてメモしておく。これは幕府成立という出来事を理解する要石となる大問題なのだけれど,次のような政治的背景に鑑みれば容易に解けるという。すなわち,12世紀後半は関東平野の大開拓時代であって,武士団とは「館を中心とする開拓農場の別名であり,その政治的表現にほかならな」かった (35頁)。いったん農場主 (別名の名主) と認められた者の所領の支配権は,しかし全然安泰ではない。そのため彼らは,徴税を請け負う郡司・郷司の諸特権を狙い,あるいは庄園として寄進しようとするが,いずれも所領確保の確実な手段ではなかった。そこで彼らは,この不安定な状況を脱するため,天皇の血筋を受け,実力をも有する「武家の棟梁」源氏のもとで,自らの発言権を高めてゆくことを目指した。頼朝はもとより先代義朝の長子として資格充分であり,かつこうした武士団のニーズをよく理解していた,ということが,成功の秘訣であったという。なお「鎌倉幕府の成立」は今日の教科書的には1185年となっているが,著者はこの説の合理性をみとめつつも,すでに南関東に軍事政権が成立していた事実をもって1180年に遡らせている。

伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』

実は初めて通読した。あと二周する (かなりクリアーなので二周もすれば充分血肉になると思う)。読んだ直接のきっかけは少し以前に友人に動物解放論の話をされて全然ピンとこなかったことで,「種差別」とか言ったもん勝ちか?と思っていた面が正直あったのだけど,かなり robust かつ込みいった議論がなされていると分かった。個人的に引っかかるのは普遍化可能性の概念で (ちなみに自分が普遍化可能性の基準とカントの定言命法を混同していたことにも今回気づいた),とりあえず参考文献に挙げられているヘア『道徳の言語』,同『自由と理性』はいずれ読む。

須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』

50年代なかばから60年代末までイタリアへ留学した著者が,ミラノという舞台にやって来ては去ってゆく人びとの生を,深い愛情と懐旧の念をこめてあざやかに描いたエッセイ。徹底して著者の眼から retrospective に描かれているので,登場人物の中では視点に位置する著者一人の人物像だけがあまりはっきりと見えてこない。*5だからほんとうはまだ文章の半分しか読めていないような感じもある。

*1:正確には Pythium iwayamai, 筒状の菌糸を持ち成長が速い

*2:Sclerotinia borealis, ネズミの糞状の菌核で夏を越し晩秋に発芽する。特に寒冷な地域にのみ生息し日本では北海道と北上山地で発見されている

*3:Typhula ishikariensis / Typhula incarnata, 子実体のかたちからガマノホタケとも。交配型が三つあり,一つは北極圏に広く分布する

*4:少なくとも死ぬことが知られていない

*5:温かくも平静で客観的な叙述の性格におうじて,著者の描写にはどこか遠視的なところがある。彼女はたとえば夫の死についてもほとんど紙幅を費やしていない。