7月に読んだ本


子安宣邦本居宣長

1992年の岩波新書の加筆版.先月読んだ『〈古事記〉講義』が面白かったのでこちらも読んだ.宣長の『古事記伝』を対象とし,これを『直毘霊』における「皇国みくに」の「自己神聖化」のイデオロギーに端を発する試みとして批判的に読解する.『古事記』テクストの特権性,字義的解釈の正当性,「皇国」の優越が互いに互いから導かれ全体としてトートロジカルになっているというのが批判の骨子.

なるほどそうかとも思う一方で,総じてネガティヴな本書の宣長評価に接すると,では逆に宣長の手続きはどこまでなら適正だったのかということも気になってくる (たんに異様な前提をもとに異様な読解をしたというだけではないとすれば).例えば著者は,戦後の折口信夫の,神道の「根本」を仮定し「後入要素」の排除によってこれを求めるアプローチを,宣長の議論と同型のものとみなし,宣長的な議論が近代の神の言説をも規定している証拠とみなす (172-181頁).だが,これくらいの類比であれば,宣長の議論と通常の文献批判 (が踏む手続きの一部) の間にも成り立つのではないか.こうした意味で宣長が近代に与えた影響のうちの寄与と逸脱とをセットで論じる議論が読みたいと思う.

このほか (もっぱら『古事記』を原典とする) 宣長と (その背後を想定する) 篤胤の対比,宣長が『古事記』から (正しく) 読み出す一神教的要素,などの論点が提起されている.前者については著者の別著作を参照すべきだろう.

『モミッリャーノ 歴史学歴史学する』

史学史7編 (著名な "Ancient History and the Antiquarian",そのほかヘカタイオス,ヘロドトス,Gibbon, Niebuhr などを扱う論文),および初期ローマ史に関する2編を収める.

読みさしにしていたのをともかくも通読したが,特にローマ史・史学史の基礎知識が自分に欠けていることもあって,理解は全然追いついていない.まず Niebuhr が誰なのかほとんど知らないし1,"Antiquarian" 論文も撥ね返されてしまった感が強い.それでもギリシャ側の議論は相対的には追えたと思う.たとえば第一論文「ヘカタイオスの合理主義」を見ると「クセノファネスはこっち側,ヘカタイオスはあっち側」という哲学側の線引きの恣意性がよくわかる (恣意性自体はもとより自明だが,現に内容上の連続性と共通の背景がはっきり見通せるという意味で.ギリシャ哲学研究者はこの論文だけでも読むべきだと思う).またローマ史でもわずかな史料からの綿密な議論を通じて王政期-共和初における〈パトリキ-プレブス〉対立構造の生成過程 (!) を叙述する「patrici/plebs 二元構造に関する考察」は (やはり妥当性は全然判定できないが) exciting に感じた.

ユルスナール『東方綺譚』

「オリエント」(スラヴ〜インド〜中国〜日本) の神話・物語に取材した短編集.セルビアの英雄譚から源氏物語の補作まで.玉石混淆の印象だが,「老絵師の行方 Comment Wang-Fô fut sauvé」は多田智満子の流麗な訳文も相まって水際立っている.

松沢裕作『日本近代社会史』

慶應経済の社会史の講義をもとにした教科書.第一次世界大戦までの近代日本社会を,資本主義経済の浸透,および個人と集団の,および諸集団間の社会関係の再編成という観点から論じる.「資本主義経済の浸透」とか「身分制の解体」とかいうことで実際のところ何が起きていたのか,「家」制度というのがどういうもので,いかなる意味で社会の基本単位をなしていたか,といったことが,図表を交えて非常にクリアに説明されている.末尾の15章では『それから』の引用を起点として修養主義の勃興なども叙述されるが,背後の社会構造のくっきりした描像をもっていると思想の意義もくっきりしてくるということを明快に例証していると思う.


  1. 熊谷英人「ある政治史の出発: B. G. ニーブーアのローマ王政論」『政治思想研究』15, 125-158, がいくらか理解の助けになった.また Cf. 児玉寛「ニーブーア『ローマ史』序論の翻訳と訳注 (1) (2)」『龍谷法学』.